「黒川分校」は柿生小学校の分校。その前身は柿生小学校とは別系統の明治20年(1887年)に遡る伝統ある地域の初等教育センターでした。而して、昭和58年度(1983年)、「栗木台小学校」が新設開校されるにともない昭和57年度(1983年3月末)限りで閉校されました。「四」の散策はその「黒川分校跡」から出発します。
【地図画像】
・多摩線沿線散策Map(コバルトブルーの線が散策ルート)
http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/shinyurimap14a.JPG
我々の現在地は、川崎市黒川青少年野外活動センター、つまり、柿生小学校黒川分校の跡地です。但し、黒川青少年野外活動センターは1991年に開設された比較的新しい施設。
而して、Yahoo地図の道案内機能に尋ねたところ、「ここ」から柿生駅までは現在の道筋で4.0キロ、ちなみに、黒川谷戸の中心部、例えば、毘沙門大堂跡からは5.2キロ。以下、黒川分校を巡る<歴史>紹介。
・黒川分教場
明治20年以来、黒川分教場は汁守神社の裏手にあった。【黒川村を始め、上麻生村・下麻生村・早野村・王禅寺村・古沢村・万福寺村・片平村・五力田村・栗木村・黒川村の10ヵ村が合併して旧「柿生村」ができた明治22年(1889年)の】大合併の後も黒川の4年以下の児童が授業を行っていた。
大正12年【1923年】の関東大震災で汁守神社の裏手にあった黒川分教場も大被害を受け、新築移転をせざるを得ない状況になった。新敷地として、現在の「川崎市黒川青少年野外活動センター」のある川崎市麻生区黒川宮添314番地の土地、三反三畝を当時黒川に住んでおられた立川勇吉氏が寄付された。分教場の場所は黒川と栗木との境の山の上で、黒川と栗木を結ぶ道は、大正11年【1922年】にようやく切り通しになったばかりであった。(後略)
【出典:『柿生の教育のあゆみ』】
・黒川からの登下校の功労
当時(昭和20年代前半まで)、黒川・栗木の子ども達は、4年生までが分校で、5・6年生が現在柿生中学校となっている所にあった本校まで通学していました。
私の家から学校までは、約1里半(6キロメートル弱)の砂利道を徒歩で通いました。今では小田急多摩線が通り、バスも走っていますが、そのころは、歩くしか手段がなかったのです。どこへ行くにも歩くのが、あたりまえと思っていましたから、特別につらいとは、思いませんでした。
ただ、朝、家を出るときは、晴れているので、傘を持たずに行き、帰りに雨が降ったときなどは、みじめに思いました。折りたたみの傘などなかったときでしたから、(中略)
一日に10キロメートル以上の道を歩いたので、体は自然にきたえられていったように思います。それと同時に、がまんの気持ちも育ったのではなかったかと思うのです。今では、ジョギングなどといって、わざわざ走る時間を作っている人もいるようです。(中略)
遠い道のりを歩かない限り、毎日が過ごせない時代と、近くでも歩かないで過ごせる現在とでは、苦労の内容・質が全く違うように感じるのです。
【出典:『ふるさとは語る』(柿生郷土誌刊行会・1989年)】
昭和9年(1934年)生まれの市川荘二さんの回想
Topの画像は、黒川分校跡の黒川青少年野外活動センターから、次の目的地、町田市真光寺地区と麻生区黒川地区の県境の尾根道(実は、中世の鎌倉街道の脇街道、所謂「早の道」の一つです)に向かう途中で、センターの屋根越しに写した、野外活動主導中の先生と子供達。蓋し、中世と言わず、『三丁目の夕日』が描く昭和も30年代前半くらいまでは、特別な野外活動指導などは不要なくらい、この新百合ヶ丘エリアも自然が一杯で、また、自然と人間の交流も濃密だったの、鴨。と、上の回想を読んでそう思いました。
先を急ぎましょう。下の画像も目的地の尾根道に出る途中の画像。画面の建物は、新百合ヶ丘が誇る工業団地「マイコンシティー」です。しかし、今時「マイコン」は<死語>になりつつあると思うのですが、固有名詞として言葉が生き残るケースの一つになるのかもしれないですね。而して、画面右手の森を本線経路の「早の道」が貫通しています。
ということで、そろそろ「早の道」について私の理解を提示しておきましょう。
「鎌倉道」や「鎌倉街道」とか呼ばれる道は、関東一円の武士が、「いざ鎌倉」という時に鎌倉へ馳せ参ずる軍用道路でした。そして、『太平記』『梅松論』等々によって、新田義貞が鎌倉攻めの際に実際に通ったとされる「上ノ道」(信濃道)、そして、奥州方面に続く「中ノ道」、更に、房総・常陸へのルートとしての「下ノ道」の三本の「鎌倉街道」があったとされています。尚、現在、「町田市→多摩市→府中」を通っている「鎌倉街道」は「上ノ道」の後身で、中世期には現在よりも東側(すなわち、新百合ヶ丘エリア寄り)を通っていたものと考えられています。
鎌倉街道は「上中下」の三本があった。
