4年前の年末、僕は22年働いていた会社をリストラされた。翌年2月の愛媛マラソンのスタートラインに立った時、僕は「チーム・ハローワーク」の一員だった。
その月末には、パートタイマーとして、現在の職場で勤務を始めたのであるが、ハローワーク通いを続ける日々の中、それまでは見られなかった、平日午前から午後のテレビ番組を見るようになった。特に、当時既に愛媛でも放映されていた「ミヤネ屋」のキャスター、宮根誠司の司会ぶりは新鮮だった。経済や政治のニュースも、芸能やスポーツ(阪神タイガース)の話題も同じ口調で語る、というのが目新しかった。
その頃、民放のワイド・ショーにおいて、「若いホームレス」の生活に密着取材をしていた特集を見た。ホームレスというと、老人を連想してしまいがちだが、そこに登場したのは20代の青年。彼がどうして、そのような境遇になったかは記憶にない。日雇い派遣の仕事でわずかばかりの金を稼ぎ、仕事のない時は街頭でアンケートに応えた謝礼でもらったQUOカードを換金して小銭を得て、終夜営業のファミレスやネットカフェで夜を明かす日々を続けている。
いよいよ手持ちの金が尽きた彼が頼りにしていたのは、毎週日曜日に、ホームレス支援団体が行なっている炊き出しだった。ところが、その日、彼は炊き出しが行なわれている公園に行くことが出来なかった。
いつもの道を通って公園に行こうとしても大通りの向こう側に渡ることが出来ないのだ。大通りはランナーが埋め尽くしていた。その日は2008年の東京マラソンが行なわれていたのだ。途切れることもなく続くランナーの列を憔悴した目で見つめる彼がつぶやく。
「これ、いつまで続くんですか?」
もちろん、主催者は大会に際して、コース近隣の住民に対しては、交通規制の時間や通行禁止エリア等について、広報活動は実施していた。しかし、それは彼の目には届いていなかった。
その日、彼は炊き出しの食事にありつけなかった。
放映した局がどこかは忘れてしまった。ただ、東京マラソンを主催し、テレビ中継する局でなかったと思う。
製作者の意図はどのようなものだったのだろう。華やかなマラソン大会の陰で、日々の生活にも困窮する青年がいるという現実を伝えることだったのか。あるいは、都知事肝煎りのイベントが、一人の青年の生命を脅かそうとしている事実に対する告発だったのか。
マラソン愛好家の僕には決して見ていて居心地のいい映像ではなかった。マラソン大会が、少なくとも一人の青年のとっては「大迷惑」になっていることを明確している映像だったからだ。同時に、マラソン大会というのは、誰のために、何のために行なわれるべきものなのかということも考えずにはいられなかった。
まず言えることは、マラソン大会というものは、ランナーのためだけのものではない、ということだ。
いつの間にか、「勝ち組」とか「負け組」とか言った言葉が定着してしまっている。全面的に交通が封鎖された銀座を埋め尽くすランナーたちは「勝ち組」ということになるのだろうか。
勝ちか負けかということが、収入を基準で決めることなら、現在は非正規社員という身分の僕は明らかに「負け組」である。収入は4年前に比べると7割に減っている。2年前は市民税の支払いを免除されていた。そんな自分にとって、東京を走る、ということは、やはり「分不相応な贅沢」かもしれない。しかし、自分にとっては、ここはどうしても「来たかった
場所」だった。40代の最後に、ここに来る事が出来たのは、幸運だった。
あの青年は今日、どこにいただろうか。今度はうまく炊き出しの食事にありついただろうか。それとも、炊き出しに頼るような生活から脱することが出来ただろうか。
コスプレランナーに比べると、Tシャツにランパンという「当たり前」の姿の自分にはほとんど声が掛らない。これなら、自分が所属する駅伝チームのランシャツを着てくれば良かったかもしれない。そこには、「松山」とプリントされているので、
「まつやま、頑張れ!」
「四国からよく来たね!」
