民俗学・台湾・国際連盟
柳田國男と新渡戸稲造
佐谷眞木人 著
講談社 発行
2015年1月10日第1刷発行
講談社選書メチエ591
はじめに
今日に続く日本の民俗学は日露戦争後の二十世紀初頭に、新渡戸と柳田という二人の農政学者によって創始されたといえるのだが、このとき学問の大きな枠組みを示したのが新渡戸であり、その枠組みにしたがって内容を実際化していったのが柳田だった。p7
柳田民俗学は国際連盟委任統治委員の仕事を方向を変えて引き継いだもの、と考えている。台湾や国際連盟と民俗学の関係は、文化研究の政治性を媒介とした国際政治から郷土研究への鮮やかな転換なのであり、両者はいわば陽画(ポジ)と陰画(ネガ)の関係にある。p9
第一章 台湾というフィールド
第二章 「土俗学」から「地方学」へ
日本の人類学者による国内の「土俗調査」は、イギリスの社会人類学者タイラー(1832~1917)の影響を受けた人類学(アンソロポロジー)を直輸入したもので、それは、もともとイギリスでは「未開民族」を対象とした学問だった。
日本の人類学者はそれを国内の地方文化研究に応用したのだから、当然そこには中央と地方のあいだにある近代化の格差や、教育の格差の存在を前提とする、差別的な視点が含まれることとなる。p46
新渡戸による、ハイマート・クンデの提唱
ドイツで盛んだったハイマート・クンデ(地方教育、郷土教育)
地方(郷土)を研究することは郷土愛と結びつく。みずからの歴史を知ることによって、自信と誇りを持つための学問。それが、「地方学」p62-63
第三章 柳田、新渡戸と出会う
地方の発展は農業の振興だけでは限界がある。真の地方の豊かさを実現するためには、地方文化の衰退を食い止めるべきだ。それは都市の文化を地方に押しつけるのではなく、地方独自の文化を尊重することから生まれの。柳田が新渡戸の講演から感銘を受けたポイントは、おそらくそこにある。p66
新渡戸の講演によって、台湾と日本を類似的に見るという示唆を受けた柳田は、「郷土会」とはまったく異なる方向へと想像力を働かせてもいた。それは台湾の「生蕃」と同じような先住民「山人」が日本にもいた、あるいは現在もいるのではないか、という想像である。p73
山人の実在が否定されるなかで、「なぜ、日本各地に天狗や神隠しの伝承が残存するのか」という問いは、「山人が実在しないにもかかわらず、なぜそのような存在が幻想されるのか」という問いとなり、日本人の民間信仰のありかたという問題へと鮮やかにシフトしていく。p78
柳田の持つ民間信仰や民間伝承に対する強い興味は、新渡戸にはあまり見られないものだ。それは新渡戸が敬虔なキリスト者だったことも関わっていよう。農政学から植民政策学へと一貫して社会科学の領域で仕事をしてきた。
一方、柳田は文学や歴史、宗教といった人文系諸学問への関心が強かった。日本人の精神生活へと研究を進めていったのは、彼の本来の興味にひかれてのことだ。p79
自身が官僚として大学の外部にいた柳田は、大学という研究システムの内部や、ほとんどが大学研究者のみの学会員で構成される「学会」という閉じたサークルの中で研究がなされることを好まなかった。執筆者の職位やキャリアに関係なく、すぐれた論考は掲載していくというのが柳田の編集方針だった。それは「地方からの情報発信」を可能にした。
第四章 ジュネーブ体験
なぜ、新渡戸は外交経験の全くなかった柳田を国際連盟の委任統治委員に推したのか?
・貴族院書記官長を辞任に追い込まれた柳田を救うという意図
・柳田と新渡戸の思想的な近さ
・柳田は外交官になりたいという夢があり、それが新渡戸にも伝わっていたのかもしれない。
柳田は渡欧するまでエスペラントに関する知識はほとんどなかったと思われるが、ジュネーブに着くや否や、新渡戸のエスペラント熱に巻き込まれていく。
そして国際連盟におけるエスペラントの地位獲得には、新渡戸以上に積極的になる。
しかしエスペラントにおいてはフランスが不倶戴天の敵で、エスペラント運動は挫折する。
柳田はフランス語の個人レッスンを受けており、若い頃はアナトール・フランスの愛読者でもあった。
柳田が問題にしたのは、国際公用語としてのフランス語の持つ政治性であった。
また外国人がフランス語を話すことによって、その発音のわずかな訛りや言葉遣いの間違いなどから、逆に嘲笑され、差別されるという事態が起きる。そこには、非ヨーロッパ人がヨーロッパ文化に近づけば近づくほど、逆に彼我の格差が可視化するという矛盾が構造化されている。
柳田による報告書「委任統治領における原住民の福祉と発展」(原文は英文)
宗主国の文化を一方的に押しつけるのではなく、原住民に固有の文化を最大限に尊重する態度
しかし国際連盟の委任統治政策に目に見える影響力を行使しえなかった。
その理由として
・柳田に十分な語学力や国際政治上の人脈がなかった
・柳田以外に民族学の専門家や非ヨーロッパ人がいなかった
・マイノリティの文化に対する世界的関心が未熟だった
また、この報告書は、台湾や朝鮮などの日本の植民地における同化主義に対する批判でもあった。
そして更には、この報告書は、植民地統治に関する研究成果を新渡戸に対して提出したレポートでもあった。
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