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西尾幹二『ヨーロッパの個人主義』

2005年07月28日 13時06分43秒 | 書評のコーナー
◆『ヨーロッパの個人主義 人は自由という思想に耐えられるか』
 西尾幹二(講談社現代新書・1969年1月)


講談社現代新書のロングセラーの一つ。1969年1月の出版以来、36年間読み続けられているものです。現在、新しい歴史教科書を作る運動の中心人物の一人としての方が有名な著者の西尾さんも、本書出版時は34歳の新進気鋭の若手研究者でした。

本書は、書かれた当時と現在とでは随分と違う受取られ方をされるようになった書物だと思います。スウィフトの『ガリバー旅行記』(1726年)がもともとは当時の英国の政治と社会に対する辛辣な風刺小説だったものが、時を経るにしたがい良質の童話または上質の寓話として読まれるようになったのと、あるいは、本書の受け取られ方の変化は似ているかもしれません。

1969年の出版時には本書は、洋行帰りの新進のドイツ文学者が書いた欧州社会の最新の舞台裏レポートだったと思います。だから、著者=西尾さんの主張内容とは別に、あたかも上流階級の家庭の秘め事を読むような高級な淫靡さを読者(の多くは、でしょうか?)はエンジョイしたのではないか。しかるに、現在、本書で描かれたそのままの欧州社会などは最早存在しないことはもちろん、変化しにくい本質や伝統についても、本書が紹介した欧州社会の傾向性は(英国における階級の存在なり、個人主義をその基盤で支える欧州社会の保守性なり)、21世紀に生きる日本人の少なからずが旅行や仕事や恋愛を通して自分自身で体験した/体験可能な事柄になってしまっています。ならば、現在の読者にとって本書『ヨーロッパの個人主義』はどんな情報を提供しているのでしょうか?

あくまでも比較社会論や比較思想論の領域のことですが、本書は<上流階級の家庭の秘め事>のレポートとしては(西欧の人々の社会意識の紹介としては)賞味期限がとっくに過ぎている。なにより、西欧は日本に比べて必ずしも「上流」などではなくなっている。また、上でも述べましたように、西欧人の持つ伝統的で本質的な社会意識なるものは、すでに多くの日本人にとって「秘め事」などではなくなってしまった。

エキスポ70の大坂万博の1年前に出版された本書を最初に迎えた日本社会は、その後、大きく変容しました;1969年の日本社会とその後、2度のオイルショックを乗り切り、一時とはいえ世界最強の日本的経営を謳われた80年代とバブルの5年を謳歌し(それは他方、日本異質論を唱えるリヴィジョニストからの痛罵をともないましたが)、そして、失われた90年代を通過した(通過しつつある?)日本社会とはほとんど別の国と考えた方がよいくらいではないでしょうか。しかし、本書の真価は21世紀の現在の日本において益々その値打ちを高めているのかもしれない。最近、ある必要があって久し振りに本書を読み返してそう感じました。

本書はもともとヨーロッパと日本の比較社会論/比較社会意識論の書です。それは、元来、ヨーロッパの思想的な観光案内でもエピソード集でも、まして、裏ネタ本でもなかった。著者が、「まえがき」でも書いておられるように「本書は個人主義の解説書でもなければ、ヨーロッパ論でもない。私達の生きているこの時代への私の懐疑の告白であり、現代の神話である社会科学的知性に対する一私人の挑戦」の結果、あるいは、中間報告だった。つまり、本書『ヨーロッパの個人主義 人は自由という思想に耐えられるか』は、社会科学的な理念なりロジックが生み出され現に生息している社会自体に切り込み、社会科学的知性のパーツがどのようにしてその胎盤から離れ産まれてきたのかを追体験しようとした(少なくとも、その意図においては)野心的な作品だったのでしょう。ならば、本書はスウィフトの『ガリバー旅行記』とは異なり、21世紀の日本にして初めてその本来の意図にそう形で受け取られるようになったのではないか。最近、本書を読み返してみて私はそう感じました。

欧米から日本に移入された思想が日本社会になかなか根づかないこと:彼我においてそれら民主主義や個人主義などの思想や理念の持つ意味が異なっていて、それらの理念や思想や制度が果す社会的な機能にも少なからず違いがあることについて、通常、次の2つの説明がなされていると思います(これらは「あれか/これか」式の二者択一的なものではなく併用可能なものでしょうけれども)。

