落葉松亭日記

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皇室典範改定について寛仁親王殿下が批判

2006年01月09日 | 政治・外交
成人の日

寛仁親王殿下「短期間で結論、拙速」 女系天皇容認改めて批判 (01/09 11:07)産経新聞より
「 『皇室典範に関する有識者会議』が女性・女系天皇を容認したことに関連し、寛仁親王殿下が10日発売の月刊「文芸春秋」2月号で、現在の男系維持のために旧皇族の復帰など「さまざまな選択肢があることを認識し、今すぐ決める必要はない」と発言し、同会議の結論を拙速と批判されていることが8日、分かった。同会議の議論では皇族からの意見を求めておらず、今回のご発言は、次期国会での典範改正審議に微妙な影響を与える可能性もある。

 『天皇さまその血の重み-なぜ私は女系天皇に反対なのか』の見出しで、ジャーナリストの櫻井よしこさんと対談されている。

 この中で寛仁さまは皇室の伝統を「神話の時代から延々と男系、父方の血統で続いてきた」と位置付け「この血の重みには誰も逆らえなかった」と強調。国民にも「血統に対する暗黙の了解、尊崇の念」があると主張された。

 史上8人いた女性天皇と女系天皇の違いを指摘した上で、民間人が女性天皇の夫になることが続くと「一般の家と変わらなくなる」との危機感を表明。女系天皇の容認は「日本という国の終わりの始まりではないか」とし、男系維持のため、戦後に皇籍離脱した旧皇族の子孫が、断絶した秩父宮家や高松宮家の祭祀(さいし)を継ぐ形で養子として皇室に入るという方法も示されている。

 寛仁さまは昨年、自身が会長を務める福祉団体の会報で、私見として女系天皇に異論を唱えるエッセーを寄せられていた。

【寛仁さま ご発言要旨】

 天皇さまというご存在は、神代の神武天皇から125代、万世一系で続いてきた日本最古のファミリーであり、神道の祭官長とでも言うべき伝統、さらに和歌などの文化的なものなど、さまざまなものが天皇さまを通じて継承されてきました。世界に類を見ない日本固有の伝統、それがまさに天皇の存在です。

 その最大の意味は国にとっての振り子の原点のようなものだと私は考えています。国の形が右へ左へ、さまざまに揺れ動く、しかし、いつもその原点に天子様がいてくださるから国が崩壊せずにここまで続いたのではないか。

 (有識者)会議の構成に私が口を挟むわけにはいきませんが、わずか17回、三十数時間の会議でこれほどの歴史と伝統を大改革してしまうことが果たして認められるのでしょうか、あまりに拙速に過ぎませんかと強く申し上げたい。

 たとえばかつて10代八方の女帝がいらした。これが女帝論議に火をつけていますが、そのほとんどは皇女、つまりお父様が天皇でいらした男系の女子です。また、もともと皇后でいらして天皇が亡くなられたために即位された方も多い。御家系で適齢期の方が即位されるまでのピンチヒッターとしての即位で、独身で即位された方は終生、結婚なさいませんでした。

 今認められようとしている女系天皇は、全く意味が違う。2665年間連綿と男系による血のつながりで続いてきた天皇家の系図を吹き飛ばしてしまうという事実を国民にきちんと認識してもらいたい。

 畏れ多いたとえですが、愛子さまが男性と結婚されて、お子様が生まれれば、その方が次の天皇さまになられる。こうしたことを繰り返せば、100年も経たないうちに天皇家の家系というものは一般の家と変わらなくなってしまいます。

 そのとき国民の多くが天皇というものを尊崇の念でみてくれるのでしょうか。日本の歴史に根ざしているこの天皇制度が崩れたら、日本は四分五裂してしまうかもしれない。この女系天皇容認という方向は、日本という国の終わりの始まりではないかと私は深く心配するのです。

 今の典範のままではいずれ先細りで皇位継承者がいなくなる可能性はありますから、陛下がご自分の御世で確かな方法を考えて欲しいというくらいのことをおっしゃった可能性はあるかもしれません。しかし、具体的に女系を容認せよ、とか長子優先とか、そうおっしゃる可能性は間違ってもない。陛下はそういうことをおっしゃる立場ではないし、非常に真面目な性格からしてもそのような不規則発言をなさることはあり得ないでしょう。

 私が国民にお願いしたいのは愛子さまが即位されるにしても、少なくとも30年から40年先であり、その間にこれまで皇統を維持するために先人がどんな方策を取ってきたかという事実をよく考え、さまざまな選択肢があると認識し、物事を決めて欲しいということです。


女系天皇を容認すると2,3世代後にに何が起きてくるのか明快に語られている。
皇室の一般参賀風景や大臣の認証式、文化勲章の授与等々様々な行事での重みがなくなってくるということである。

また、天皇は宮中で神道の祭祀を年間を通じて行っておられる。それも一般の家系と変わらなくなってしまうと神道の伝統が崩壊し、やがては全国にある神社や鎮守の森にたいする崇敬の念は薄れ、日本人が無意識に保っている宗教観にも大きな影響がでてくるのではないだろうか。

1989年「辛光洙」釈放要望書を書いた人々

2006年01月09日 | 政治・外交
成人の日

麻生外相「拉致、断固として対応」 2006/01/09 産経
「 麻生太郎外相は8日、福岡県直方市で開かれた集会であいさつし、北朝鮮による日本人拉致事件について、「ふざけた話だ。人さまの国に入ってきて、国民を人質にかっぱらっていく話がまかり通ると思うのがそもそも間違っている」と厳しく批判した。

 その上で、「断固として対応する」と述べ、今月末にも行われる日朝国交正常化交渉と拉致、核問題の並行協議で、北朝鮮側に対して拉致事件解決に向けた具体的進展を強く求める姿勢を示した。

 また、安倍晋三官房長官は8日、テレビ朝日の報道番組で、日本人拉致事件で国際手配されている元工作員、辛光洙容疑者の身柄引き渡しについて、「(日朝の)対話の場で誠実に対応しないのであれば圧力を強めるのは当然だ」と述べ、北朝鮮を牽制(けんせい)した。


 辛光洙(シン・グァンス)について検索してみた。詳細はこちらを参照していただきたい。
 その辛光洙が韓国当局に逮捕され、当初は死刑になったがのちに無期懲役に減刑されたという。1989年に日本のそうそうたる議員が在日政治犯釈放の要望書なるものを当時の盧泰愚大統領に提出している。
 
 その議員とは、土井たか子、菅直人、田英夫、本岡昭次、淵上貞雄、江田五月 等である。
 また朝日新聞も熱心に釈放を要望していたという。

 ちなみに、当時の内閣は宇野、海部、宮沢、細川、羽田、村山と続く。
 拉致に関する情報が少ない時だったかも知れないが、驚くほかない。