今週末、20日に開催される長野マラソン。今回で10回目を迎える。「長野五輪開催記念」という、他の国内のマラソン大会にはない明確な「テーマ」を持つ大会として、この大会はもっと注目すべき大会だと思う。どうも、国内のメジャー大会が五輪や世界選手権の代表決定戦、という部分以外では注目されなくなっている傾向があると感じているからだ。7年前、僕はこの大会に参加した。その時のことを今回、再掲載しようと思う。
僕自身のレース体験を掲載するのも随分久しぶりのことである。思えば、この頃は今よりもずっと「まじめに」走っていた。
※※※※※※※※※※
長野へやってきた
at 2001 04/24 23:31
4月14日の朝、9時40分発の松山発東京行の全日空機は、休日だというのに、スーツ姿の若者が目につく。おそらく、どこかの会社の新人が研修にでもいくのであろう。売店で買った文庫本「巨人がプロ野球をダメにした」を読んでいるうちに、飛行機は何事もなく、(あったらこわい)羽田に到着。モノレールで浜松町まで出て、そこから東京駅まで電車に乗り換える。
山手線の電車に乗るのは、3年ぶり。その時もマラソン大会に出るため、第1回の東京荒川市民マラソンに出るための上京だった。いや、その次の年にも来ているな。北海道に行くのに、東京から飛行機に乗った方が、松山から直接千歳まで乗るよりも、松山から東京の運賃を足してもお釣りが来るほどの割引サービスがあったのだった。それを利用して、北海道マラソンに出たのだった。そうなのだ。僕が旅に出るのは、マラソンを走りにいくための旅のみである。今回の目的地は長野。
東京の電車では、しばしば視線を奪われるような美女に出くわす。ノースリーブのセーターにサングラスをかけ、車内で読書していた女性をながめているうちに東京駅に着く。
そこから、長野新幹線「あさま」に乗り換えて、長野まで。このあたりで標高何メートルになるのかな?空はどんよりと曇っている。雨という予報はないが、風は肌寒い。長野市役所まで歩いて行き、受け付けを済ませてナンバー・カードと記念品をもらい、長野駅まで戻る。せっかくだから、昼食はそばにしようと思っていたら、50代とおぼしき二人連れの女性に声をかけられる。明日のマラソンの参加予定者であることは、一目でわかる。決して、太り過ぎてはいない体型に、ジョギング用のシューズに、スポーツ・バッグ。
「この辺でおいしい蕎麦屋を知りませんか?」
「いやあ、僕も探しているんですけど。」
と言いながら、辺りを見回すと「やぶそば」という看板が目に入り、3人で出かける。もちの入った、力そばを頼む。
二人の女性は、福岡から来たという。一人は、10年前には、東京や大阪の女子マラソンにも出ていて、阿蘇カルデラのスーパーマラソンの女子100kmのコース記録保持者でもあるという実力派。もう一人は、三井海上に勤務しているということで、土佐礼子さんの話題で盛り上がる。昼食を済ませ、今夜の宿のある、湯田中温泉郷まで、長野電鉄の特急電車に乗った。車内では、マラソン談義に花を咲かせる。
北海道でもそうだったのだが、どうして僕は一回り以上年上の女性とはすぐに親しくなれるのだろう。
駅に着いて、女性たちと別れて地図を頼りにとぼとぼと歩く。僕が旅をするのはマラソンを走りに行くための旅だけと先ほど書いたが、それはたいていは、一人きりの旅である。口ずさむ歌は友部正人の「はじめぼくはひとりだった」
“1度だってさびしいと思ったことはなかった
生きていることは愛なんかよりずっと素敵なことだった
話しかけるのもぼくならば
それに答えるのもぼくだった
目の前を貨物列車が走りすぎていった”
宿に着いたのは5時半過ぎ。すぐに食事だという。少しでも安くなるのでと、相部屋でもいいと申し込んだが、既に着いていた同部屋の人は、新潟から来たという40代後半の男性。今回が2度めのフルマラソンで、初フルが2年前のこの大会だったという。
食事のとき、同部屋の人(名前を忘れた、仮にNさんとしておこう。)にビールを勧めたが断られた。レース前は飲まないという。河口湖や玉造でも、夕食の際、同部屋の人にビールをすすめても断られた。前日は飲まない、と言う人は結構多いようだ。かつては僕もそうだった。6年前の京都ハーフで、前夜に居酒屋で大ジョッキを二杯あけて、大幅に自己ベストを更新して以来、方針を大幅に変更した。
10時過ぎには布団に入る。普段ならまだ帰宅していない場合が多い時刻だ。明日は長野マラソン。どんなレースになるだろうか。天気予報は晴れ。
長野マラソンとは・・・
at 2001 04/26 23:22
長野マラソンは、長野五輪の開催を記念して始まった大会で、今年で3回目なのだが、前身として、信毎マラソンという大会があった。「新人の登竜門」と呼ばれ、旭化成や鐘紡、ダイエーなどの強豪実業団のランナーたちがしのぎを削ったレースだった。ゴールの制限時間が3時間、20km地点で1時間20分というハイレベルな大会で、僕のレベルでは、とても出られない大会だったが、長野マラソンにリニューアルされて、僕のレベルにまで下りてきてくれた感じである。日本陸連が「普及目的の大会」と位置付け、主催に加わっている。
ちなみに、日本陸連が主催している大会は、福岡、びわ湖、大阪女子、名古屋女子、男女ともに東京。いわゆる「国際マラソン」のみである。防府、北海道、別大などは、主催はそれぞれの県の陸協であり、日本陸連は「後援」である。
名誉大会長には、今や「時の人」である田中康夫知事も加わっている。おいおい、ちょっと待てよ。あなた、長野五輪の開催には反対していたんじゃなかったっけ?
