◆大腸菌死者30人に=ドイツ
ドイツ北部を中心に腸管出血性大腸菌O104の感染が拡大している問題で、同国保健当局は9日、死者がスウェーデンで死亡した1人を含め、30人に達したことを明らかにした。バール保健相は8日、新たな感染者は減りつつあり、事態が改善に向かっている兆しがあるものの、引き続き警戒が必要と呼び掛けた。
(時事通信・2011年6月10日0時0分)
◆欧州の新型大腸菌、犯人は新芽野菜とほぼ断定
ドイツを中心に欧州で広がる腸管出血性大腸菌の感染問題で、独保健当局は10日、北部ニーダーザクセン州の農場で有機栽培されたモヤシなどの新芽野菜が感染源とほぼ断定、この農場を立ち入り禁止とした。
西部ノルトライン・ウェストファーレン州保健当局も10日、同農場で栽培された新芽野菜から菌を検出したと発表した。野菜は患者の家庭ゴミから見つかった。同農場は多数の感染者が出た北部ハンブルクから約70キロ・メートル南にあり、この農場の新芽野菜を納入した食堂の利用者から多数の感染者が出た。・・・
(読売新聞・2011年6月10日20時52分)
ドイツの大腸菌騒動もやっと収束に向かいつつあるようです。而して、我が国の東日本大震災とほぼ同時期に始まったドイツのこの疫病の蔓延と比べるとき、放射線被曝などがいかに「無害」なものか歴然ではなかろうかと思います。
実際、福島第一原子力発電所で、この三ヵ月の積算被曝放射線量1シーベルト(sV=1000mSv)超の作業員さんなど何人もおられるはず。民主党政権の拙劣で場当たり的なその対応が漸次明らかになりつつある現在、これは素人でも分かること。而して、この間、放射線被曝が原因で亡くなったり健康被害を訴えている作業員の方はおられない。他方、同時期、日本での牛生肉の食中毒事件、ドイツにおける野菜の食中毒事件ではもう何十人もの方が亡くなられているのですから。
要は、放射線よりも大腸菌の方が遥かに危険
そもそも、放射線被曝許容値なるもの自体にそれほどの科学的根拠はない
数年後の、広範なエリアでの甲状腺癌発症の確率的危険性?
そんなのは、今この瞬間に飢餓線上にある世界の十数億の子供達の<生>と<死>のリアリティーに比べれば、否、そんな遠い話ではない、そう、東日本大震災直後から4月21日まで出されていた、意味不明な「20キロ圏内屋内退避指示」なるものによって餓死せしめられた数万数十万の牛さんや豚さん、ペットの犬ちゃんの<生>と<死>のリアリティーに比べれば<塵>のようなものではないでしょうか。
放射線よりも大腸菌の方が遥かに危険。
これ、比較不可能なものを比較していますか?
