1分で読める小さなお寺の法話集

子育て、人材育成に関する法話を実話と歴史から紐解いて書いております。

【住職の法話。考え方を少し変えるだけで、苦しい人生が、楽しい人生に】 史実は、四(史)割事実で、六割が嘘と。歴史資料もその時代に書いた人の主観が。なればこそ、面白い、ロマン。

2022-04-19 18:50:55 | 法話
街道から寺内が丸見えの無防備な本能寺に、信長公は僅かの家来を連れて宿泊を。戦国時代にあっても、自分が襲われるなど、微塵にも思ってなかったんでしょうね。そう考えたらある意味、人の良い、おめでたい、人を疑う事をしない、そんな童の様な人だったのかな、と。覇王のレッテルは、江戸時代に付けられた、と。

【追伸】
信長公の死には疑問に思える事が幾つか。その筆頭はやはり、秀吉公の動向。光秀公が街道(本道)を通って、1万5千騎が本能寺へ。情報網に長けた秀吉公の耳に入らない訳がない。中国大返しも、2万の兵を40キロ近い鎧を持たせて、途中、食糧を工面しながら、あの日数で。到底無理な話。昨今、600艘の船に兵隊の鎧を乗せて、人間は裸で街道を走らせたとの資料が。光秀公謀反の知らせを受けて、すぐに600もの船を集めるは至難の業。前もって用意をしてなければ、無理。これから考えると、やはり、下克上の時代か、と思わざる負えない。発見される資料は、本当の事が書かれてあるのか、と言えば、それもまた、確かめる術はなし。時の実力者が自分に都合の良い様に書かせたとも考えられる。史実は、四(史)割事実で、六割は嘘と。光秀公も昨今発見の資料で、関ヶ原当日、徳川側に参戦の為、移動中に川で溺死したとの資料が見つかったと。光秀公は天海という説も浮上。あらゆる状況から鑑みても、秀吉公と光秀公が手を結んでいたのではないか、の疑問も。そういった憶測も立てられるから、歴史は、面白い。歴史は、ロマン。が、こういった流れも、もし、本能寺の変の時、近くの妙覚寺で宿を取っていた信忠公(行年26歳)が逃げておれば、明智勢に挑み掛かっておらねば、生き長らえておれば、恐らく、秀吉公、家康公の時代はなかっただろう、というほど、優秀な将(信長公息子)であったと。













【住職の法話。考え方を少し変えるだけで、苦しい人生が、楽しい人生に】 余命僅かの病床に、息子が付きっきりで看病を。その父親が「住職。やっとあいつと親子になれた様な気がします」と。その数日後に他界を。

2022-04-19 17:05:48 | 法話
高度経済成長を支え、大戦後、僅か20年で日本を世界第2位の経済大国に押し上げた、昭和の親父がまた1人、この世を去って逝った。国を支える仕事の裏には、勿論、犠牲になった人達も。その最たるものが家族。葬式に続き、初七日の取り上げ法事後の親戚食事会で、息子が遺骨に供えてあるグラスに、わがグラスを。

【追伸】
取り上げ法事後の食事会の時、妹さん(故人の娘)さんが拙僧のところへ寄って来て、小声で「住職、驚いたよ。兄がお父さんのグラスに『乾杯』と、わがグラスを当てるなんて。初めて見ました。一緒に飲んだ事など、1度もなかったのに。やっとわだかまりが取れたんでしょうね。住職の葬式での法話の『葬式は、人間世界の卒業式。哀しくもあり、めでたくもあり』も、心に響いたのかも。あのグラス当ては『お疲れ様。ゆっくり休んでくれ。卒業おめでとう』だったのかもしれませんね」と。