(甲)思想はそれが産まれ出た母胎から離れてはもともと存在できない

日本では、西欧の思想や制度をあたかもその樹木からその果実だけを切り取って利用できると考えられている。しかし、思想なるものはそれを生み出した社会の一部であり、本来、それを産み落とした社会から切り離された思想などは存在し得ない。ならば、民主主義なり個人主義なり自由主義、立憲主義や法の支配の思想と制度が日本で根づかないのは当然なのだ、と。

(乙)蛸壺的な思想の受け入れ体制が問題だ

日本では、(甲)で述べた思想と社会との密接な関係への無理解というか無頓着の影響もあって、ある時期にその当時欧米で流行っていた思想や制度が互いに何の脈絡もなく集中豪雨的に移入されてきた。他方、日本の思想家なるものはあたかも自分が移入した当該の思想の専門家(=輸入総代理店?)の如く、自分が関わった思想の立場からしか他の思想や制度や社会問題を考えない。輸入総代理店の如き著者が刊行する書物を読むだけの一般の読者層が、民主主義や個人主義を理解できないでいるのも当然のことではないか。誰も<9・11>を知らずしてアフガンとイラクで戦争を始めたアメリカの意図を理解することはできないし、ワイマール憲法体制の機能不全を知らずして民主主義を否定する表現に対する現在のドイツの規制の正当性を理解できないだろうから、と。

後者の例としては、明治初期の英国功利主義とプロイセンの国家主義;明治後半からの新カント派とヘーゲルの哲学;大正から昭和初期にかけてのマルクス主義と生の哲学;大東亜戦争の戦後は昭和40年代後半までのフロイト派とユング派、あるいは、実存主義と構造主義;バブル期前後からのポスト=構造主義と現代解釈学の言わば集中豪雨的な同時輸入を想起していただければ思い半ばにすぎましょう。特に、20世紀後半からの半世紀余り、この間一貫して世界の哲学の主流が分析哲学であることを考慮すれば日本の哲学や思想のありようは極めて特殊と言えると思います(もちろん、思想や哲学において主流を追い求める必要は必ずしもないでしょうが、主流のありかを知らないことと主流にこだわらないことは全く別のことでしょう)。

さて、西欧の思想や制度が日本にはなかなか根づかないことに関する上記の2つの説明を本書でもきちんと遡行されています。というよりむしろ、本書の第1部と第2部は日本語で書かれたこれらの説明としては最も優れたものかもしれないと思います。しかし、本書の価値と破壊力、よって、本書が最新の欧州社会の舞台裏レポートとしての賞味期限を過ぎても保有する値打ちは別所にあると私は考えています。それは何か?

それは、西欧においても(まして日本においておや、ですが)、個人主義なり民主主義なり自由主義は、豪も、絶対的な価値や社会的な妥当性を主張できるものではないということ。各民族や各個人は、神ならぬ身の人間存在として所詮人生の意義は不可知であり社会の価値も不可知であることを自覚して自己の運命を力強く生きていくしかないということ。流石、ニーチェ研究者の西尾さんらしい、このような<前向きな懐疑論>とも言うべき主張が、等身大にとらえられたヨーロッパと日本の社会を舞台に展開されていることだと思います。これが現在でも本書が、というか、現在益々本書が真面目に読まれるべき理由であり本書の価値である。そして、何故、「前向き」と言えるのかといえば、それは、ニヒリズムに陥らない懐疑論であり、合理主義に拮抗しようとする懐疑論だからである。そう私は考えています。

正直に言えば、本書第3部は失速している。それは論理が破綻しているという意味ではないけれど。そう、「意あって言葉足らず」という感覚です。本書を書いた34歳の西尾青年の明晰なる頭脳をしても、個人主義も民主主義も西欧もその神通力を世界規模で失った後の世界像を具体的に表象することは難しかったのだと私は思っています。

それから36年。老西尾先生には本書の第3部を改訂することは可能なのではないか。あるいは、それはあまりにも自明なことであって敢えて改訂する意義もないと思われているのかもしれないし、その解答は「書物という書物」の形ではなく「行動や歴史の動きという書物」の形式で書くしかないと考えておられるのかもしれない。いずれにせよ、その解答は確かに我々が21世紀の現在、日々新聞でTVでネットを通して見聞きしていることそのものでしょう。しかし、個人的には是非、西尾さんの手になる『ヨーロッパの個人主義・第2版』あるいは『日本の個人主義』を読みたいとは思いますけれど。

本書は本編、全223頁。今の時代だからこそ読むに値する1書だと思います。扶桑社の『新しい歴史教科書』を支持するか反対であるかに関わらず、多くの方に本書をお薦めします。


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