田中さんの「五輪反対論」の根拠は、
「結局、堤さんだけが得をするから」
であり、
「五輪は、昭和30年代の日本よりGNPの高い国で開催してはいけない。」
という意見は、それなりに一理あるなとは思っていた。村上春樹さんも近著「シドニー!」の中で書いていた
「五輪はずっと、アテネでするべきだ。」
という意見(これも正論だと思うが)よりは現実的だと思った。この意見を採用すると、去年の五輪はケープタウンで行うべきだったこととなる。
まあ、世界最高タイムの出た、ハーフマラソンの廃止を決めた東京都知事よりは、ましだと僕は思っている。
レース当日、15日の朝、5時に目をさまし、外に出て軽くジョギングする。空は雲ひとつなく晴れわたっている。そのせいか、肌寒い。天気予報によると、この日の長野市の最低気温は3℃。愛媛では冬の気温だ。6時に朝食。昨日食べたそばにしても、旅館の食事にしても、味付けは塩辛い。旅館の食事だけでは、ガス欠になってはと思い、松山空港の売店で買った松山名物一六タルトを食べる。同部屋のNさんにも分けてあげる。
Nさんは、少女監禁事件の起きた柏崎から来たという。あの事件が発覚してもマージャンしていた警察関係者と、えひめ丸が沈んだときにゴルフをしていた総理とは、同罪だということで意見が一致。
7時には精算して、バスに乗り込み、スタート地点へ。
つづく
ナガノはマラソンシティ vol.1
at 2001 04/29 20:45
南へ下る道路にはランナーがあふれ僕は長野へやってきた。スタートは9時5分だが、30分前にはスタート地点に集合となる。ナンバーカード順に整列された人の波はかなり後ろまでつづいている。これでも、世界の主要マラソンに比べると6~7分の1なのだ。僕が住む北条市の人口よりも多いランナーが一同に会する大会のスタート地点はどんなものなのだろう。
スタートラインはいつも消炎剤のにおいでいっぱいだ。雨でも降っていたらたまったものではない。30分もあれば、まだ、アップができる。何もできずに、立っていると、せっかくほぐして暖めた体が、元の木阿弥になりかねない。これまでに、別の大会で顔を会わせたことのある人たちと久々の再会。徳島のSさん、東京のFさん。Fさんは1年に20回もフルマラソンを走り、ほとんど2時間40分台でゴールするという実力派。そのうえ、サロマの100kmで入賞して、100kmマラソンの世界選手権の日本代表になったこともあるという凄い人である。いつか、愛媛マラソンを走ってもらいたいと思っている。
海外招待選手が紹介される。名前を呼ばれて、一人ずつ、お立ち台の上に上る。第1回優勝者である、ロシアのエゴロワ。今回が引退レースだという。今回のメンバーでは、もっともネームヴァリューがあるランナーだろう。
第1回で優勝したときのウィニングランをしていた姿は印象的だ。
「有森さんのライバル」
の優勝をゴール地点の観衆も祝福していてた。
男子では、往年の名ランナー、ジュマ・イカンガーが欠場。後で知ったことだが、入国手続きの段階で不都合が生じたという。
今回、女子の招待選手にアフリカからの選手はいない。このことは、去年の大会後、JOC会長が吐いた
「黒いのばかり勝ってもしょうがない。」
という暴言と関係があるのだろうか?