確かに、片や、数年~数十年後に甲状腺癌を発症する確率的な危険性、他方、感染後数日で生命を失う危険性は同一平面で比較することはできないでしょう。そう言うのなら、エイズウイルスより包丁が危険と言えなくもないから。けれども、マルクス・アウレーリウス帝は『自省録』の中で「どんな長い人生も、どんな短い人生も死は【生と死の境界は】一瞬である」と記している。要は、齢百歳の寿命を閲して大往生を遂げる人の死も、放射線被曝が原因の一つとも考えられる甲状腺癌が原因で十年に満たない生涯を閉じる人の死も、脱原発で盛り上がるドイツで溶血性尿毒症症候群を発病して妻子を残していく無念の中で息を引き取る働き盛りの40代半ばの人の死も、<死>によって失われるものは<生>の先端としての<一瞬>であることには変わりはないのです。
畢竟、マルクス帝に従い人間の現存在性をこう捉えるとき、危険性なるものの度合はそれを低減するのに要する技術水準と教育水準と社会秩序の安定度、そして、社会的コストの関数でしかない。而して、脱原発論者の認めるところでさえも、放射線被曝の確率的な危険性なるものは「年間積算ベース100mSvの被曝で発癌可能性が0.5%増加する」というもの。これは1日2合の飲酒習慣によって増加する0.6%の増加と比べても問題にするのが馬鹿らしいほどの低い値。
しかも、注意すべきは、この「0.5%の増加」とは、既存の発癌件数に「0.5%」分が新たにオンされるわけでは必ずしもないということ。1件の発癌事例に関して、喫煙やストレス等々の様々な発癌要因の中で、放射線被曝が寄与する度合は飲酒習慣以下ということ。例えば、1日2合の飲酒習慣のある方でも99.4%は飲酒によっては癌を発症せず、1日2合の飲酒習慣のある癌発症者クラスターに関して飲酒の習慣と癌発症との間に(喫煙やストレスや遺伝的要因とともに有意の)相関関係が見られるにすぎないのです。
而して、脱原発論者の中には「飲酒・喫煙は自分の意志によるもので、それによる癌発症は自業自得/自己責任のマターだけれども、放射線被曝はそうではない。まして、自分で自分を守れない子供の放射線被曝リスクは大人が大人としての責任で低減させなければならない」と弁じる向きもある。馬鹿げたことです。傲岸不遜の言説と評するべきでしょうか。これこそ、人間の万能感、権力の万能感、人為の世界と自然の世界の同一視の告白であり、生命や安全や理念に絶対の価値を置き、かつ、人間が、そして、それが形成する国家権力が自然のもたらす生命のリスクを制御できると考えるヨーロッパ中心主義、すなわち、ナチズム、要は、文化帝国主義そのものの告白だからです。
例えば、「キムチの本場=韓国」に唐辛子が普及したのはわずか三百年前であり、日本でも冷凍庫付き冷蔵庫が普及して冷凍食品が子育て世代家庭の強い味方になったのはわずか30年前のこと。これらのことを想起すれば(要は、「自己の意志」なるものもマクロ的に見れば「他者の意志」やその集積としての生態学的社会構造(自然を媒介として人と人とが取り結ぶ社会的諸関係の総体)の関数であり)、マルクスが着目した、人為を包摂する自然の世界(世界恐慌・地球規模の環境変動・世界規模の産業構造の転換等々、資本主義の運動法則が貫徹する疎外された世界をも含む人智を超えた自然の世界)、私の言う生態学的社会構造としての自然の中に投げ入れられた人間の現存性にとって、「自己の意思」と「他者の意思」の区別などは仮称のものにすぎないからです。この点、私は前稿でこう書きました。
自然、就中、グローバル化の昂進著しい資本主義の拡大深化を前にしては脱原発政策などは塵に同じなのです。他方、福島どころか浜岡どころか、今後もし、一国を遥かに超える規模の原発事故が惹起した場合、現在の年間積算ベース1~5.2~100mSvなる放射線被曝許容値など誰もどの国も守りようがない。
そのような事態においては、その数値にさしたる科学的根拠がない放射線被曝許容値は、忽ち、年間積算ベース2500 mSv程度に引き上げられることになるでしょうし、一国の国民の社会的生存を不可能にする戯けた年間積算ベース1~5.2~100mSvなる数値を国際法も誰もその国と国民に強要できるはずもないのです。
蓋し、20年後、30年後の甲状腺癌が発病する確率的な危険性などよりも、文字通り、今日明日の命をつなぐための水と食糧、国民国家としての社会的機能の維持の方が遥かに重要なことは間違いないのではないでしょうか。(以上、転記終わり)
低線量被曝や中線量被曝の危険性に関する疫学的根拠は薄弱であり、まして、重回帰分析を経た放射線被曝と健康障害との間の疫学的因果関係は皆無といってよい。つまり、放射線被曝の危険性などは、
