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「笛吹き男」の正体 東方植民のデモーニッシュな系譜

2023-02-11 17:23:50 | ヨーロッパあれこれ

 

「笛吹き男」の正体
東方植民のデモーニッシュな系譜
浜本隆志 著
筑摩選書0240
2022年11月15日 初版第一刷発行

はじめに
五十年前に阿部謹也が出版した『ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界』
突然、130人の子供たちを失った人々の悲しみ、著者のこのテーマに寄せる情熱、精緻な文献調査、学者としての良心がひしひしと伝わってくる。
阿部は「笛吹き男」伝説の本丸を二重三重に包囲したが、(あえて?)本丸には突入しなかった。本書では最終的に伝説の本丸にあえて攻めこんでいます。

 

序章 「笛吹き男」ミステリーの変貌
メルヘン
成立した、そして話の時代と場所が不特定
主人公は一般的な名前
空想的世界の中で、普遍的に人々を惹き付けるストーリーで、教育や人生訓が凝縮されている
伝説
現実に発生した事件や特異な出来事がルーツ
代々口伝で継承される
後に文書や図像によって記録され、視覚化される
特定の場所、時代が明示されていることが多い

「笛吹き男」は典型例な伝説(Sage)

16世紀に「ネズミ捕り男」のモティーフが加えられ、「笛吹き男」から「ネズミ捕り男」に変貌していく。
当時食糧が不足がちの時代に、製粉が盛んであったハーメルンに集積した穀物を狙ってネズミが多数集まってきたので、それを駆除する必要があった。
ネズミ捕りのモティーフを加えることにより、笛吹き男は人々により大きなリアリティを与えることが出来た。p32-33

 

ハーメルンの伝説を世界中に広めたのは、グリム兄弟である。
グリム兄弟は『グリム童話集』の編纂によって世界的に有名になったが、「ハーメルンのネズミ捕り男」は童話集ではなく、伝説集に収められている。
文献学者グリム兄弟は明確に童話と伝説を区分して蒐集している。p34

ハーメルンの市民や市参事会だけでなく、司祭も子供たちの失踪が六月二十二日の異教的なルーツの夏至祭の日に発生したとは認めたくなかった。
というのも、この日には市民が羽目を外す飲み食い、ダンスというどんちゃん騒ぎが慣行であったからだ。しかも夏至祭に司祭も加わっているとなるとなおさらである。
異教的な夏至祭の四日後の、殉教者追悼の日である「ヨハネとパウロの日」に事件が偶然発生したことにすれば、邪悪な悪魔のせいにすることが出来ると解釈した。p54
資料としては記録係は正確に二十二日と書いたが、市参事会や司祭は二十六日にしたのではないか。p56

 

第2章 事件に関する諸説
1 子供十字軍説
同じ年代の十三世紀に発生した集団行動の類推からいえることであるとしても、現実にハーメルンに子供十字軍の結成記録は見当たらず、エビデンスもない。
2 舞踏病説
ハーメルンで実際に舞踏病が発生した記録がない。
しかも舞踏病で倒れた人々は、結果はどうであれ、探しにきた者たちによって見つけられている。
3 「ゼーデミュンデの戦い」による戦死説
史実と二十四年のずれがある。
十九世紀のドイツが統一を願っていた時期に「ゼーデミュンデの戦い」が市民の自律的な決起を賛美する風潮と結びつき、この説が注目された。
4 従来の東方植民説
ヴァンの「ハーメルンの若者たちが集団結婚式を挙げ、65組130人が東方植民地へ移動した」という説
事件にまつわる不気味さや悲劇性はほとんど見られない。
ドバーティンの「事件が起きた直近の名簿から消えた市参事会員をリストアップし、ハーメルンからいなくなったのは東方植民として入植した」という説
身分の高い貴族がなぜ東方へ移民しなければならなかったのか?
また遭難事故の記録はない
5 言語学者ウドルフのと植民説とその背景
地名・人名の類似性から、北東ドイツに移民したことを証明。
東方植民のロカトールが引き起こした。

 

第3章 ハーメルンで起きた事件の検証
1 ロカトール(植民請負人)はなぜハーメルンを目指したのか
・ハーメルンのように領主や司教の住んでいない街の方が、リクルートしやすかった
・ヴェーザー川により交通の要所であり、地球温暖化の影響で人口も増加していた。
2 ロカトールの市内でのリクルート

3 子供たちを巻き込んだ理由
移住する集団が笛吹き男についていく様が祭りの練り歩き(プロセッション)な光景であり、子供たちも集団妄想のようについていった。
4 「舞踏禁止通り」から東門へ
祭りの日で子供たちがいなくなったことに気づくのが遅れた。
5 どのようにして集団を東方に連れて行ったのか

 

第4章 ロカトールの正体と東方植民者の日常
『ザクセンシュピーゲル』 
神聖ローマ帝国の東ザクセンの騎士アイケ・フォン・レブゴウが編纂した法律書。1220-35年に成立し、ドイツ最初の最初の慣習法を集大成しながら収録。ラテン語で書かれ、後にドイツ語の写本もあり。p116
この圧巻は何といっても挿絵で、当時圧倒的に多かった識字能力のなかった人々にも理解してもらうという、絵解きの意図があった。p117
(挿絵もどことなく愛嬌があって楽しいです・笑)

第5章 ドイツ東方植民の系譜

 

第6章 ドイツ帝国(1871-1918)の植民地政策
ロシア革命後、ヴォルガ河畔のドイツ系ロシア人は、紆余曲折はあったが自治が認められ、1924年に自治共和国が誕生した。こうしてヴォルガ・ドイツ人自治共和国が成立した。
しかし1941年の独ソ戦開始により、自治共和国は廃止され、ドイツ系住民はカザフスタンや西シベリアへ強制移住させられた。p174-175

ポーランド回廊
かつて東プロイセンはつながっていたが、第一次世界大戦後分断され、一部がポーランド領となった。このうちドイツに挟まれた白色部分がポーランド回廊。かつてのドイツ騎士修道会の拠点であった東プロイセンは分断され、陸続きでなくなった。しかもドイツ人住民が大部分を占めていたダンツィヒは自由都市とされた。p176

第7章 ナチスと東方植民運動

第8章 「笛吹き男」とヒトラー
 


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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2023-02-12 06:21:04
改めて阿部謹也さんの著作を読んでみたが、その中で最有力の説とされていたヴォエラーの遭難説については、この本では触れられていないように思えます。
その点にも反論なり書いていただきたかったです。
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