それにしても、このような人物にJOC会長をさせてていいのか?日本に住み、日本人コーチのトレーニングで五輪メダリストになった選手の優勝を祝福できぬような人物に。
9時5分、スタート。上空から見ると、さぞや壮観なながめだろう。まるで大きな生き物が動き出したように見えるかもしれない。
長野マラソンはワンウェイコースである。国内の公認マラソン大会には珍しい。他には北海道マラソンがあるくらいか。ここも、思えば、冬季五輪を開催した都市である。五輪を行った都市は、すべて、市民マラソンを開催している。東京を除いては。東京荒川のような河川敷コースでないと開けないなんて、情けない話だ。
この件に関する不満をこれ以上書くと、人気抜群の都知事にケチをつける腐れサヨクと思われるので、ここでやめておく。いずれまた。
当初は、信毎マラソンのコースを使用する案もあったというが、交通規制の問題等もあり、ぎりぎりの妥協の産物が、現在の、スタートから7kmまで高低差180mを一気に下り、千曲川の河川敷を10kmも走る特異なコースが誕生したという。これまでに味わったことのないような体験ができるかもしれぬコースへと、飛び出していった。
ナガノはマラソンシティ vol.2
at 2001 04/29 23:29
スタートから一気に下り坂を駆け下りるというのは、楽ではないかと思われるかもしれない。しかし、下り坂というのはランナーにとっては、足にダメージを与える厄介なものだ。そして、そのダメージは後半になってじわじわと足を蝕んでくる。だからと言って、ペースを抑えすぎると、「ブレーキをかける走り」となり、これもまた、足の筋肉に負担をかける。
どう走ったって、足の為には良くはないのだ。
力を抜いて、流れのままに走りはじめた。2kmも走ったところで、左のくつひもがほどけた。立ち止まり、締め直す。先のパリマラソンで武井隆次選手、30km過ぎまでトップ集団にいながら、途中でくつひもを直すために立ち止まったために、集団から遅れて11位に終わったことが、ある掲示板で話題になった。確かに、トップランナーらしからぬケアレス・ミスだが、僕は彼を弁護するような書き込みをした。
まさか自分も、と思い苦笑する。そんなロスタイムがあっても、5kmの通過タイムは19'44で愛媛マラソンよりも1分速い。
誰かペースメイカーにできそうな人はいないかなと周囲を見ると、海外招待選手がいた。提携大会であるアテネマラソンから派遣されてきた、ギリシャの女性ランナーだ。しばらく並走するが、彼女とて、2時間40分台のランナーだ。オーバーペースだ。やむなく、彼女から離れる。彼女についていけるだけのトレーニングを今回積めなかった。
7km過ぎて、コースを外れ、用を足す。僕は走っているときにおしっこを我慢するのが苦手なので、すぐにトイレに行くのだ。フルでもハーフでも自己ベストを出したレースでは途中でトイレに行っている。
「トイレに行ってなければ、もっといいタイムが出ていたのではないか?」
という気がしないわけでもない。しかし、ある人から、
「そのままトイレを我慢して走っていたら、腹痛を起こして、さらにペースを落としていたかもしれないよ。」
と言われた言葉を信じている。
背中に高橋尚子選手がシドニーでのゴールしたシーンや、表彰式の写真をプリントしたTシャツを着た外国人ランナーに追いつく。
気温は上がっているようだ。5kmから2・5kmごとにある給水所の水は全て取った。
沿道に応援の人が多く集まっている。沿道に応援の多い大会というと、僕がこれまでに出た大会では京都シティハーフや北海道マラソンを思い出す。それらの都市に比べて、長野というのは人口はかなり少ないのに、それらの大会に匹敵するほどの人だかりだ。しかも、市街地を走っているわけではないのに。ふと見回すと、畑や広場に車が止まっている。わざわざ車に乗ってまで応援に来ているのだ。それも、ただ、旗を振っているだけでない。大声で声援をしたり、チア・ホーンを吹いたり、応援すること自体を楽しんでいるように見える。こういった沿道の人たちが何年か後には、ランナーを育てていくのだ。
今年2月の丸亀ハーフも、沿道に多くの人がつめかけた。しかし、彼らの多くは、Qちゃんを見ることが一番の目的だったようだ。ただ、沿道に立ちランナーをながめているだけのようだった。
この町、長野の人たちは、マラソンの応援を楽しんでいるなと感じた。僕らが走る事を楽しむように。
5kmから10kmのスプリットは20'59
。トイレのロスがあったわりには悪くない。しかし、上信越自動車道の副道あたりから、太ももに違和感が生じてきた。おいおい、もう効いてきたのか。小布施橋にさしかかる。橋の入り口と出口の周囲の人だかりは凄い。15kmまでのスプリットは21'48。この時点で、愛媛マラソンより2分も悪くなっている。
第1回のときは強い向かい風がランナーを苦しめた千曲川堤防。今日は、追い風になっている。そして、ここにも多くの応援。空を見上げると青い空にくっきりと浮き上がるアルプスの雪を被った山並み。まるで絵に書いたような風景。僕は、所属する駅伝チームのユニフォームを着て走っていた。チーム名に「松山」という地名が付いているのだが、実に多くの人から、
