快風丸

俺の船に乗らないか。

学生スポーツのころ

2012-09-30 16:59:10 | Weblog

 小学生のころ、なんせ田舎の遊びといえば、稲刈りあとの田んぼで、野球であった。

他に選択肢など無かった。

 そして児童公園ができ、でこぼこのないグラウンドへ場所が移った。実家の真裏の埋め立て地。

下手だったのでミスすると罵倒された。悔しくて泣いて帰っても、また連れ戻された。人数合わせの

ため。野球は嫌いになっていた。

 5年生になると、クラスでチームができた。ライトで8番。第二リリーフピッチャーでコントロールの良さ

には定評があった。対戦相手は6年生。何度も挑んだが、結局、一勝もできなかった。クラスはとても

まとまっていたし、このころは、野球に対して、情熱を感じていた。

 しかし、団体スポーツは、いつでも、「誰かのせいで負ける」というネガティブな側面を持っている。

親戚のおばさんから

「あんたには個人競技が向いてるかもしれん」

そう言われて、腑に落ちた。勝っても負けても自分の責任。

中学では、「エースをねらえ」であこがれていたテニス部の門をたたくことになる。

高校は地元の強豪校の一角だった。身体が丈夫ではかなったので、母は止めたが、テニスで勝つことへの憧れ

をあきらめなかった。

現在は、廃校となってしまった。

福島投手の本を読んで、高校のころを思い出した。なんとなくその場所に行ってみた。

毎日、自転車で、15分、坂を登り続けた先にある。テニスコートは荒れていた。

正門。

OBが熱心に指導して下さった。インターハイ出場が目標で、それができる環境だった。

しかし、そういったものがうっとうしく感じられてきた。

2年生になった春、最も仲の良かった友人がチームを去った。

その友人と人生初となるロックバンドを組んだ。練習は休みがちとなった。

ある日、コーチに呼び出された。厳しい人、怖い人だったので、覚悟した。しかし、意に反して

その言葉は優しかった。

「他にやりたいことがあるのなら、それは否定しない。しかし、テニスはこのまま中途半端で終わって

それで良いのか、考えてみてくれ。」

 それから復帰した。勝ちたいと思う気持ちにはなんらの曇りもなかった。しかし、技術も体力もついていかない。

また、試合勘みたいなものがすっかり落ちてしまっていた。

 高校最後の大会も不完全燃焼のまま、県大会にも出れなかった。

 

 この経験に後悔は無い。今でも、テニスもバンドもやれているのは、この高校生活があったからだ。

しかし、自分がサボっている間も、厳しい練習を続けていたチームメイト、そして、情熱的に指導して下さった

OBの方々を裏切ったという心の荷物を、未だ下ろせないでいる。

 

 ここへ来るたび、心の置きどころをなくしてしまう。深い孤独感におそわれる。

しかし、来ずにはいられない。自分でもよくわからない。

ただ、それは、青春時代の懐かしい、さわやかな思い出ではないことだけは確かである。

 

 

 


福島一雄投手

2012-09-30 16:35:33 | Weblog

 「だいぶのぼせた」という母が持っているブロマイド。

昭和の野球人らしい武骨さを感じない、優しそうな印象。

 そして、チケットの半券。23.10.30、平成ではなくて、昭和。今から64年前。

 福島投手の人気は、ただ単に野球技術が優れていただけではない。

イニングが終わると、必ずボールをプレート上にキチンと置いてからマウンドを降りていたという。

そして、チェンジの時は、ナイン全員、全力疾走で移動したという。その気高くも美しいフェアプレー精神に

よるところも大きい。

 強いだけでは社会に受けいれてはもらえないということ、当時の大人たちがしっかり教えていたのだなと改めて思う。

 

 


甲子園2連覇

2012-09-30 01:56:47 | Weblog

 たぶん、この本を知ったのは、7月、夏の高校野球のころ、新聞でだったと思う。

旧制小倉中学の福島一雄投手の話は、野球少年だった幼少のころより、幾度となく母から聞かされていた。

アンダースロー、打たせて取る頭脳ピッチング、甘いマスクで、母をはじめとする北九州の女子たちは、

「だいぶのぼせた」

のだそうである。

そんな福島投手の本が出たと、母にメールをしたのだった。母は80を過ぎてケイタイメールを習得し、

85歳の今も、電話よりメールの人である。

ネットで注文し、送ってあげた。母は、一晩で読んだ、面白かったという。

「作者の大羽武は、あんたも知っとるやろ。」

 父の弟の奥さんの弟。その人は、数年前に会っているし、話もした。この名前を忘れていたのだ。

びっくりした。こんな偶然があるんだなあ。

 お会いしたのは、親戚の葬式で、父とドイツ文学の話しで盛り上がっていた。ダンディなおじさまだった。

ロシア人の若くて綺麗な奥様同伴だったのもその印象を強くしている。

 作家ではなくて、学者さん。日本の医師向けに、医学用語の独日辞典を編纂されたりしている。

さて、この本、読んでみた。

 

 練習のこと、野球部のこと、試合経過、生活のこと、家族、環境、ほとんどが事実の積み重ね、記録で構成されている。

しかし、それで物語として成り立っている。感動した。

終戦後、ほんとうに何も無くなってしまったこの国で野球をするということがどれほど困難なことなのか。

他に娯楽などない地元の人たちにどのように期待され、どう応えたのか。

それは、もう、壮絶という言葉でしか表現できないのがもどかしいほどである。

しかし、福島投手を始め、ナインたちは、いたってさわやかである。加えて福島投手は、とても穏やかな性格だったようだ。

しかし、それは、その燃え上がるような闘志を胸の奥に納めていたからだそうである。

 

 あまり身体が強く無く、剛球は投げられないので、打たせて取る頭脳ピッチングとなったとのこと。

試合で投げた全ての配球を記憶していたといい、また、その全てを試合後に振り返って反省したのだそうだ。

悪かった球だけでなく、良かったところはなぜ良かったのかまでを追求したのだそうだ。

 また、打たせて取るというのは、バックの守備を信頼していなければできないこと。自身の持つ、連続18イニング

無失点の大記録についても、「自分ひとりのものではない」と決して浮かれることはなかった。

そして、彼らがすごいのは、学校の勉強もおろそかにしなかったこと。

ほとんどの選手が東京六大学に進学している。

 

 あとがきに、取材について書かれている。やはり、そうとうの手間がかかっている。NHKには、映像が残っていな

かったそうである。

実は、福島投手、81歳でご尊命でいらっしゃるそうだ。

 

 勝つことの難しさ、さらには、勝ち続けることの難しさ、そして、それゆえの尊さを知った。

素晴らしい読書体験だった。