さて前回は、八月革命説では新憲法下の天皇の存在は『新設された地位』と解釈されると話しました。
それは國體の断絶を意味し、更に憲法無効説も旧新憲法間の法的連続性を否定する為に結果的に國體の断絶に繋がりかねないと話しました。
法的連続性を否定しても、國體が断絶する訳ではない!と主張する方もおられます。
憲法より天皇の存在は上で、國體も憲法には関係ないとするものです。
確かに一理あるように思えます。
しかし、帝国憲法は草案者井上毅がそれまでの我が国にあった不文法の慣習法を成文化したもので、如何に天皇の地位や大権を表現するかに重きを置いていた事がわかります。
それらを考えれば憲法による天皇の法的地位は軽くはありません。
その辺りは後に述べたいと思います。
ともかく八月革命説は更に現憲法における皇室は終戦以前の歴史的慣習には一切拘束されないとも解釈しています。
それは『現憲法の天皇制度が過去の前例を踏襲する必要はない』と言うようなものです。
改正憲法説に立てば、憲法改正により変更はあるものの、天皇の存在や地位の本質は帝国憲法と日本国憲法を通じ法的に連続してるので、歴史的に連綿と続くと解釈されます。
憲法無効説に立てば、現在も帝国憲法が有効で、帝国憲法下での天皇が現在も存在していると解釈されます。
上記のように、どの説に立つかにより現憲法による天皇の理解が根本的に変わってしまいます。
これは天皇に関する憲法解釈も大きく異なってしまいます。
解釈が異なるとどうなるのか?
皇室制度、天皇の国事行為、宮中祭祀、皇室の伝統行事などの解釈に影響を及ぼす可能性があるのです。
それだけではなく、ひいては日本の国家統治に関する理解をも左右しかねません。
八月革命説を用いれば、帝国憲法下では主権者であった天皇は、ポツダム宣言受諾により、その主権を放棄し、新たな主権者『国民』の総意に基づく象徴天皇に就任した事になります。
つまり法的連続性を完全に否定する説が主張されてしまうのです。
帝国憲法の天皇と、日本国憲法の天皇は名称は同じではあるが、全く別物で『今までと同じ様に「天皇」とか「天皇制」とか呼ぶのは間違いだ!
と、なってしまい。
『何か別の名称で呼ぶのが正しい!天皇制はそれほどに変化変質している』
と、主張されてしまいます。
旧、新憲法間の天皇を別物だとすると、現憲法の第一条の解釈も『天皇は日本国の象徴』と規定する趣旨を『これは天皇が国の象徴だ!』と強調するよりも『天皇は国の象徴たる役割以外の役割を持たない』と解釈されてしまいます。
更に酷いと、憲法第三条を以って『天皇は内閣の助言と承認を得る、何らの実質的権力を持たない、ただ闇雲に目クラに判を押すだけのロボットの様な存在だ』と主張する者まで現れる始末です。
天皇はただの象徴だ!
天皇は単なる象徴に堕ちた!
と、主張されてしまいます。
現在の中学における教科書の大半は、この様な見解を前提として象徴天皇を説明しているのです。