「まつやま、がんばれ!」
「遠い所からようこそ!」
と声援を受けた。美しい山並みの風景と、心のこもった声援。これを見聞きしただけで、ここまで来る価値はあった。10kmも続く河川敷のコースが苦痛ではなくなっていた。ここでのスプリットはペースアップしていた。
河川敷を降りて25km過ぎると、長野市内に入る。ここからは、この大会が五輪記念の大会であることを思い知らされる。スピードスケートの会場であるエムウエーブの周囲を走るのだ。
沿道がどっと沸く。アンパンマンのお面をつけたランナーが沿道の注目を独り占めしている。
五輪大橋にさしかかると、Sさんに追いついてしまう。このあたり、スタートしてすぐの下り坂でのオーバーペースのつけを払わせられているランナーが多くなっている。ナンバーカードは、目標タイム順に発行されている。目標を3時間5分と申し込み書に記した僕のナンバーは507。しかし、2~300番台のランナーたちが歩いたり、立ち止まったりしていた。ペースは落ちている。サブスリーはもう難しい。でも、せめて、愛媛マラソンのゴールタイム、3時間8分42秒は切りたい。そう思うことで、気持ちを切らさぬようにする。かなり足にきてはいるが、マメはできていない。まるで、アルミなべのような、ホワイトリングを横目にして、更埴橋を渡る。男子のアテネからの招待選手も、歩いている。しかし、沿道の応援に勇気づけられたようで、ペースを上げていった。
黒人のランナーが歩いている。後日自宅に届いた信毎新聞で知ったのだが、エチオピアの難民ランナーだったという。今回、2人のエチオピア難民のランナーが長野を走った。彼らは、エチオピアの現政権を握っている部族とは異なる部族のために、反体制派とみなされ、国外に逃亡してきたのだと言う。この国にかくも苛酷な現実が存在することを知る人は少ないと思う。僕も知らなかった。
すでにペースは1km5分前後に落ちているが、前を往くランナーをいくらでも捕まえることができる。今回が自己ワーストというランナーも少なくないと思う。僕はまだ大丈夫。3時間10分を切る可能性はまだある。
2・5kmごとの給水は全てとった。最初は水。途中からはスポーツドリンクも一緒にとり、走りながら水で薄めて飲んだ。25km過ぎてからはスポーツドリンクのみ。水は身体にかける。水分の取りすぎのせいで尿意を催す。たまらずに、田んぼに降りて、用を足す。それでも、3時間10分は切れると思った。あと1km地点で時計は3時間5分。南長野運動公園はすぐそこだ。スタジアムが見えている。
どこかのおばさんの声、
「感動をありがとう。」
好きな言葉ではないが、僕らの走る姿から、何かを得ている人がいるのは確かなことだ。
スタジアムの入り口が42km地点。時計は3時間9分。あと1分で125mを走れるか。
「なんだ、これは?」
と思った。人口芝のグラウンドってこんなに柔らかいのか。足が地面にめりこむ。こんなに走りにくいのか。ゴール手前で時計が3時間10分に変わった。
既に、表彰式が始まっていた。優勝はケニアのムセンビ。妻が日本人という異色のランナー。2位は初マラソンである、日清食品の諏訪利成。東海大学で、箱根駅伝の2区を走ったことがあるランナーだ。日本最高記録保持者の藤田敦史とは同期生である。3位は富士重工の小林正幹。ヱスビー食品から新天地に移籍して結果が出せたようだ。
女子の優勝は積水の大西昭代。男女通じて、この大会で日本人初優勝である。2位は田中千洋。市民ランナー出身だが、4年前の北海道で優勝している。今回のタイム、2時間32分5秒というのは、ママさん(経産婦)ランナーの日本最高タイムのはずだ。3位はベラルーシのガルシコ。6kmくらいまでついて行った、ギリシャの女性ランナー、アンパチドゥは2時間46分52秒で7位。ほぼ、5kmの入りのタイムをイーブンで維持する走りをしていた。
3時間10分を切れなかったのは本当にくやしかった。ゴール直後、S-Kさんにiモードで送った結果報告に
「めっちゃ悔しいです~」
と書いたのはウケ狙いだけではない。本当に悔しかった。しかし、持てる力は全て出せた。という満足感もあった。やれるだけのことはやれた。村上龍の「ニューヨークシティ・マラソン」のヒロイン、ナンシーのように、
「また来年も長野に来るかい?」
と訊ねられても、
「さあ、わからないな。」
としか答えられない。力を出し尽くしていないなら、
「来年こそは・・・」
という答えが口から出るはずだ。
着替えていると、風が強くなってきた。4時間以上かけてゴールするランナーたちには酷な風だ。帰りに長野駅で食べた立ち食いのかけそば。昨日は辛く感じただしの味も、ちょうど良かった。汗を出し尽くし、身体が塩分を欲していたのだ。乗り換え駅毎にビールを買った。
「あさま」の中でうまいビールを飲みたいという願いだけは叶った。
※※※※※※※※※※※
この時、東京で3万人規模のマラソン大会が開催されようとは夢にも思わなかった。少なくとも現在の都知事の下では無理だと思っていたのだから、わからないものだ。当時、僕は39歳。翌月の5月で40歳になったので、これは僕にとって30代最後のマラソン出場だった。40代になってから僕は地元の愛媛マラソン以外のフルマラソンを走っていない。
