街道から寺内が丸見えの無防備な本能寺に、信長公は僅かの家来を連れて宿泊を。戦国時代にあっても、自分が襲われるなど、微塵にも思ってなかったんでしょうね。そう考えたらある意味、人の良い、おめでたい、人を疑う事をしない、そんな童の様な人だったのかな、と。覇王のレッテルは、江戸時代に付けられた、と。
【追伸】
信長公の死には疑問に思える事が幾つか。その筆頭はやはり、秀吉公の動向。光秀公が街道(本道)を通って、1万5千騎が本能寺へ。情報網に長けた秀吉公の耳に入らない訳がない。中国大返しも、2万の兵を40キロ近い鎧を持たせて、途中、食糧を工面しながら、あの日数で。到底無理な話。昨今、600艘の船に兵隊の鎧を乗せて、人間は裸で街道を走らせたとの資料が。光秀公謀反の知らせを受けて、すぐに600もの船を集めるは至難の業。前もって用意をしてなければ、無理。これから考えると、やはり、下克上の時代か、と思わざる負えない。発見される資料は、本当の事が書かれてあるのか、と言えば、それもまた、確かめる術はなし。時の実力者が自分に都合の良い様に書かせたとも考えられる。史実は、四(史)割事実で、六割は嘘と。光秀公も昨今発見の資料で、関ヶ原当日、徳川側に参戦の為、移動中に川で溺死したとの資料が見つかったと。光秀公は天海という説も浮上。あらゆる状況から鑑みても、秀吉公と光秀公が手を結んでいたのではないか、の疑問も。そういった憶測も立てられるから、歴史は、面白い。歴史は、ロマン。が、こういった流れも、もし、本能寺の変の時、近くの妙覚寺で宿を取っていた信忠公(行年26歳)が逃げておれば、明智勢に挑み掛かっておらねば、生き長らえておれば、恐らく、秀吉公、家康公の時代はなかっただろう、というほど、優秀な将(信長公息子)であったと。
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