しかし、この理解は「鎌倉街道」を「関東一円の武士と鎌倉を結び付ける軍用道路」と定義する場合、厳密に言えば間違いだと思います。要は、機能の面でも、当時の呼称の面でも(ならば、おそらく人々の意識の面からも)「江戸へ向かう道は江戸道であり、鎌倉へ向かうのは、どこでも鎌倉街道」(児玉幸多「近世の神奈川県下の交通」)という事態は、近世のみならず、中世においても成立していたと考えるからです。
http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/kamakurakaido6.JPG
実際、「上中下」三本の鎌倉街道を基本ルートにして、それらにつながる、あるいは、それらを結びつける間道・支道・脇街道は数多存在していて、当時、それらすべての街道が「鎌倉道」と呼ばれていたのですから。蓋し、「鎌倉街道」とは<道>ではなく<システム>である。と、そう私は考えています。
而して、中世の当時、それら三本の基本ルートを中心とする<鎌倉街道システム>の中でも、兵員を含む物流のボリュームではなく物流のスピードに重きを置いた脇街道、あるいは、基本ルート間の連結道が、特に、「早の道」と呼ばれていた、と。
「早の道」の意味を大体このように私は理解していますが、実は、新百合がエリアには何本もの(古街道研究家の宮田太郎先生によれば、大きく3本の)「早の道」が通っていたらしい。そして、旧奈良村(現在の横浜市青葉区)方面から、我等が岡上地区、町田市の広袴、そして、黒川を経て、上ノ道に通ずる道は間違いなく「早の道」の一つだと考えられています。下の参考地図画像に暖色系の①②③の三本の線が宮田太郎先生にご教示いただいた、新百合ヶ丘エリアを通っていた早の道。本線の経路は①を進みます。
・参考地図画像
http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/shinyurimap14b.JPG
と、「早の道」と「鎌倉街道」の説明をしているうちに、黒川分校跡から7-8分足らず、目的地の尾根道に到着です。下の道案内と逆のベクトルに進んで来たということです。
しかし、ここで本線の順路から一旦外れて、町田市真光寺地区にある真光寺公園方面に100メートルほど戻ります。要は、汁守神社を通過してから我々は「東→南→西」と進んで来ました。そして、本線の順路はこれから「南」に進むべきなのですが、「早の道」と「鶴川街道」の関係を整理すべく一旦「北」に戻る。而して、「東+南+西+北=0」となり(この4ベクトルのスカラー量を別にすれば)汁守神社に接近するということです。
上がその「接近の証拠写真」。画面の中央に汁守神社が見える位置まで北上したわけです。而して、ここは真光寺公園の最北最東の角。つまり、「敵地=東京都町田市」です(笑)。下の画像は、その真光寺公園で撮影したもの。「犬の一人歩き」というフレーズが壷に入ってしまったので紹介することにしました。
「犬の一人歩き」って、可笑しくないですか? 可笑しくないのかなぁ?
閑話休題。
本題に戻りましょう。要は、100メートルとはいえ、なぜ、我々は本線経路とは逆に北上したのかです。その理由は2枚上の汁守神社の遠景を撮りたかったから。それはなぜか。
実は、今、我々がいる地点から汁守神社に直接至る経路が、中世の「早の道」の道筋であり、近世の「鶴川街道」も基本的にはこの部分では「早の道」の上をなぞっていた。そして、重要なことは、中世の「早の道」も、近世の「鶴川街道」も、遥か古代の国衙道等々の道筋を部分的にせよ利用することで成立していたらしいこと。このことをお伝えしたかったからなのです。
想像して見てください。
2枚上の汁守神社の遠景画像から現代の道路や建物などをすべて消し去った場面を。そして、そこにこの撮影地点から画面左側をボクシングの「左フック」のような道が、黒川の森と田原の間を汁守神社の鳥居の前まで直接下りている姿を。そして、その道が現在の鶴川街道と平行して調布・府中まで延びている姿を。
これらのイメージを私は古街道研究家の宮田太郎先生からお聞きしましたが、中世・古代の話は、まだ、証拠薄弱な単なる「ロマン」としても、この道筋のイメージは、少なくとも明治後半の地図で確証できる事実なのです。
而して、宮田太郎先生の研究によれば、例えば、剣術道場の拠点を調布に置いていた頃の、近藤勇・土方歳三・沖田総司は、今の町田市小野路にあった弟子の出稽古には、さっきイメージしていただいた道、すなわち、「調布→鶴川街道→汁守神社→汁守神社の遠景撮影地点→布田道→小野路」というルートを頻繁に利用していたとのこと。
しかし、これ片道約20キロ。「遠い道のりを歩かない限り、毎日が過ごせない時代と、近くでも歩かないで過ごせる現在とでは、苦労の内容・質が全く違うように」私も感じてしまいました。
では、本線の順路に戻ります。下が、「早の道」の現在の姿です。
というところで、適度な長さなので次回に続きます(;・ω・;)。