僕自身のレース体験を掲載するのも随分久しぶりのことである。思えば、この頃は今よりもずっと「まじめに」走っていた。
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長野へやってきた
at 2001 04/24 23:31
4月14日の朝、9時40分発の松山発東京行の全日空機は、休日だというのに、スーツ姿の若者が目につく。おそらく、どこかの会社の新人が研修にでもいくのであろう。売店で買った文庫本「巨人がプロ野球をダメにした」を読んでいるうちに、飛行機は何事もなく、(あったらこわい)羽田に到着。モノレールで浜松町まで出て、そこから東京駅まで電車に乗り換える。
山手線の電車に乗るのは、3年ぶり。その時もマラソン大会に出るため、第1回の東京荒川市民マラソンに出るための上京だった。いや、その次の年にも来ているな。北海道に行くのに、東京から飛行機に乗った方が、松山から直接千歳まで乗るよりも、松山から東京の運賃を足してもお釣りが来るほどの割引サービスがあったのだった。それを利用して、北海道マラソンに出たのだった。そうなのだ。僕が旅に出るのは、マラソンを走りにいくための旅のみである。今回の目的地は長野。
東京の電車では、しばしば視線を奪われるような美女に出くわす。ノースリーブのセーターにサングラスをかけ、車内で読書していた女性をながめているうちに東京駅に着く。
そこから、長野新幹線「あさま」に乗り換えて、長野まで。このあたりで標高何メートルになるのかな?空はどんよりと曇っている。雨という予報はないが、風は肌寒い。長野市役所まで歩いて行き、受け付けを済ませてナンバー・カードと記念品をもらい、長野駅まで戻る。せっかくだから、昼食はそばにしようと思っていたら、50代とおぼしき二人連れの女性に声をかけられる。明日のマラソンの参加予定者であることは、一目でわかる。決して、太り過ぎてはいない体型に、ジョギング用のシューズに、スポーツ・バッグ。
「この辺でおいしい蕎麦屋を知りませんか?」
「いやあ、僕も探しているんですけど。」
と言いながら、辺りを見回すと「やぶそば」という看板が目に入り、3人で出かける。もちの入った、力そばを頼む。
二人の女性は、福岡から来たという。一人は、10年前には、東京や大阪の女子マラソンにも出ていて、阿蘇カルデラのスーパーマラソンの女子100kmのコース記録保持者でもあるという実力派。もう一人は、三井海上に勤務しているということで、土佐礼子さんの話題で盛り上がる。昼食を済ませ、今夜の宿のある、湯田中温泉郷まで、長野電鉄の特急電車に乗った。車内では、マラソン談義に花を咲かせる。
北海道でもそうだったのだが、どうして僕は一回り以上年上の女性とはすぐに親しくなれるのだろう。
駅に着いて、女性たちと別れて地図を頼りにとぼとぼと歩く。僕が旅をするのはマラソンを走りに行くための旅だけと先ほど書いたが、それはたいていは、一人きりの旅である。口ずさむ歌は友部正人の「はじめぼくはひとりだった」
“1度だってさびしいと思ったことはなかった
生きていることは愛なんかよりずっと素敵なことだった
話しかけるのもぼくならば
それに答えるのもぼくだった
目の前を貨物列車が走りすぎていった”
宿に着いたのは5時半過ぎ。すぐに食事だという。少しでも安くなるのでと、相部屋でもいいと申し込んだが、既に着いていた同部屋の人は、新潟から来たという40代後半の男性。今回が2度めのフルマラソンで、初フルが2年前のこの大会だったという。
食事のとき、同部屋の人(名前を忘れた、仮にNさんとしておこう。)にビールを勧めたが断られた。レース前は飲まないという。河口湖や玉造でも、夕食の際、同部屋の人にビールをすすめても断られた。前日は飲まない、と言う人は結構多いようだ。かつては僕もそうだった。6年前の京都ハーフで、前夜に居酒屋で大ジョッキを二杯あけて、大幅に自己ベストを更新して以来、方針を大幅に変更した。
10時過ぎには布団に入る。普段ならまだ帰宅していない場合が多い時刻だ。明日は長野マラソン。どんなレースになるだろうか。天気予報は晴れ。
長野マラソンとは・・・
at 2001 04/26 23:22
長野マラソンは、長野五輪の開催を記念して始まった大会で、今年で3回目なのだが、前身として、信毎マラソンという大会があった。「新人の登竜門」と呼ばれ、旭化成や鐘紡、ダイエーなどの強豪実業団のランナーたちがしのぎを削ったレースだった。ゴールの制限時間が3時間、20km地点で1時間20分というハイレベルな大会で、僕のレベルでは、とても出られない大会だったが、長野マラソンにリニューアルされて、僕のレベルにまで下りてきてくれた感じである。日本陸連が「普及目的の大会」と位置付け、主催に加わっている。
ちなみに、日本陸連が主催している大会は、福岡、びわ湖、大阪女子、名古屋女子、男女ともに東京。いわゆる「国際マラソン」のみである。防府、北海道、別大などは、主催はそれぞれの県の陸協であり、日本陸連は「後援」である。
名誉大会長には、今や「時の人」である田中康夫知事も加わっている。おいおい、ちょっと待てよ。あなた、長野五輪の開催には反対していたんじゃなかったっけ?