といった声援を受けたかもしれない。少なくとも、かつての北海道マラソンや長野マラソンではそんな声援をたくさん受けた。北海道マラソンは沿道で主催する新聞社の旗のみならず、出場者リストを印刷した号外を配布していた。沿道の人たちは僕のナンバーから名前を知り、
「○○さん、頑張れ!」
と声を掛けられた。これには驚き、また、嬉しかった。
こんなに沢山の人がいて、誰も自分のことを知らない。それが東京というものかしら。
コスプレと言えば、僕はこれまで、レースにおいては、「一流ランナーのコスプレ」をしてきた。有名メイカーと契約している一流ランナーに倣って、レースに出る際は、愛用するシューズと同じメイカーのウェアと帽子、靴下に手袋を揃えていた。頭の上から爪先まで、ブランドを統一することで、一流ランナーの気分を味わっていた。'90年代の名ランナー、マルティン・フィスに憧れた時、彼の愛用していたR社のシューズを買ったものの、R社のウェアは地方のスポーツ用品店では取り扱う店が少なく、探し回ってようやく手に入れたこともあった。
今日は土佐礼子の似顔絵Tシャツにランニングパンツだが、Tシャツにランパン、夏ならバンダナで冬は毛糸のキャップ、というコスチュームは、'70年代アメリカの名ランナー、フランク・ショーターやビル・ロジャースのレース時のウェアだ。1972年のミュンヘン五輪。スポーツ大国だったアメリカが「お家芸」と呼ばれていた競技の連勝をことごとく、ソ連や東欧の社会主義国に阻まれていたその大会の最終種目であるマラソンにおいて、トップでスタジアムに戻ってきたのは長髪をなびかせたヒゲ面のアメリカ人、フランク・ショーターだった。
そのショーターと、ベトナム反戦デモにも参加した実績のあるロジャースがトップを争ったのが1976年のニューヨークシティ・マラソン。芥川賞受賞のご褒美でニューヨークに来ていた作家、村上龍はそのレースを題材に一篇の短編小説を書き上げて、「月刊プレイボーイ」に発表した。
その小説をリアルタイムで読んだ僕は、その35年後に、東京をマラソンで走ることは夢にも思わなかった。
右折するカーブが近づいてきた。赤い大きな提灯に「雷門」と書かれている。浅草寺の前を右折すると・・・
視界に飛び込んで来るのが東京スカイツリーだった。立ち止まって写真を撮る人も少なくない。新しい東京の新名所だ。東京タワーには、修学旅行で来た時に展望台に上った。東京生まれの人でも上ったことがないという人も少なくないようである。僕だって、松山生まれだが道後温泉本館に初めて入ったのは18歳の時で、これまで50年生きてきて、たぶん5回も入っていない。
僕の高校の時の修学旅行では、東京都内での自由行動はなかった。訪れたのは国会議事堂に二重橋に東京タワー。東京生まれの知人には、
「まるで『東京だよおっかさん』みたいだね。」
と笑われたことがある。
「でも、靖国神社には行かなかったよ。」
もはや4時間以内のゴールは厳しいなと思っていたところ、沿道がやや騒がしくなる。真横に、品川で引き離した浅井えり子がいたのだ。彼女はずっと、一定のペースを守ってここまで来ていた、それに追いつかれたのだった。ちょうど4時間でゴール出来るペースをきっちりと守っていたのだろう。彼女のペースについて行く。
東京生まれで東京育ち、NECホームエレクトロニクスに所属し、五輪代表となった当時は野川公園の芝生の上で、退社後は自宅近くの荒川の河川敷でトレーニングを続けているという彼女にとっては、東京のコースは完全な「ホーム」だ。沿道の声援も一際大きい。
「あさいさん!」
「えりこちゃん!」
沿道の人が皆、彼女の身内のように思えるような、そんな温かい声援が多くなる。
彼女のペースに合わせたが、もはやこの時点で1km5分40秒のペースが僕にとってはオーバーペースとなっていた。品川で彼女に追いつかれた時点で、彼女をペースメイカーにする走りに切り替えるべきだったかもしれないが、既に手遅れである。30kmを2時間50分台で通過。そして、もはや彼女のペースには付けなくなった。
日本橋を通過する時、後ろから大きな集団に追いつかれた。4時間のペースメイカーに率いられた集団だ。もはや彼らにもつけない。4時間以内のゴールが絶望的になった。
