2014/07/20 ルカ17章22~37節「稲妻がひらめくように」(#173)
前回、20節でパリサイ人たちが聞いてきました、
「神の国はいつ来るのか」
という質問から始まったテーマが今日のところでも続いています 。21節では、
「…いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
と結ばれて、一番肝心なこととして、王であるイエス様がもう来ておられることが宣言されました。今日の所では、改めて弟子たちに対して、もっとそれを具体的に話しています。ただし、大事なのは前回と同様、私たちがイエス様の教えに従って生きること、神の国のあり方に生き方を変えられることであって、決して、いつ来るか、どんな時に来るか、と腕組みをして待っているようなものではない、ということなのだと思います。
22…「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない日が来ます。」
苦しい時代が来ます。神の国の時代が一日でも見られたら、と願わずにはおれない程の、厳しい時が来ます 。でも、それは叶わない。そういうときに、
23人々が『こちらだ』とか、『あちらだ』とか言っても行ってはなりません。あとを追いかけてはなりません。
世の終わりだ、と騒ぎ立てて、「救われたければ、神の国を見たければ、こっちにおいで、あそこに来るらしい」ともっともらしく勧誘するカルトは必ず現れます。でも、
24いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。
誰の目にも明らかに、また、全天を輝かして人々を照らし出すようにハッキリと現れるのです。あっちだこっちだと教えるなら、それだけで馬脚を現して、偽物だと公言しているのです。
25しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。
輝く稲妻のように神の国が現れるその前に、イエス様は、多くの苦しみを受けて、この時代に捨てられなければならない。その事を、弟子たちは理解しなければなりませんでした。この世界が終わる前に、この世界で苦しみ捨てられる 。そのようなご自身の道を示されたのです。
イエス様は、復活された時にも、同じ事を言わるのですね。弟子たちがまだイエス様のよみがえりを信じられないでいた時、あのエマオ途上の二人の弟子が首を振っているのに対して、
二四25…「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
26キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」
そういって聖書を説き明かされて、ご自身の十字架こそが、キリストである証拠だと教えられたのです 。ここでもイエス様は、26節以下でノアの箱舟が起きた時代もそうだったし、ロトが住んでいたソドムの街もそうだった、と言われます。
27…食べたり、飲んだり、めとったり、とついだり、…
28…売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていましたが、
そこに裁きが訪れました。それこそ、稲妻が大空を横切るように、突然、彼らの時代は終わったのです。洪水も、天からの火と硫黄も、世の終わりを予告しています。
30人の子の現れる日にも、全くそのとおりです。
神の国が来ること、人の子イエス・キリストが再び王として、稲妻のように現れるのを待ち望むということは、この世界もまた、いつか突然に終わるという事実を心に刻んで生きる信仰に他なりません。勿論、飲み食いや結婚、仕事も神様からの賜物です。生活をシッカリして大いに楽しんでよいのです。そうして、全てを預けて、楽しませてくださる主に感謝し、賛美するのです。そして、やがて主がおいでになり、全てを新しくされるのを待つのです。
でも、今のこの世界、この時代は、その主の訪れを避けて、自分たちが永遠に続くかのように思い、この世界が全てだと思わせようとします。私たちもまた、その誘惑に弱いものです。信仰をもっても、この時代で食べたり飲んだり、成功したり幸せになったりすることばかりを願いやすいのです。苦しみや病気が起きると、「神様、どうして?」と疑います。自分の死や世の終わりを見ないで過ごしたいのです。31節で警告される通り、主がおいでになってもまだ、家に残っている家財道具を取りに戻ろうとするようなところが私たちにはあるのです 。32節では、滅ぼされるソドムの街から救出されながら、振り返ってはならないと警告されていたのに、振り返って「塩の柱」となってしまったロトの妻を思い出しなさいと言われます。
十二15どんな貪欲にも注意してよく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。
と言われていました。本当に私たちもまた、ロトの妻のように振り返りかねない。ですから、そういう私たちの傾向をご存じのイエス様ですから、「神の国はいつ来るか、イエス様の再臨はいつなのか」という事ではなく、今、神の国が来ても良いように歩む事、いつでも神の国を迎えられるように生きる事、この時代での苦しみを受け入れる事、家や家財や生活に心を奪われずに主を待ち望んで生きる、その待ち方、待つ姿勢にこそ目を向けさせられるのです 。
33自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。
やがては必ず失われるような家財道具やこの世の財産がいのちだと思って後生大事に抱え込んでしまうなら、私たちは間違いなくすべてを失います。でも、それを過ぎ去るもの、必ず失うものと弁えて、永遠の神を見上げて、主の愛に根差しているなら、いのちを保つのです。
34節35節にあるのは、どんなにそばにいる二人でも、片方が滅ぼされ、片方が生きて残るという事実です。その人が本当に何を大事にしているかは、心の中でのことです。あの人と友達だから大丈夫、洗礼を受けているから大丈夫、などと言う事ではありません。死体のある所にハゲタカが集まると37節にあるように、罪に死んだ人々のいるこの世界には、必ず裁きが訪れる。どこかや誰かの話ではなく、皆が自分のこととして受け止めなければならないのです。
神の国はやがて必ず来ます。イエス様は「人の子の日」と繰り返されて、ご自分が神の国の王である事と言い切られます。でもイエス様は力や輝かしさをもって来られる前に、
「まず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。」
と仰いました。私たちのために苦しみを担い、惜しまずにいのちをもお捨てになりました。そのイエス様が私たちのいのちです。この世の富や幸せ、健康や親しい仲間も必ず失われます。それは辛く悲しい事ですが、恐れることはありません。イエス様は、全てを失った私たちをご自身の永遠の御国に迎え入れて下さるのです。主のおいでに慌てずにはおれない私たちをも、主は迎え入れて下さいます。その恵みを覚えて、心から主の御国の訪れを待ち望みたいのです。
「御国を来たらせたまえ、と祈るように生きる事が出来ますように。口先だけでなく、心から待ち望みつつ、切望しながら、そして今も主の御支配を見させて戴きながら、地上の歩みを重ねさせてください。自分の支配を手放させてください。失う事を通して、失う事のないものを噛みしめることが出来ますように。そうして、その王なるあなた様だけを証しさせてください」
文末脚注
1 さらに次の十八8でも「人の子が来た時」と、この「人の子の日」のテーマが続きます。
2 22節をあえて意訳するなら、「[厳しい]時が来ます。その日には、人の子の日を一日でもいいから見たいと願いますが、見られない[それぐらい厳しい]のです。」とでもなるでしょうか。新共同訳では、「あなたがたが、人の子の日を一日でも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。」ここには、今は腕組みをして「神の国はいつ来るのか」と問いながら、本気で御国の訪れを待ってもおらず、主イエスを王として受け入れていない人々に対して、「そのあなたがたも、人の子の日を見たいと願う日が来る」という皮肉があります。しかし、その苦難の日が終末のしるしではないのです。苦しみの日が過ぎれば、人々は自分の生活にかまけて、主のおいでを待つ準備など何もしないで過ごすのです。禍の日には「終末だ、世紀末だ」と叫び、それが過ぎ去ると「喉元過ぎれば熱さを忘れる」となる人間の性向とは正反対のことをイエス様はお語りになっているのです。
3 主がこの世から「捨てられる」ことは、九22、二〇17でも繰り返されます。
4 ルカは、使徒の働きの最後、二六22-23でもこの主題を繰り返します。それほど「苦難のキリスト/苦難の教会・キリスト者」というテーマは、私たちが心に刻み続けるべきものです。
5 この言葉は、マタイ二四17、マルコ十三15の平行箇所では、エルサレムが滅ぼされる時、すなわち、紀元七二年のローマ軍によるエルサレム陥落を予告したものです。文字通りの警告です。そして、実際にエルサレム陥落において、キリスト者たちはこの言葉を思い出して、家に戻らなかったために、多くの人が救われたと言います。しかし、ルカの福音書の文脈では、エルサレム陥落という特定の出来事よりも、人の子の現れる日という終末を指して語られています。もちろん、マタイやマルコの読者にとっても、これは終わった言葉ではなく、続けて世に生きる心構えを具体的に教えるものでしたから、両者が矛盾しているわけではありません。
6 参照、ルカ一二章35-40節。
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