毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
1Q84(3)
「1Q84(3)」を読んだ。書店に予約してあったから、発売日の金曜日に届けてもらえると思っていたのに、どういうわけか土曜日にしか手元に来なかった。あっという間に読んで、日本中で一番早く感想文を書いてやろうかと思っていたのに、見事思惑が外れてしまった。それでも土曜から読み始めて、忙しい合間を縫って読み進んだにしては、思いの外早く読み終えることができたのは、ひとえにこの本の持つ魅力に導かれたからだろう。。
当然のことながら青豆は死んでいなかった。青豆が死んでいたら続編など書けるはずがない。だが、
「青豆は拳銃の引き金を引かなかった」(P.37)
とあまりにあっさりと書かれてしまうと、あの(2)の終わり方は何だったんだ?と思わず突っ込みたくなった。それでも、そんな不満な気持ちは一瞬のことで、これで多くの謎が少しずつ明らかになっていくかもしれない、という期待感の方がはるかに強くなり、天吾と青豆が描く軌跡がどういう形で交わっていくのか、その推移を注意深く見守っていくため片言隻句も読み落とすことがないよう細心の注意を払って読み進めていった。
途中、村上春樹ってこんなに文章が流麗だったっけ、と何度も感心した。とにかく比喩が豊穣で、場面の情景や人物の心象が的確に伝わってくる。さらには、簡単には理解できないような思念を平易な言葉で寸分の遺漏もなく表現しているため、まるでずいぶん前から己の頭の中を領していたもののように思えてくる。
「まったく奇妙な世界だ。どこまでで仮説なのか、どこからが現実なのか、その境界が日を追って見えなくなる」(P.368)
と編集者・小松が言うように、月が2つ中空に浮かぶ「1Q84年の世界」によって浸食される小説内現実に生きる作中人物を些かの混乱もなく描き切っている力量は驚嘆すべきものであろう。以前1Q84(1)と1Q84(2)で書いたように、世間が何故それほどまでに村上春樹を持ち上げるのか理解できなかった私だが、この(3)を読んで初めて彼のすごさが体感できたように思った。そのすごさを彼のように明快な言葉で表現しきれない己をもどかしく感じることこそが、村上春樹を認めた証左であろうが・・。
だが、どうだろう、果たして本当にこの(3)は書かれる必要があっただろうか。村上春樹の小説は話を広げるだけ広げて、それでおしまい、という先入観があった私ではあるが、この(3)は逆に書き過ぎたのではないだろうか、と危惧している。きっと多くの人が望んだであろう形で結末を迎えたのは、読んでいてそれなりに心が落ちついたが、果たしてそれでよかったのだろうか。予定調和とまではいかないまでも、あまりにしっかりと小説世界を閉じてしまったようにさえ思う。余韻がなければ、読者としては感慨にふける隙がない。
やはり私はイヤな読者だ。ある程度まとまりをつけてくれないと、書きっぱなしだと文句をつけ、細部に及ぶまできちんと形を整えてしまうと、書き過ぎだと難癖をつける、これでは村上春樹も立つ瀬がないだろう。しかし、正直終わりの50ページほどはいらないと思った。青豆と天吾がやっとの思いで出会い、20年前のように手を握り合ったところで終わってくれていたなら、「青豆、よかったね。天吾、青豆を大事にしろよ」と、きっと涙が止まらなかったように思う。そして同時に、「村上春樹にノーベル文学賞を!!」と声高に叫んでいたかもしれない。もちろんそんなものはわずかな瑕疵であり、小説全体の価値を貶めるものではないのかもしれないが、やはり気になる・・。
この長い小説を読み終えて、一番印象に残った人物は誰かと考えてみた。特異なキャラクターをもつふかえりも捨てがたいが、私としては謎の人物・タマルが心から離れない。想像もできないほど過酷な過去を背負いながら、己の務めを果たすためには何の躊躇もしない男・タマル。彼が青豆と語った次の一節はずっと忘れられないだろう。
