毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
四十九日
従兄弟の四十九日の法要が営まれた。7月7日に亡くなって早くも1ヵ月半、時の経つのは如何ともしがたい。朝10時から自宅で営まれた法要は、親戚一同が会して曹洞宗の住職の下、粛々と進められた。般若心経から修証義、さらには舎利礼文まで、読経の声が低く響く中、私も亡き従兄弟の面影を偲んでいた。私の親戚には、土地がらか曹洞宗の門徒が多く、法要の際には修証義を読み上げることがしばしばである。修証義というのは、道元の著した『正法眼蔵』の教えを、一般の人にもわかりやすく明治23年に編集されたものだが、仏教の要諦を凝縮したような文で読むたびに感心する。
「生を明らめ 死を明きらむるは 仏家一大事の因縁なり、生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし、但(ただ)生死すなわち涅槃と心得て、 生死として厭(いと)うべきもなく、涅槃として欣(ねご)うべきもなし、 是(この)時初めて生死を離るる分(ぶん)あり唯一大事因縁と究尽(ぐうじん)すべし」
(訳)
人生とはどういうことか、死とはどういうことかという人生の意義をあきらかにし、自己のいのちとは何かという真実を求めて参究するのは、仏教徒にとって、もっとも大切な根本的問題なのです。この人生は無常なものではあるけれども、仏の教えを信じ行ずるのであれば、現実の苦しい人生にふりまわされません。この生死という苦しい現実も、涅槃というやすらかな彼岸の世界も表裏であり本来同体であって、さとりに対して迷いの生活があるというのではなく、このいのちの事実そのものが、そのまま、仏の世界であると得心して、人生を苦しみときめつけてきらったりすべきでもないし、涅槃のみを求めたりして、こだわりおぼれるのもまちがいです。この無常なる人生そのまま涅槃(さとり)と心得るべきです。このとき、はじめて、現実の迷いから解放される道が開けるのであり、無窮なる仏道修行がもっとも大切な心がけなのです。
仏教徒でもない私が偉そうなことは言えないが、仏教を宗教ではなく哲学としてみた場合、仏教の奥義には深く感ずるものがある。この世を無常と捉え、そこから出発する哲学でなくては信ずるに値しないと私は思っているが、仏教はまさしくそうした哲学であり、もう少し現世でのあがきが楽になった時点で、宗教としてではなく学問として探求したい課題だと思っている。
法要が終わった後、住職が短い説法をされた。そんなものをありがたく聞くような私ではないが、「人の命には寿命と定命の二つがあります」と言われたくだりには少しばかり感心した。私なりに解釈したことは、「人間には生れ落ちる前に定められた定命というものがあるが、人によってその長さが違う、それが寿命である。いつまでも永らえるかもしれないし、今日死んでしまうかもしれない。そうした考えに立って今日一日を大切に生きていくことが大事なのだ」――住職の真意とは違う解釈かもしれないが、私にはそう聞こえた。説法などというものは、ただひたすら有難がって聞くものではなく、己のためになる部分だけを抽出して自らの生活に役立てていけばいい。取り立てて言うほどの内容ではないが、55歳でなくなった従兄弟の生涯を顧みる日には当を得た言葉であると思った。
その後、菩提寺を参拝した後、御斎となったが、当然のごとくひどく酔っ払ってしまった私は、果たして従兄弟の供養を心からすることができたであろうか。人が大勢集まって、賑やかにするのが大好きだった従兄弟の法要だから、少しは楽しくやらねばならないとは思っていたのだが・・・
「生を明らめ 死を明きらむるは 仏家一大事の因縁なり、生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし、但(ただ)生死すなわち涅槃と心得て、 生死として厭(いと)うべきもなく、涅槃として欣(ねご)うべきもなし、 是(この)時初めて生死を離るる分(ぶん)あり唯一大事因縁と究尽(ぐうじん)すべし」
(訳)
人生とはどういうことか、死とはどういうことかという人生の意義をあきらかにし、自己のいのちとは何かという真実を求めて参究するのは、仏教徒にとって、もっとも大切な根本的問題なのです。この人生は無常なものではあるけれども、仏の教えを信じ行ずるのであれば、現実の苦しい人生にふりまわされません。この生死という苦しい現実も、涅槃というやすらかな彼岸の世界も表裏であり本来同体であって、さとりに対して迷いの生活があるというのではなく、このいのちの事実そのものが、そのまま、仏の世界であると得心して、人生を苦しみときめつけてきらったりすべきでもないし、涅槃のみを求めたりして、こだわりおぼれるのもまちがいです。この無常なる人生そのまま涅槃(さとり)と心得るべきです。このとき、はじめて、現実の迷いから解放される道が開けるのであり、無窮なる仏道修行がもっとも大切な心がけなのです。
仏教徒でもない私が偉そうなことは言えないが、仏教を宗教ではなく哲学としてみた場合、仏教の奥義には深く感ずるものがある。この世を無常と捉え、そこから出発する哲学でなくては信ずるに値しないと私は思っているが、仏教はまさしくそうした哲学であり、もう少し現世でのあがきが楽になった時点で、宗教としてではなく学問として探求したい課題だと思っている。
法要が終わった後、住職が短い説法をされた。そんなものをありがたく聞くような私ではないが、「人の命には寿命と定命の二つがあります」と言われたくだりには少しばかり感心した。私なりに解釈したことは、「人間には生れ落ちる前に定められた定命というものがあるが、人によってその長さが違う、それが寿命である。いつまでも永らえるかもしれないし、今日死んでしまうかもしれない。そうした考えに立って今日一日を大切に生きていくことが大事なのだ」――住職の真意とは違う解釈かもしれないが、私にはそう聞こえた。説法などというものは、ただひたすら有難がって聞くものではなく、己のためになる部分だけを抽出して自らの生活に役立てていけばいい。取り立てて言うほどの内容ではないが、55歳でなくなった従兄弟の生涯を顧みる日には当を得た言葉であると思った。
その後、菩提寺を参拝した後、御斎となったが、当然のごとくひどく酔っ払ってしまった私は、果たして従兄弟の供養を心からすることができたであろうか。人が大勢集まって、賑やかにするのが大好きだった従兄弟の法要だから、少しは楽しくやらねばならないとは思っていたのだが・・・
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