(甲)電力会社や国家というメジャーなプレーヤーが専ら放射性物質の管理責任者であり責任の追及が容易なこと、(乙)このことの裏面でもありますが、他の有象無象のリスクと比べて管理が容易であり、一応、国際的な監視網やアドバイザリー機関も整っていること、
この(甲)(乙)がなければ、土台、それに対する反対運動さえ構築できない類の極めて「恵まれたリスク」と言える。蓋し、繰り返しになりますが、放射線被曝が危険とされるのは
それが他のリスクに比べてより管理可能性が高いからであり、
その危険性なるものに配慮しても国家社会が一応機能可能だからなのです。
畢竟、世界人口は現在の69億人(2010年現在)から、国連の最も低い推計値でも25年後には85億人を突破するとされています。また、資本主義的な生態学的社会構造が地球規模で益々拡大深化することも確実。要は、エネルギー消費量の激増が確実視される世界の現状を鑑みるならば、原子力発電の推進が必然であることは自明でしょう。ましていわんや、エネルギー安全保障の観点から見た場合のエネルギー源の分散化、そして、近々の核武装を見据えた場合、原発推進しか日本には選択肢はあり得ない。
而して、いざとなれば、原発大国フランス等から電力を購入することもそう困難ではないドイツと日本を同列において比較するなど脱原発の為にする議論でしかない。また、帳簿上の発電能力を足し算して、かつ、燃料手当ての実現可能性とコストを等閑視して今すぐに原発を停止・全廃しても火力発電と水力発電で電力は供給できるとかの議論、あるいは、景気への影響と産業構造変換の具体的な施策をなんら提示することなく消費電力を減らせば原発を漸次停止・廃炉にできる等々と弁じる脱原発論もまた、「脱原発ありき」の為にする主張でしょう。
換言すれば、それは「原発=悪」あるいは「原発=必要悪」というそれ自体なんらの根拠もない文化帝国主義的な主張にすぎない。ならば、「原発誘致は札びらで原発建設地の住民の賛成を買ったものだ」などは「お宅何様」ものの失礼千万な言説であろうと思います。
いずれにせよ、ドイツが脱原発に向かうのは勝手でしょう。しかし、「脱原発」のファンタジーなどは、その国民や旅行者が安心して国内でサラダくらい食べられるようにしてから言ったらどうだ。敷衍すれば、現在の所、本当の所は誰も分からない放射線被曝の危険性という人智の及ばない自然に隣接する領域にどう取り組むかはドイツの自由であるにせよ、まずは、人智の及ぶ領域内のことであろう腸管出血性大腸菌の対処をまずはちゃんとしてから世界に対してものを言え。と、そう私は思わないではありません。
確かに、死は誰にとっても大きな課題である。生命と健康のリスクは可能な限り抑えたいと思うのも自然。けれども、自然を前にしては人間の生命など<風の前の塵>でさえない。このことも真理。而して、『自省録』でマルクス帝はこう述べている「死は熟したオリーブの実が感謝しつつ枝から落ちていくようなものだ」「死を軽蔑してはならない、むしろそれがやってくるのに微笑みかけなさい。死もまた自然が願うことがらの一つなのだから」、と。蓋し、ここには、人智を超える自然と共存するしかない人間の有限性を自覚した叡智が語られている。
畢竟、人智を超えたグローバル化の潮流に直面している人間は、これまた人智を超える放射線被曝との共存、すなわち、原発との添い寝を続けるしかない。それがいかに不愉快な自画像であれ、その現実を看過する態度よりは、それを直視する態度が人間存在の有限性を自覚する中庸を得たものであろう。と、そう私は考えます。尚、この点に関する私の基本的な考えについては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。
・放射線被曝の危険性論は霊感商法?
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/7c286f3b86f2d6f2b8bd054af6bc3212
・魔女裁判としての放射線被曝危険論
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/54614e99fb98e2b28bd96c1022c1e029
・社会現象として現れるであろうすべての将来の原発問題への序説
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/95bf9c9a01aca3435196a8a613787ce2
・放射能の恐怖から解脱して可及的速やかに<原発立国>に回帰せよ!
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/8662b74f5b1f15da4739d0a9642916dd