田中さんの「五輪反対論」の根拠は、
「結局、堤さんだけが得をするから」
であり、
「五輪は、昭和30年代の日本よりGNPの高い国で開催してはいけない。」
という意見は、それなりに一理あるなとは思っていた。村上春樹さんも近著「シドニー!」の中で書いていた
「五輪はずっと、アテネでするべきだ。」
という意見(これも正論だと思うが)よりは現実的だと思った。この意見を採用すると、去年の五輪はケープタウンで行うべきだったこととなる。
まあ、世界最高タイムの出た、ハーフマラソンの廃止を決めた東京都知事よりは、ましだと僕は思っている。
レース当日、15日の朝、5時に目をさまし、外に出て軽くジョギングする。空は雲ひとつなく晴れわたっている。そのせいか、肌寒い。天気予報によると、この日の長野市の最低気温は3℃。愛媛では冬の気温だ。6時に朝食。昨日食べたそばにしても、旅館の食事にしても、味付けは塩辛い。旅館の食事だけでは、ガス欠になってはと思い、松山空港の売店で買った松山名物一六タルトを食べる。同部屋のNさんにも分けてあげる。
Nさんは、少女監禁事件の起きた柏崎から来たという。あの事件が発覚してもマージャンしていた警察関係者と、えひめ丸が沈んだときにゴルフをしていた総理とは、同罪だということで意見が一致。
7時には精算して、バスに乗り込み、スタート地点へ。
つづく
ナガノはマラソンシティ vol.1
at 2001 04/29 20:45
南へ下る道路にはランナーがあふれ僕は長野へやってきた。スタートは9時5分だが、30分前にはスタート地点に集合となる。ナンバーカード順に整列された人の波はかなり後ろまでつづいている。これでも、世界の主要マラソンに比べると6~7分の1なのだ。僕が住む北条市の人口よりも多いランナーが一同に会する大会のスタート地点はどんなものなのだろう。
スタートラインはいつも消炎剤のにおいでいっぱいだ。雨でも降っていたらたまったものではない。30分もあれば、まだ、アップができる。何もできずに、立っていると、せっかくほぐして暖めた体が、元の木阿弥になりかねない。これまでに、別の大会で顔を会わせたことのある人たちと久々の再会。徳島のSさん、東京のFさん。Fさんは1年に20回もフルマラソンを走り、ほとんど2時間40分台でゴールするという実力派。そのうえ、サロマの100kmで入賞して、100kmマラソンの世界選手権の日本代表になったこともあるという凄い人である。いつか、愛媛マラソンを走ってもらいたいと思っている。
海外招待選手が紹介される。名前を呼ばれて、一人ずつ、お立ち台の上に上る。第1回優勝者である、ロシアのエゴロワ。今回が引退レースだという。今回のメンバーでは、もっともネームヴァリューがあるランナーだろう。
第1回で優勝したときのウィニングランをしていた姿は印象的だ。
「有森さんのライバル」
の優勝をゴール地点の観衆も祝福していてた。
男子では、往年の名ランナー、ジュマ・イカンガーが欠場。後で知ったことだが、入国手続きの段階で不都合が生じたという。
今回、女子の招待選手にアフリカからの選手はいない。このことは、去年の大会後、JOC会長が吐いた
「黒いのばかり勝ってもしょうがない。」
という暴言と関係があるのだろうか?
