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望遠鏡以前の天文学 古代からケプラーまで(前半)

2024-03-01 21:00:28 | ヨーロッパあれこれ

望遠鏡以前の天文学

古代からケプラーまで

クリストファー・ウォーカー 編

山本啓二・川和田昌子 訳

恒星社厚生閣 発行

2008年11月5日 初版第1刷発行

 

肉眼しかなく、器具も不十分な時代でも、一生懸命に天を観察し、記録に残し、理論立てていった先人の苦労が偲ばれます。

 

序文

17世紀前半に最初の天体望遠鏡が現れる。

 

ギリシャ人が平板な地球という理論を退ける。

しかし地球が中心という考えは、ニュートンの時代まで一般的には続いていた。

 

天文学と占星術のどちらが最初に生まれたかを問うことは、鶏と卵のどちらかが先かを問うことに似ている。

古代のほとんどすべての天文学者は、占星術師でもあった。

 

コペルニクスは1543年に『天球の回転について』の出版によって太陽中心説を改良し

1609年には望遠鏡が使われ

1687年にはニュートンが『プリンキピア』を出版し、天文学は近世と呼ばれる時代に入る。

 

第1章 エジプトの天文学

エジプトの位置天文学の初歩的な形態である技術により、365日という時の単位、夜と昼それぞれの12区分、そして比較的正確な太陰暦を生み出した。

 

エジプト最大の伝説のひとつである、ラーに生命を与えた天の女神ヌウトの神話は、時間計測と暦の両方の発展に影響を及ぼし、神聖なる王権という概念を生み出し、王位の母系継承につながった。

ヌウトは天に広がる裸の女性として描かれた。太陽はその口に入り、星の斑点のある体を通って、産道から現れるように見える。

 

ピラミッド時代とも呼ばれる古王国時代は、二重の暦体系、強固な経済、そして宗教的な規律を享受していた。そしてそのすべては基本的には太陽、月、惑星の観測に基づいていた。

 

第2章 メソポタミアの天文学と占星術

イラクで仕事をしたことがない人々は、メソポタミアの天文学者が晴れた夜空に助けられたということをしばしば述べているが、これは事実ではない。

月と惑星の最初と最後の見という最も重要な現象は、地平線近くで起こるが、メソポタミアの地平線は塵と暴風雨でよく不鮮明になることがある。

 

バビロニアの天文学者・占星術師は、遅くとも紀元後1世紀後半まで、バビロンのベール神殿で生きながらえていた。しかしその時までには、彼らの天文学的伝統の実質的な内容は、すでにギリシャ人の手に移っていた。

 

第3章 プトレイマイオスとその先行者たち

古代ギリシア人にとって、天文学は実用的なものだった。すなわち、それは十分な暦がなかった時代には、農作業や宗教儀式を行う時を決めるための手段だった。

 

古代ギリシア人は、多くの星や星の集まりを確認していたが、目に見える全天を星座に分けるという考えはなかった。

 

ギリシア天文学の将来にとってきわめて重大な展開が見られたのは、前5世紀に、はるかに進んでいたメソポタミアから知識が伝えられてからである。

 

アテネのメトンがギリシア最初の「科学的」天文学者だったと考えられている。

なぜなら、まず彼は実際に観測をし、次に伝統的な農事暦を常用暦に合わせようとしたからである。

 

幾何学を天文学に適用するという試みを、ギリシア人が初めて行った。

 

サモスのアリスタルコス(前3世紀)が、今では「太陽中心説」と知られる体系を打ち立てるに至ったが、それは古代ではほとんど評価されなかった。

 

ギリシアの数理天文学を記述的なものから予報の学問へと変容させたのはヒッパルコスであった。

 

プトレマイオスは130年から175年頃までアレクサンドリアで活躍していた。天文学書「アルマゲスト」を書く。

 

アルマゲストにより最高潮に達したギリシア天文学は、幾何学に基づく理論(ギリシア独自の知識)と観測に数値に基づく予知(ヒッパルコスを介してメソポタミアに由来する)という天文学へのアプローチをきわめて首尾よく融合していた。

 

第4章 エトルリアとローマの天文学

ユリウス・カエサルのもとで、改暦するためにギリシアの天文学研究が利用された。それまでの太陰暦は、カエサルの時代までにかなり混乱しており(365日の)常用年が太陽年より3か月ほど先行していた。したがってすべての時代がずれていた。

前45年以降は、365日の太陽暦が採用され、4年に一度、閏年があった。

400年ごとに約三日長くなりすぎるが、ユリウス暦は1582年まで続いた。

その年、教皇グレゴリウス13世の命令で10日が省かれ、グレゴリオ暦が採用され、今日まで使われている。

 

第5章 ギリシャ後期およびビザンツの天文学

いわゆる「古代」から「ビザンツ時代」への移行は、大ざっぱにいえば、アレクサンドリアという知的中心地からコンスタンティノープルという別の中心地に、そして異教からキリスト教という環境に、天文学が移行したことだといえる。

 

天文学に関してルネサンスがビザンツから受けた最大の恩恵は、皮肉にもその最も保守的な性格のために、古代の著作を良いテクストで保存したということであった。

 

第6章 紀元後千年間のヨーロッパの天文学:考古学的記録

1 天球儀

2 数理的な歯車装置

3 暦の考案

4 携帯用と固定式の日時計

 

第7章 インドの天文学

 


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