第6章 フランス共和国臨時政府
ローズヴェルトの戦後構想では、アメリカ、イギリス、ソビエト連邦、中国による「四大国の執政官政府が諸々の問題を取り決める。国際連合の議会が、この四大国の権力に民主主義的な様相を与える」というものだが、そこにはフランスは含まれていなかった。p182
アルザス、ロレーヌを取り戻せば、それで十分なのではなかった。少なくとも「偉大でなければフランスではない」と考えるドゥ・ゴールには受け入れがたい。仮に敗戦国でなくなったとしても、まだ戦勝国ではないからだ。勝ったと声を大きくしたいなら、フランスは他の連合国に増して、ドイツに攻め入らなければならないのだ。p198
その結果ヤルタ会談で、フランスにドイツにおける占領区域のひとつが委ねられた。
また国際連合においても安全保障理事会の常任理事国の席が与えられることが決まった。p201
ヴィシー政府のみ代表されていたら、フランスは戦勝国になっていなかった。
ジローの政権が続いていたら、アメリカの傀儡国家になっていた。p210
第7章 第四共和政
政界から引退し、シャンパーニュの片田舎、コロンベ・デ・ドゥー・ゼグリーズに退いたドゥ・ゴール
しかし1947年4月7日、ドゥ・ゴール人気の高いストラスブールでフランス国民連合(RPF)が結成され復活
アルジェリアは他のどんな植民地とも違っていた。すでに百二十年余の歴史があり、地中海の対岸という地理的な近さがあり、フランスと一体であるという感覚は、もはや揺るがなくなっていた。p229-230
アルジェリア問題をきっかけに、ドゥ・ゴール待望論が再燃
第8章 第五共和政
1958年6月4日、アルジェリア総督府のバルコニーに進んだ。その大きな身体で長い腕をいっぱいに伸ばし、V字を作るという得意のポーズを見せたから、もう人々は増すばかりの期待感に、いっそうの歓呼を叫ばざるをえなくなったのだ。p248
(ペクレスさんも、大統領候補に指名された時、同じようなポーズをしていたかな?)
戦勝国で国際連合の常任理事国フランス、その地位の危うさが1956年のスエズ動乱で顕れた。だからこそ、アルジェリアを譲れなくなってしまった。
アメリカと距離を置いて、なお一等国たる地位を保つためには、政治的、経済的、軍事的にドイツと連帯するのが、ドゥ・ゴールの構想だった。p271
ドゥ・ゴールは核兵器の開発を叱咤した。金に糸目をつけない急ピッチの開発だった。p274
第9章 アルジェリア問題
1961年のアルジェリアの反乱は終息。
ドゥ・ゴールは声だけで叛徒と戦い、それに勝利した。
それゆえ「トランジスタの勝利」と呼ばれる。p289
何度もテロの標的になるドゥ・ゴール
1962年8月22日のテロ未遂が一番危なかった
仕事鞄の中の亡き娘アンヌの写真の金属製の額の縁で、また別の弾丸が止まっていた。p299
第十章 偉大なるフランス
学生運動に対するドゥ・ゴール
以前ならデモでも、暴動でも、クー・デタでも、扱いを取り違えることなどなかったと。それが見通し甘く、無理押し一辺倒になったあげく、事態を悪化させたとするなら、おかしいと。政治家としての力が落ちたのかと。じき七十八を迎える男の、これが老いというものかと。p326
エピローグ
ドゥ・ゴールの墓はパンテオンではなく、コロンベ・デ・ドゥー・ゼグリーズに置かれている。墓石にはシャルル・ドゥ・ゴール(1890- )とだけ刻み、あとは何も刻むなかれ、と遺言に書かれていた。
(森鷗外の墓を思い出した)
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