愛媛県宇和島市からの良いたより♪

私のブログでは次の内容を紹介致します。
1.「神の王国の良いたより」、聖書教育
2.花々、風景写真
3.俳句、他

イエスの時代のユダヤ人は「広場に座って遊び友達に叫ぶ幼い子供たち」とはどんな意味ですか?

2018-10-20 23:40:04 | 神の言葉・聖書

 イエス・キリストは父エホバの約束通り地上に遣わされ、贖いの死を遂げられる最後まで、謙遜に、しかも従順に、父エホバのご意志の神の王国と真理を証しし、あらゆる疾患とあらゆる病の人たちを癒されました(マタイ4:23、ルカ4:43;8:1.フィリピ2:5~8)。しかし、イエスの時代のユダヤ人たちはイエスの教えやその業に信仰を働かすことなく鈍感な世代となっていました。そうした真理に対する鈍感な世代について、「広場に座って遊び友達に叫ぶ幼い子供たちのようだ」と、言われました。イエスのこの教えが次のようにマタイの福音書に記されています(マタイ11:16)。神の王国の王イエス「鈍感な世代・人々」と呼ばれることのないように、真理に堅く立たれる方々は幸いです。

 「わたし(イエス)はこの世代(ユダヤ人たち)をだれになぞらえましょうか。それは、幼子たちが市の立つ広場に座って、自分の遊び仲間に叫ぶのに似ていますこう言うのです。「あなたたちのためにフルートを吹いたのに、あなたたちは躍らなかった。わたしたちが泣き叫んだのに、あなたたちは身をたたいて悲しまなかった」」(マタイ11:16,17)。

 上の聖句に記されている通り、イエスの時代のユダヤ人たちを「幼子たちが市の立つ広場に座って、自分の遊び仲間に叫ぶのに似ています」と教えられました。そのことを例えで、遊び仲間にフルートを吹いても一緒に遊ばず、笛に合わせて踊りもせず、他の子どもたちが泣き叫んでも、同情を心から示すことはなく、純真な子供らしく和気あいあいに遊ばない不純な子供たちになぞらえました。これは、当時のユダヤ人たちがイエスの教えの真理や奇跡の業を見聞きしても、心を鈍感にしていたことを、上記の通りに分かり易く、純真な子供心を失った幼子の「遊び仲間に叫ぶ」姿例えられたのです。イエスは「知恵の正しさは、行動によって示されます」と教え、当時のユダヤ人たちが、イエスの真理の教えに正しく知恵を働かせることなく、行動で示していることを明らかにされました(マタイ11,16,19)。一方、イエスは神エホバからの知恵を行動によって示されていました。あなたも真理に対し、いつも目覚め心の鋭敏な方々のお一人であれば幸いです(マタイ24:43)。

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       真理こそ 自由の道よ 秋の空 今日の一句

         美容院の窓辺に咲いている「グロリオーサ―とサンパラソル」

 

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グロリオーサーとニオイバンマツリ(Gloriosa & Brunfelsia australls)

2018-10-20 00:46:40 | 四季折々の花々

   秋にも関わらず、グロリオーサの花が近くの美容院の窓辺にサンパラソルと共に咲き

 華やかな雰囲気を醸し出していました。

 花期は花図鑑では6月~8月となっています。

 今年は長く猛暑が続きグロリオーサ―もその影響を受けたのでしょうか。

 用途は切り花、鉢植えです。

 花言葉は「高貴な心」と紹介されています。

 今日はグロリオーサ―とニオイバンマツリを紹介致します。

              美容院の窓辺に咲いている「グロリオーサ―」

                    鉢植えの「ニオイバンマツリ」

コメント (2)
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イエスは最後の晩さんの時に12使徒の足を洗われたのは何故ですか?

2018-10-20 00:18:31 | 神の言葉・聖書

 イエスは、贖いの死を遂げみ父エホバのもとに帰る時が来たことを知り、弟子たちを最後まで愛されされました(ヨハネ13:1)。それでも、弟子たちは不完全で、弟子たちの間で誰が一番偉いのか、と論じ合っていました(ルカ22:24)。イエスは弟子たちを愛し、最後まで導きを与えました。そのイエスの模範は、師であるイエスが12使徒(裏切者のユダ・イスカリオテを含む)足を洗う模範です。それは、どのような教えの意味があったのでしょうか。次のように記されています。

 「(イエスは)晩さん(の席)から立ち、自分の外衣をわきに置かれた。そして拭き布を取って身に帯びられた。それから、たらいに水を入れて弟子たちの足を洗い、身に帯びた吹き布で吹きはじめられた(ヨハネ13:4,5)。

 イエスは師でありながら、上の聖句の通り、たらいの水で、12使徒たちの足を一人一人洗い、吹き布で拭きました。これはイエスの模範の重要な教えの場面です。なぜイエスはそのような模範を示されたのでしょうか。その意味をイエスは次のように教えられました。

 「さて、彼ら(12使徒)の足を洗い、外衣を身に着け、再び食卓に着いて身を横にしてから、イエスは彼らに言われた、「わたしがあなた方にしたことが分かりますか。あなた方はわたしを「師」、また「主」と呼びます。そう言うのは正しいことです。わたしはそのような者だからです。それで、わたしが、主また師でありながらあなた方の足を洗ったのであれば、あなた方も互いに足を洗うべきです。わたしはあなた方のために模範を示しました。あなた方も、わたしがあなた方にしたと同じようにするためです」(ヨハネ13:12~15)。

 イエスが弟子たちの足を洗い模範を示されたのは、イエスが示した模範の通りに「互いに足を洗うべき」ということを命じるためでした。「互いに足を洗う」行為は何を意味していたのでしょうか。それは、他の人が自分より上であることを認め、仲間に謙遜に仕えるべきことを意味していました(フィリピ2:3~8)。神エホバは、謙遜な者を祝福されるからです。イエスの弟子たち、同じく今日の真のクリスチャンたちも、謙遜に他の人に奉仕る者であるべきことを命じられているのです。あなたも神エホバに喜ばれる謙遜な人々のお一人であれば幸いです。

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        小犬らも 歓び遊ぶ 草の花 今日の一句

                    台風で倒れても咲いた「コスモス」

 

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