それにしても、このような人物にJOC会長をさせてていいのか?日本に住み、日本人コーチのトレーニングで五輪メダリストになった選手の優勝を祝福できぬような人物に。
9時5分、スタート。上空から見ると、さぞや壮観なながめだろう。まるで大きな生き物が動き出したように見えるかもしれない。
長野マラソンはワンウェイコースである。国内の公認マラソン大会には珍しい。他には北海道マラソンがあるくらいか。ここも、思えば、冬季五輪を開催した都市である。五輪を行った都市は、すべて、市民マラソンを開催している。東京を除いては。東京荒川のような河川敷コースでないと開けないなんて、情けない話だ。
この件に関する不満をこれ以上書くと、人気抜群の都知事にケチをつける腐れサヨクと思われるので、ここでやめておく。いずれまた。
当初は、信毎マラソンのコースを使用する案もあったというが、交通規制の問題等もあり、ぎりぎりの妥協の産物が、現在の、スタートから7kmまで高低差180mを一気に下り、千曲川の河川敷を10kmも走る特異なコースが誕生したという。これまでに味わったことのないような体験ができるかもしれぬコースへと、飛び出していった。
ナガノはマラソンシティ vol.2
at 2001 04/29 23:29
スタートから一気に下り坂を駆け下りるというのは、楽ではないかと思われるかもしれない。しかし、下り坂というのはランナーにとっては、足にダメージを与える厄介なものだ。そして、そのダメージは後半になってじわじわと足を蝕んでくる。だからと言って、ペースを抑えすぎると、「ブレーキをかける走り」となり、これもまた、足の筋肉に負担をかける。
どう走ったって、足の為には良くはないのだ。
力を抜いて、流れのままに走りはじめた。2kmも走ったところで、左のくつひもがほどけた。立ち止まり、締め直す。先のパリマラソンで武井隆次選手、30km過ぎまでトップ集団にいながら、途中でくつひもを直すために立ち止まったために、集団から遅れて11位に終わったことが、ある掲示板で話題になった。確かに、トップランナーらしからぬケアレス・ミスだが、僕は彼を弁護するような書き込みをした。
まさか自分も、と思い苦笑する。そんなロスタイムがあっても、5kmの通過タイムは19'44で愛媛マラソンよりも1分速い。
誰かペースメイカーにできそうな人はいないかなと周囲を見ると、海外招待選手がいた。提携大会であるアテネマラソンから派遣されてきた、ギリシャの女性ランナーだ。しばらく並走するが、彼女とて、2時間40分台のランナーだ。オーバーペースだ。やむなく、彼女から離れる。彼女についていけるだけのトレーニングを今回積めなかった。
7km過ぎて、コースを外れ、用を足す。僕は走っているときにおしっこを我慢するのが苦手なので、すぐにトイレに行くのだ。フルでもハーフでも自己ベストを出したレースでは途中でトイレに行っている。
「トイレに行ってなければ、もっといいタイムが出ていたのではないか?」
という気がしないわけでもない。しかし、ある人から、
「そのままトイレを我慢して走っていたら、腹痛を起こして、さらにペースを落としていたかもしれないよ。」
と言われた言葉を信じている。
背中に高橋尚子選手がシドニーでのゴールしたシーンや、表彰式の写真をプリントしたTシャツを着た外国人ランナーに追いつく。
気温は上がっているようだ。5kmから2・5kmごとにある給水所の水は全て取った。
沿道に応援の人が多く集まっている。沿道に応援の多い大会というと、僕がこれまでに出た大会では京都シティハーフや北海道マラソンを思い出す。それらの都市に比べて、長野というのは人口はかなり少ないのに、それらの大会に匹敵するほどの人だかりだ。しかも、市街地を走っているわけではないのに。ふと見回すと、畑や広場に車が止まっている。わざわざ車に乗ってまで応援に来ているのだ。それも、ただ、旗を振っているだけでない。大声で声援をしたり、チア・ホーンを吹いたり、応援すること自体を楽しんでいるように見える。こういった沿道の人たちが何年か後には、ランナーを育てていくのだ。
今年2月の丸亀ハーフも、沿道に多くの人がつめかけた。しかし、彼らの多くは、Qちゃんを見ることが一番の目的だったようだ。ただ、沿道に立ちランナーをながめているだけのようだった。
この町、長野の人たちは、マラソンの応援を楽しんでいるなと感じた。僕らが走る事を楽しむように。
5kmから10kmのスプリットは20'59
。トイレのロスがあったわりには悪くない。しかし、上信越自動車道の副道あたりから、太ももに違和感が生じてきた。おいおい、もう効いてきたのか。小布施橋にさしかかる。橋の入り口と出口の周囲の人だかりは凄い。15kmまでのスプリットは21'48。この時点で、愛媛マラソンより2分も悪くなっている。
第1回のときは強い向かい風がランナーを苦しめた千曲川堤防。今日は、追い風になっている。そして、ここにも多くの応援。空を見上げると青い空にくっきりと浮き上がるアルプスの雪を被った山並み。まるで絵に書いたような風景。僕は、所属する駅伝チームのユニフォームを着て走っていた。チーム名に「松山」という地名が付いているのだが、実に多くの人から、
「まつやま、がんばれ!」
「遠い所からようこそ!」