(つづく)
その月末には、パートタイマーとして、現在の職場で勤務を始めたのであるが、ハローワーク通いを続ける日々の中、それまでは見られなかった、平日午前から午後のテレビ番組を見るようになった。特に、当時既に愛媛でも放映されていた「ミヤネ屋」のキャスター、宮根誠司の司会ぶりは新鮮だった。経済や政治のニュースも、芸能やスポーツ(阪神タイガース)の話題も同じ口調で語る、というのが目新しかった。
その頃、民放のワイド・ショーにおいて、「若いホームレス」の生活に密着取材をしていた特集を見た。ホームレスというと、老人を連想してしまいがちだが、そこに登場したのは20代の青年。彼がどうして、そのような境遇になったかは記憶にない。日雇い派遣の仕事でわずかばかりの金を稼ぎ、仕事のない時は街頭でアンケートに応えた謝礼でもらったQUOカードを換金して小銭を得て、終夜営業のファミレスやネットカフェで夜を明かす日々を続けている。
いよいよ手持ちの金が尽きた彼が頼りにしていたのは、毎週日曜日に、ホームレス支援団体が行なっている炊き出しだった。ところが、その日、彼は炊き出しが行なわれている公園に行くことが出来なかった。
いつもの道を通って公園に行こうとしても大通りの向こう側に渡ることが出来ないのだ。大通りはランナーが埋め尽くしていた。その日は2008年の東京マラソンが行なわれていたのだ。途切れることもなく続くランナーの列を憔悴した目で見つめる彼がつぶやく。
「これ、いつまで続くんですか?」
もちろん、主催者は大会に際して、コース近隣の住民に対しては、交通規制の時間や通行禁止エリア等について、広報活動は実施していた。しかし、それは彼の目には届いていなかった。
その日、彼は炊き出しの食事にありつけなかった。
放映した局がどこかは忘れてしまった。ただ、東京マラソンを主催し、テレビ中継する局でなかったと思う。
製作者の意図はどのようなものだったのだろう。華やかなマラソン大会の陰で、日々の生活にも困窮する青年がいるという現実を伝えることだったのか。あるいは、都知事肝煎りのイベントが、一人の青年の生命を脅かそうとしている事実に対する告発だったのか。
マラソン愛好家の僕には決して見ていて居心地のいい映像ではなかった。マラソン大会が、少なくとも一人の青年のとっては「大迷惑」になっていることを明確している映像だったからだ。同時に、マラソン大会というのは、誰のために、何のために行なわれるべきものなのかということも考えずにはいられなかった。
まず言えることは、マラソン大会というものは、ランナーのためだけのものではない、ということだ。
いつの間にか、「勝ち組」とか「負け組」とか言った言葉が定着してしまっている。全面的に交通が封鎖された銀座を埋め尽くすランナーたちは「勝ち組」ということになるのだろうか。
勝ちか負けかということが、収入を基準で決めることなら、現在は非正規社員という身分の僕は明らかに「負け組」である。収入は4年前に比べると7割に減っている。2年前は市民税の支払いを免除されていた。そんな自分にとって、東京を走る、ということは、やはり「分不相応な贅沢」かもしれない。しかし、自分にとっては、ここはどうしても「来たかった
場所」だった。40代の最後に、ここに来る事が出来たのは、幸運だった。
あの青年は今日、どこにいただろうか。今度はうまく炊き出しの食事にありついただろうか。それとも、炊き出しに頼るような生活から脱することが出来ただろうか。
コスプレランナーに比べると、Tシャツにランパンという「当たり前」の姿の自分にはほとんど声が掛らない。これなら、自分が所属する駅伝チームのランシャツを着てくれば良かったかもしれない。そこには、「松山」とプリントされているので、
「まつやま、頑張れ!」
「四国からよく来たね!」
といった声援を受けたかもしれない。少なくとも、かつての北海道マラソンや長野マラソンではそんな声援をたくさん受けた。北海道マラソンは沿道で主催する新聞社の旗のみならず、出場者リストを印刷した号外を配布していた。沿道の人たちは僕のナンバーから名前を知り、
「○○さん、頑張れ!」
と声を掛けられた。これには驚き、また、嬉しかった。
こんなに沢山の人がいて、誰も自分のことを知らない。それが東京というものかしら。
コスプレと言えば、僕はこれまで、レースにおいては、「一流ランナーのコスプレ」をしてきた。有名メイカーと契約している一流ランナーに倣って、レースに出る際は、愛用するシューズと同じメイカーのウェアと帽子、靴下に手袋を揃えていた。頭の上から爪先まで、ブランドを統一することで、一流ランナーの気分を味わっていた。'90年代の名ランナー、マルティン・フィスに憧れた時、彼の愛用していたR社のシューズを買ったものの、R社のウェアは地方のスポーツ用品店では取り扱う店が少なく、探し回ってようやく手に入れたこともあった。
今日は土佐礼子の似顔絵Tシャツにランニングパンツだが、Tシャツにランパン、夏ならバンダナで冬は毛糸のキャップ、というコスチュームは、'70年代アメリカの名ランナー、フランク・ショーターやビル・ロジャースのレース時のウェアだ。1972年のミュンヘン五輪。スポーツ大国だったアメリカが「お家芸」と呼ばれていた競技の連勝をことごとく、ソ連や東欧の社会主義国に阻まれていたその大会の最終種目であるマラソンにおいて、トップでスタジアムに戻ってきたのは長髪をなびかせたヒゲ面のアメリカ人、フランク・ショーターだった。
そのショーターと、ベトナム反戦デモにも参加した実績のあるロジャースがトップを争ったのが1976年のニューヨークシティ・マラソン。芥川賞受賞のご褒美でニューヨークに来ていた作家、村上龍はそのレースを題材に一篇の短編小説を書き上げて、「月刊プレイボーイ」に発表した。
その小説をリアルタイムで読んだ僕は、その35年後に、東京をマラソンで走ることは夢にも思わなかった。
右折するカーブが近づいてきた。赤い大きな提灯に「雷門」と書かれている。浅草寺の前を右折すると・・・
視界に飛び込んで来るのが東京スカイツリーだった。立ち止まって写真を撮る人も少なくない。新しい東京の新名所だ。東京タワーには、修学旅行で来た時に展望台に上った。東京生まれの人でも上ったことがないという人も少なくないようである。僕だって、松山生まれだが道後温泉本館に初めて入ったのは18歳の時で、これまで50年生きてきて、たぶん5回も入っていない。
僕の高校の時の修学旅行では、東京都内での自由行動はなかった。訪れたのは国会議事堂に二重橋に東京タワー。東京生まれの知人には、
「まるで『東京だよおっかさん』みたいだね。」
と笑われたことがある。
「でも、靖国神社には行かなかったよ。」
もはや4時間以内のゴールは厳しいなと思っていたところ、沿道がやや騒がしくなる。真横に、品川で引き離した浅井えり子がいたのだ。彼女はずっと、一定のペースを守ってここまで来ていた、それに追いつかれたのだった。ちょうど4時間でゴール出来るペースをきっちりと守っていたのだろう。彼女のペースについて行く。
東京生まれで東京育ち、NECホームエレクトロニクスに所属し、五輪代表となった当時は野川公園の芝生の上で、退社後は自宅近くの荒川の河川敷でトレーニングを続けているという彼女にとっては、東京のコースは完全な「ホーム」だ。沿道の声援も一際大きい。
「あさいさん!」
「えりこちゃん!」
沿道の人が皆、彼女の身内のように思えるような、そんな温かい声援が多くなる。
彼女のペースに合わせたが、もはやこの時点で1km5分40秒のペースが僕にとってはオーバーペースとなっていた。品川で彼女に追いつかれた時点で、彼女をペースメイカーにする走りに切り替えるべきだったかもしれないが、既に手遅れである。30kmを2時間50分台で通過。そして、もはや彼女のペースには付けなくなった。
日本橋を通過する時、後ろから大きな集団に追いつかれた。4時間のペースメイカーに率いられた集団だ。もはや彼らにもつけない。4時間以内のゴールが絶望的になった。
(つづく)
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