「もし彼に会えたとして、滑り台の上でいったい何をするんだ?」
「二人で月を見るの」
「とてもロマンチックだ」とタマルは感心したように言う。(P.534)
当然のことながら青豆は死んでいなかった。青豆が死んでいたら続編など書けるはずがない。だが、
「青豆は拳銃の引き金を引かなかった」(P.37)
とあまりにあっさりと書かれてしまうと、あの(2)の終わり方は何だったんだ?と思わず突っ込みたくなった。それでも、そんな不満な気持ちは一瞬のことで、これで多くの謎が少しずつ明らかになっていくかもしれない、という期待感の方がはるかに強くなり、天吾と青豆が描く軌跡がどういう形で交わっていくのか、その推移を注意深く見守っていくため片言隻句も読み落とすことがないよう細心の注意を払って読み進めていった。
途中、村上春樹ってこんなに文章が流麗だったっけ、と何度も感心した。とにかく比喩が豊穣で、場面の情景や人物の心象が的確に伝わってくる。さらには、簡単には理解できないような思念を平易な言葉で寸分の遺漏もなく表現しているため、まるでずいぶん前から己の頭の中を領していたもののように思えてくる。
「まったく奇妙な世界だ。どこまでで仮説なのか、どこからが現実なのか、その境界が日を追って見えなくなる」(P.368)
と編集者・小松が言うように、月が2つ中空に浮かぶ「1Q84年の世界」によって浸食される小説内現実に生きる作中人物を些かの混乱もなく描き切っている力量は驚嘆すべきものであろう。以前1Q84(1)と1Q84(2)で書いたように、世間が何故それほどまでに村上春樹を持ち上げるのか理解できなかった私だが、この(3)を読んで初めて彼のすごさが体感できたように思った。そのすごさを彼のように明快な言葉で表現しきれない己をもどかしく感じることこそが、村上春樹を認めた証左であろうが・・。
だが、どうだろう、果たして本当にこの(3)は書かれる必要があっただろうか。村上春樹の小説は話を広げるだけ広げて、それでおしまい、という先入観があった私ではあるが、この(3)は逆に書き過ぎたのではないだろうか、と危惧している。きっと多くの人が望んだであろう形で結末を迎えたのは、読んでいてそれなりに心が落ちついたが、果たしてそれでよかったのだろうか。予定調和とまではいかないまでも、あまりにしっかりと小説世界を閉じてしまったようにさえ思う。余韻がなければ、読者としては感慨にふける隙がない。
やはり私はイヤな読者だ。ある程度まとまりをつけてくれないと、書きっぱなしだと文句をつけ、細部に及ぶまできちんと形を整えてしまうと、書き過ぎだと難癖をつける、これでは村上春樹も立つ瀬がないだろう。しかし、正直終わりの50ページほどはいらないと思った。青豆と天吾がやっとの思いで出会い、20年前のように手を握り合ったところで終わってくれていたなら、「青豆、よかったね。天吾、青豆を大事にしろよ」と、きっと涙が止まらなかったように思う。そして同時に、「村上春樹にノーベル文学賞を!!」と声高に叫んでいたかもしれない。もちろんそんなものはわずかな瑕疵であり、小説全体の価値を貶めるものではないのかもしれないが、やはり気になる・・。
この長い小説を読み終えて、一番印象に残った人物は誰かと考えてみた。特異なキャラクターをもつふかえりも捨てがたいが、私としては謎の人物・タマルが心から離れない。想像もできないほど過酷な過去を背負いながら、己の務めを果たすためには何の躊躇もしない男・タマル。彼が青豆と語った次の一節はずっと忘れられないだろう。
「もし彼に会えたとして、滑り台の上でいったい何をするんだ?」
「二人で月を見るの」
「とてもロマンチックだ」とタマルは感心したように言う。(P.534)
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )