柳田國男を歩く
肥後・奥日向路の旅
江口司 著
現代書館 発行
2008年11月15日 第一版第一刷発行
柳田國男が宮崎県東臼杵郡椎葉村へ足を踏み入れたのは、明治四十一(1908)年7月13日のことであった。
肥後・球磨・奥日向路行程の中に含まれていたものであった。
その時の柳田國男は明治政府の高級官僚であり、椎葉の山人にとっては、ふいに訪れた異人(まれびと)でもあった。
翌、明治四十二(1909)年二月には、その時の所産ともいうべき、日向国奈須の山村において今も伝わる猪狩りの故実『後狩詞記』が生まれる。
2007年、著者は柳田國男が歩いた道をたどる小さな旅に出かけた。
そして柳田の旅の謎に迫っていきます。
柳田を椎葉村に向かわせた二人の近世の旅人
橘南谿
京都を中心に諸国を歩いた医者であり旅行家として『西遊記』は天明三(1783)年三十一歳の頃九州を歩いた時の記録。p23
古川古松軒
天明三(1783)年五十八歳の時敢行した旅の記録が『西遊雜記』p25
二人とも人吉まで行くが、那須・椎葉村には足を踏み入れていない。
柳田の旅の特徴を一言で言えば、「草鞋で歩く」であろう。
そしてもう一つの趣向は、峠越えであろう。
柳田の椎葉行きの目的の一つが、焼畑の山茶生産の経済的意義を調査することであった。p42
熊本県の茶業界の礎を築いた一人に、後に可徳商会を興した可徳乾三。p43
可徳商会のことは石光真清の「曠野の花」の中に可徳商会の阿部という茶を売って歩いた立派な人物に北満で逢っている記事がある。
阿部とは、熊本学園大学の母体であった東洋語学専門学校の創設者で初代校長だった阿部野利恭のことであった。p44
天草路の旅の一番の目的であったと思われる大江教会を訪ねる柳田。
そこでフランス人のパアテルさんことルドヴィコフ・ガニエル神父に会う。p73
明治の土地所有法制化の最中で起きた焼畑訴訟は換言すれば小作争議であり、重要な国家の土地問題なのである。
また人吉のキーワードから、柳田が敬った近世の旅人が果たせなかった「奈須・椎葉村」踏破も含まれていたに違いない。
このことを下賎に言えば「趣味と実益を兼ねた旅」となる。p92
柳田の発言の中で
九州の産地では、今日尚明に畑と畠を区別して居ります。
畠は字の如く白田でありまして、常畠、熟田のことです。
畑は即ち火田、焼畑であります。p110
柳田国男には峠が似合う。「峠越えのない旅行は、正に餡のない饅頭である」「境の山には必ず山路がある」
明治四十三年「峠に関する二三の考察」の一文だ。p125
柳田のいうように焼畑は掠奪農法であり、禿山や災害の根源であったのであろうか。私(著者)はそうは思えない。p147
私たちが忘れてしまったような古い文化習慣をまだ残していた山里では、つい最近まで、正月は、特に元日と三日は少しもめでたくはなかった。p214
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます