風呂から上がり、食事を済ませ、荷物の整理をした。スタート地点で預かり、ゴール地点まで届けて貰える荷物の大きさには限りがある。そこで最低限必要な物以外は自宅に送ることにした。
マラソン出場者はほとんど既にチェックアウトを済ませたようだ。前日に見つけておいたコンビニで自宅まで荷物を送る。東日本と西日本とでは、コンビニの勢力図も違うようだ。僕の勤務先の宅配サービスが使える店舗がなかなか見つからなかった。
スタート地点まで歩いて行くが、周りに人は少ない。もしかしたら時間を間違えているのではと少し不安になってきた。
荷物の預かりの締め切り時間が8時30分であるということを未確認だったのだ。会場に着いたのがその5分前。ゆっくりと着替える暇も無かった。前日、薬屋で買った白色ワセリンを股ズレしそうな部位に擦り込む余裕もなかった。スタート直前にアンラッキーがやってきたか。危うく、着替えを入れたリュックを背負って走らなくてはならないところだった。あと数分遅れていたらそうなるところだった。おかげで、スタート前にトイレで用を足すことも出来なかった。
とにかく人が多い。ハングルをプリントしたTシャツやランニングウェアを着た人たちが記念写真を撮っている。ナンバーカードの数字によってスタートブロックが決められている。その数字は、申し込みの際に記入する自己記録と今回の目標タイムで決められる。8時45分までにブロックに並ばなければ、最後尾からのスタートとなってしまう。僕はAブロックからのスタートである。少なくとも、8時には都庁に着くようにしないといけないなと思った。荷物預かりの締め切り時間を8時45分と勘違いしていたのだ。
目標タイム3時間45分でも、こんなに前の方に並べるのかと思えるような場所でスタートを待つ。雨が降らなくて本当に良かった。それに気温も高い。最高気温は15℃を越えるという予報が出ている。上は3週間前の愛媛マラソンの時にも着た土佐礼子の似顔絵入りTシャツ。3年前の北京五輪の時の応援Tシャツだ。下はオレンジ色のランパン。やはり愛媛県人はみかん色を着ないと。帽子と手袋は愛媛マラソンの参加賞で貰ったもの。帽子は愛媛FCか、四国独立リーグのマンダリンパイレーツのものでも良かったかも。ささやかではあるが、「ランナーfrom愛媛」であることを示したつもりだ。
隣のランナーと立ち話をして時間をつぶしているうちに、開会セレモニーが始まる。都知事の顔がこんなにもはっきり見える位置に立てるとは。それにしても、36年前、彼が初めて都知事選に出馬した時の敗因の一つが、当時は同じ自由民主党の衆院議員だった、日本陸連会長との対立だったということを知る人ももう少ないのだろうな。来年はあの位置に誰が立つのだろう。自ら、3時間30分を切ってマラソンを完走できる元宮崎県知事なら、自分もスタートラインに立つだろうか。
(本稿は、2月27日の大会当日の視点で書いています。)
9時30分スタート。花火が鳴り響き、紙吹雪が舞う。合唱団のコーラスに見送られ、ランナーたちが動き始める。スタートラインを越えたのは56秒後。愛媛マラソンと比べると18秒遅れただけだ。ロスタイムが1分以内というのは嬉しい誤算だ。
スタートから7kmまでは高低差40mの下り坂。1時間30分前に歩いていた靖国通りを駆け下りていく。スタート前にトイレに行けなかったので、どこかで済ませたいところだ。仮設トイレを探しながら走る。ようやく見つかったので済ませることが出来た。これで安心した。
沿道は応援の人で溢れている。そういえば、人気アイドルグループのメンバーも走ると聞いている。彼女たちのファンも秋葉原方面から大量に移動してきているのだろうか。そんな事を思いつつ、横を見ると、彼女たちのトレードマークであるチェックのコスチュームを着た数人の女性ランナーたちが。ただし年齢はアラサーかアラフォー世代とみた。しかし、かなり走りこんでいるようで、僕は彼女たちにつけなかった。3週間前に愛媛マラソンを走り、足に痛みは残っていない。ひたすら休養に務め、最長で17kmの通勤ランを1度走ったのみである。5日前に10kmを今回の目標よりも少し速いペースで走ったのが最終調整だった。
歯の治療にも通った。奥歯が虫歯になっていて、冷たい水はもとより、熱い湯も歯にしみていた。少なくともしみる痛みだけは取り除いた。
初挑戦となる、月2回のフルマラソン出場。故障なくスタートに立てただけでも良しとしたい。マラソンは無事にスタートラインに立てた時点で半分は終わっているのだ。
標識に記された地名、ビルの看板。いずれも聞きなれた名前ばかりだ。東京の街はいつかテレビや本で見た世界だ。その中で今、僕は走っている。学生時代に、一人きりで京阪神を旅行した時のことを思い出した。御堂筋の人ごみの中を歩いている時に味わった、不思議な高揚感を思い出した。こんなに沢山の人がいるのに、誰も僕のことを知らない人ばかりだ。見知らぬ人だらけの街の中を歩く事が、こんなに気持ちのいいことだったとはその時まで知らなかった。
市ヶ谷を通過した。市ヶ谷といえば、東京国際マラソンの最後の上り坂、そして防衛省のある街。その防衛省の前で、自衛隊の吹奏楽団が演奏をしていた。曲目は実に懐かしい!かつてはジャイアンツ戦や全日本プロレス中継、そして“世界の巨人”ジャイアント馬場の入場テーマにも使われた、「日本テレビのスポーツマーチ」だ。正式な題名は知らないが、村松友視のプロレス本で、作曲者が黛敏郎である事を知った。
それにしても、今年の中継はフジテレビだったのになあ。
右手に皇居のお堀を見ながら走っていると10kmのフィニッシュが近づいてきた。このあたりは箱根駅伝の1区や東京国際マラソンのコースと被る。そういえば、去年、Hさんから貰った年賀はがきは、東京発の「ふるさと年賀はがき」で、増上寺の前を通るランナーのイラストが描かれていた。「東京を走る」ということは、日比谷から品川を走るということだ。
第一回の東京マラソンの翌週に発売されたある週刊誌で、都知事批判の特集をしていたが、その中で、東京マラソンのコースはその前の都知事選挙で、都知事の得票数が少なかった地域を通っていると指摘していた。僕は感心した。そうなのか。マラソンなどに全く関心の無い、「反権力」を標榜するジャーナリスト氏はそういう発想をするものなのかと。その都市の観光スポットを通過するコース設定をすることが世界の都市マラソンのトレンドであるということなどは知ったことではないのだろう。
品川の折り返し地点へ向けて走り続ける。反対車線には先頭グループが見えてきた。トップ集団はあまりにも多く、あまりにも速くて、誰がいたのかよく分からなかった。3週間前の愛媛マラソンで優勝した城武雅も出ているはずである。しかしなかなかやって来ない。アフリカ系のランナーが先頭集団から遅れてやってきた。よく見るとエリック・ワイナイナだった。そして女子のトップがやって来た。渋井陽子だ。その横に城武がいた。
「しろたけさん!」
と声をかけたが、届いただろうか?
土佐礼子の不在が寂しく感じられた。今回のレースを「ラストラン」に決めていたという、土佐の松山商業の後輩である大平美樹が見えた。増田明美から「和製ラドクリフ」と評された長身と、肩をいからせた独特のフォーム。フルマラソンを走るようになって、いかり肩はかなり矯正されたが、マラソンで世界の舞台に立てなかったのが惜しまれる。
「おおひらさん!」
その声が届いたのか、こちらに顔を向けて笑顔を見せてくれた。ラストということでかなりリラックスして走っているのだろう。11月のアジア大会代表だった嶋原清子はかなり遅れている。
反対車線の方にばかり視線を向けて走っていたが、ふと目の前にいた小柄な女性ランナーに驚いた。浅井えり子だ。ソウル五輪女子マラソン代表、と言うより、日本の女子マラソンのパイオニアの一人と言うべき名ランナーの一人だ。本当に息の長いランナーで、マラソンもトラックも自己ベストは30代、五輪出場から数年後にマークしている。指導者で、後に夫となり、その死を見取った佐々木功監督の教えである、LSDをメインとしたトレーニングを今も続けているようで50歳を過ぎた今も、各地のレースに出場を続けている。東京にも毎年出場しているようだ。
「あさいさん、お先に。」
と小さく声を掛けて彼女を抜き去った。その時は、愛媛に戻ったら、浅井えり子を追い抜いたことをランナー仲間に自慢できたらいいなと考えていた。
(つづく)
マラソン出場者はほとんど既にチェックアウトを済ませたようだ。前日に見つけておいたコンビニで自宅まで荷物を送る。東日本と西日本とでは、コンビニの勢力図も違うようだ。僕の勤務先の宅配サービスが使える店舗がなかなか見つからなかった。
スタート地点まで歩いて行くが、周りに人は少ない。もしかしたら時間を間違えているのではと少し不安になってきた。
荷物の預かりの締め切り時間が8時30分であるということを未確認だったのだ。会場に着いたのがその5分前。ゆっくりと着替える暇も無かった。前日、薬屋で買った白色ワセリンを股ズレしそうな部位に擦り込む余裕もなかった。スタート直前にアンラッキーがやってきたか。危うく、着替えを入れたリュックを背負って走らなくてはならないところだった。あと数分遅れていたらそうなるところだった。おかげで、スタート前にトイレで用を足すことも出来なかった。
とにかく人が多い。ハングルをプリントしたTシャツやランニングウェアを着た人たちが記念写真を撮っている。ナンバーカードの数字によってスタートブロックが決められている。その数字は、申し込みの際に記入する自己記録と今回の目標タイムで決められる。8時45分までにブロックに並ばなければ、最後尾からのスタートとなってしまう。僕はAブロックからのスタートである。少なくとも、8時には都庁に着くようにしないといけないなと思った。荷物預かりの締め切り時間を8時45分と勘違いしていたのだ。
目標タイム3時間45分でも、こんなに前の方に並べるのかと思えるような場所でスタートを待つ。雨が降らなくて本当に良かった。それに気温も高い。最高気温は15℃を越えるという予報が出ている。上は3週間前の愛媛マラソンの時にも着た土佐礼子の似顔絵入りTシャツ。3年前の北京五輪の時の応援Tシャツだ。下はオレンジ色のランパン。やはり愛媛県人はみかん色を着ないと。帽子と手袋は愛媛マラソンの参加賞で貰ったもの。帽子は愛媛FCか、四国独立リーグのマンダリンパイレーツのものでも良かったかも。ささやかではあるが、「ランナーfrom愛媛」であることを示したつもりだ。
隣のランナーと立ち話をして時間をつぶしているうちに、開会セレモニーが始まる。都知事の顔がこんなにもはっきり見える位置に立てるとは。それにしても、36年前、彼が初めて都知事選に出馬した時の敗因の一つが、当時は同じ自由民主党の衆院議員だった、日本陸連会長との対立だったということを知る人ももう少ないのだろうな。来年はあの位置に誰が立つのだろう。自ら、3時間30分を切ってマラソンを完走できる元宮崎県知事なら、自分もスタートラインに立つだろうか。
(本稿は、2月27日の大会当日の視点で書いています。)
9時30分スタート。花火が鳴り響き、紙吹雪が舞う。合唱団のコーラスに見送られ、ランナーたちが動き始める。スタートラインを越えたのは56秒後。愛媛マラソンと比べると18秒遅れただけだ。ロスタイムが1分以内というのは嬉しい誤算だ。
スタートから7kmまでは高低差40mの下り坂。1時間30分前に歩いていた靖国通りを駆け下りていく。スタート前にトイレに行けなかったので、どこかで済ませたいところだ。仮設トイレを探しながら走る。ようやく見つかったので済ませることが出来た。これで安心した。
沿道は応援の人で溢れている。そういえば、人気アイドルグループのメンバーも走ると聞いている。彼女たちのファンも秋葉原方面から大量に移動してきているのだろうか。そんな事を思いつつ、横を見ると、彼女たちのトレードマークであるチェックのコスチュームを着た数人の女性ランナーたちが。ただし年齢はアラサーかアラフォー世代とみた。しかし、かなり走りこんでいるようで、僕は彼女たちにつけなかった。3週間前に愛媛マラソンを走り、足に痛みは残っていない。ひたすら休養に務め、最長で17kmの通勤ランを1度走ったのみである。5日前に10kmを今回の目標よりも少し速いペースで走ったのが最終調整だった。
歯の治療にも通った。奥歯が虫歯になっていて、冷たい水はもとより、熱い湯も歯にしみていた。少なくともしみる痛みだけは取り除いた。
初挑戦となる、月2回のフルマラソン出場。故障なくスタートに立てただけでも良しとしたい。マラソンは無事にスタートラインに立てた時点で半分は終わっているのだ。
標識に記された地名、ビルの看板。いずれも聞きなれた名前ばかりだ。東京の街はいつかテレビや本で見た世界だ。その中で今、僕は走っている。学生時代に、一人きりで京阪神を旅行した時のことを思い出した。御堂筋の人ごみの中を歩いている時に味わった、不思議な高揚感を思い出した。こんなに沢山の人がいるのに、誰も僕のことを知らない人ばかりだ。見知らぬ人だらけの街の中を歩く事が、こんなに気持ちのいいことだったとはその時まで知らなかった。
市ヶ谷を通過した。市ヶ谷といえば、東京国際マラソンの最後の上り坂、そして防衛省のある街。その防衛省の前で、自衛隊の吹奏楽団が演奏をしていた。曲目は実に懐かしい!かつてはジャイアンツ戦や全日本プロレス中継、そして“世界の巨人”ジャイアント馬場の入場テーマにも使われた、「日本テレビのスポーツマーチ」だ。正式な題名は知らないが、村松友視のプロレス本で、作曲者が黛敏郎である事を知った。
それにしても、今年の中継はフジテレビだったのになあ。
右手に皇居のお堀を見ながら走っていると10kmのフィニッシュが近づいてきた。このあたりは箱根駅伝の1区や東京国際マラソンのコースと被る。そういえば、去年、Hさんから貰った年賀はがきは、東京発の「ふるさと年賀はがき」で、増上寺の前を通るランナーのイラストが描かれていた。「東京を走る」ということは、日比谷から品川を走るということだ。
第一回の東京マラソンの翌週に発売されたある週刊誌で、都知事批判の特集をしていたが、その中で、東京マラソンのコースはその前の都知事選挙で、都知事の得票数が少なかった地域を通っていると指摘していた。僕は感心した。そうなのか。マラソンなどに全く関心の無い、「反権力」を標榜するジャーナリスト氏はそういう発想をするものなのかと。その都市の観光スポットを通過するコース設定をすることが世界の都市マラソンのトレンドであるということなどは知ったことではないのだろう。
品川の折り返し地点へ向けて走り続ける。反対車線には先頭グループが見えてきた。トップ集団はあまりにも多く、あまりにも速くて、誰がいたのかよく分からなかった。3週間前の愛媛マラソンで優勝した城武雅も出ているはずである。しかしなかなかやって来ない。アフリカ系のランナーが先頭集団から遅れてやってきた。よく見るとエリック・ワイナイナだった。そして女子のトップがやって来た。渋井陽子だ。その横に城武がいた。
「しろたけさん!」
と声をかけたが、届いただろうか?
土佐礼子の不在が寂しく感じられた。今回のレースを「ラストラン」に決めていたという、土佐の松山商業の後輩である大平美樹が見えた。増田明美から「和製ラドクリフ」と評された長身と、肩をいからせた独特のフォーム。フルマラソンを走るようになって、いかり肩はかなり矯正されたが、マラソンで世界の舞台に立てなかったのが惜しまれる。
「おおひらさん!」
その声が届いたのか、こちらに顔を向けて笑顔を見せてくれた。ラストということでかなりリラックスして走っているのだろう。11月のアジア大会代表だった嶋原清子はかなり遅れている。
反対車線の方にばかり視線を向けて走っていたが、ふと目の前にいた小柄な女性ランナーに驚いた。浅井えり子だ。ソウル五輪女子マラソン代表、と言うより、日本の女子マラソンのパイオニアの一人と言うべき名ランナーの一人だ。本当に息の長いランナーで、マラソンもトラックも自己ベストは30代、五輪出場から数年後にマークしている。指導者で、後に夫となり、その死を見取った佐々木功監督の教えである、LSDをメインとしたトレーニングを今も続けているようで50歳を過ぎた今も、各地のレースに出場を続けている。東京にも毎年出場しているようだ。
「あさいさん、お先に。」
と小さく声を掛けて彼女を抜き去った。その時は、愛媛に戻ったら、浅井えり子を追い抜いたことをランナー仲間に自慢できたらいいなと考えていた。
(つづく)
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