と声援を受けた。美しい山並みの風景と、心のこもった声援。これを見聞きしただけで、ここまで来る価値はあった。10kmも続く河川敷のコースが苦痛ではなくなっていた。ここでのスプリットはペースアップしていた。
河川敷を降りて25km過ぎると、長野市内に入る。ここからは、この大会が五輪記念の大会であることを思い知らされる。スピードスケートの会場であるエムウエーブの周囲を走るのだ。
沿道がどっと沸く。アンパンマンのお面をつけたランナーが沿道の注目を独り占めしている。
五輪大橋にさしかかると、Sさんに追いついてしまう。このあたり、スタートしてすぐの下り坂でのオーバーペースのつけを払わせられているランナーが多くなっている。ナンバーカードは、目標タイム順に発行されている。目標を3時間5分と申し込み書に記した僕のナンバーは507。しかし、2~300番台のランナーたちが歩いたり、立ち止まったりしていた。ペースは落ちている。サブスリーはもう難しい。でも、せめて、愛媛マラソンのゴールタイム、3時間8分42秒は切りたい。そう思うことで、気持ちを切らさぬようにする。かなり足にきてはいるが、マメはできていない。まるで、アルミなべのような、ホワイトリングを横目にして、更埴橋を渡る。男子のアテネからの招待選手も、歩いている。しかし、沿道の応援に勇気づけられたようで、ペースを上げていった。
黒人のランナーが歩いている。後日自宅に届いた信毎新聞で知ったのだが、エチオピアの難民ランナーだったという。今回、2人のエチオピア難民のランナーが長野を走った。彼らは、エチオピアの現政権を握っている部族とは異なる部族のために、反体制派とみなされ、国外に逃亡してきたのだと言う。この国にかくも苛酷な現実が存在することを知る人は少ないと思う。僕も知らなかった。
すでにペースは1km5分前後に落ちているが、前を往くランナーをいくらでも捕まえることができる。今回が自己ワーストというランナーも少なくないと思う。僕はまだ大丈夫。3時間10分を切る可能性はまだある。
2・5kmごとの給水は全てとった。最初は水。途中からはスポーツドリンクも一緒にとり、走りながら水で薄めて飲んだ。25km過ぎてからはスポーツドリンクのみ。水は身体にかける。水分の取りすぎのせいで尿意を催す。たまらずに、田んぼに降りて、用を足す。それでも、3時間10分は切れると思った。あと1km地点で時計は3時間5分。南長野運動公園はすぐそこだ。スタジアムが見えている。
どこかのおばさんの声、
「感動をありがとう。」
好きな言葉ではないが、僕らの走る姿から、何かを得ている人がいるのは確かなことだ。
スタジアムの入り口が42km地点。時計は3時間9分。あと1分で125mを走れるか。
「なんだ、これは?」
と思った。人口芝のグラウンドってこんなに柔らかいのか。足が地面にめりこむ。こんなに走りにくいのか。ゴール手前で時計が3時間10分に変わった。
既に、表彰式が始まっていた。優勝はケニアのムセンビ。妻が日本人という異色のランナー。2位は初マラソンである、日清食品の諏訪利成。東海大学で、箱根駅伝の2区を走ったことがあるランナーだ。日本最高記録保持者の藤田敦史とは同期生である。3位は富士重工の小林正幹。ヱスビー食品から新天地に移籍して結果が出せたようだ。
女子の優勝は積水の大西昭代。男女通じて、この大会で日本人初優勝である。2位は田中千洋。市民ランナー出身だが、4年前の北海道で優勝している。今回のタイム、2時間32分5秒というのは、ママさん(経産婦)ランナーの日本最高タイムのはずだ。3位はベラルーシのガルシコ。6kmくらいまでついて行った、ギリシャの女性ランナー、アンパチドゥは2時間46分52秒で7位。ほぼ、5kmの入りのタイムをイーブンで維持する走りをしていた。
3時間10分を切れなかったのは本当にくやしかった。ゴール直後、S-Kさんにiモードで送った結果報告に
「めっちゃ悔しいです~」
と書いたのはウケ狙いだけではない。本当に悔しかった。しかし、持てる力は全て出せた。という満足感もあった。やれるだけのことはやれた。村上龍の「ニューヨークシティ・マラソン」のヒロイン、ナンシーのように、
「また来年も長野に来るかい?」
と訊ねられても、
「さあ、わからないな。」
としか答えられない。力を出し尽くしていないなら、
「来年こそは・・・」
という答えが口から出るはずだ。
着替えていると、風が強くなってきた。4時間以上かけてゴールするランナーたちには酷な風だ。帰りに長野駅で食べた立ち食いのかけそば。昨日は辛く感じただしの味も、ちょうど良かった。汗を出し尽くし、身体が塩分を欲していたのだ。乗り換え駅毎にビールを買った。
「あさま」の中でうまいビールを飲みたいという願いだけは叶った。
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この時、東京で3万人規模のマラソン大会が開催されようとは夢にも思わなかった。少なくとも現在の都知事の下では無理だと思っていたのだから、わからないものだ。当時、僕は39歳。翌月の5月で40歳になったので、これは僕にとって30代最後のマラソン出場だった。40代になってから僕は地元の愛媛マラソン以外のフルマラソンを走っていない。
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