2014/07/20 「善悪の知識の木からは」創世記二章15~18節
ウェストミンスター小教理問答12
神さまが全世界をお造りになり、それを今に至るまで治めておられる。そう語った上で、今日の問十二は、人間に対する「特別な摂理」に触れています。
「神は、創造された状態にあった人間に対してどのような特別の摂理の行為を行われましたか。
答 神は、人間を創造されたとき、完全な服従を条件に、人間との命の契約に入られ、死を罰として、善悪の知識の木から食べることを禁じられました。」
有名な、エデンの園の「禁断の木の実」の話です。そして、次の問十三では、人がその木の実を食べてしまった事に進んでいくのです。ところで、その木の実を食べてしまうことが神に分かっていたなら、どうしてそんな木を造ったりしたのか、というギモンは古くからありました。また、木の実を食べたから、人間は文明を築き上げ、科学を発展させることが出来たのだ、というような考えなども様々あったようです。
けれども、今日の聖書の箇所では何と言われているのでしょうか。
二16…「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
17しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
これが、三章の女の台詞になると、微妙にすり替えられています。
三3しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」
食べたら勿論、触れるだけでも死ぬかもしれない木。蛇はこれに対して、
三4…「あなたがたは決して死にません。
5あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
と言うのですが、これは、最初に言われた事とはまるきり趣旨が違っています。死ぬといけないから食べてはならない、ではなかったのです。
取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。
その木に毒があるから、ではなく、その約束違反の罰として死ぬ、だったのです。神さまは、食べたら目が開けるとか死んでしまうような魔法の木をお造りになりはしませんでした。そんな木は、確かに造らなくてもよかったのでしょう。けれども、大事なのは、その木がなくてもよかったかどうか、ではなく、その木の実を巡って、
取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。
と言われた主の約束に、人が「従う」ことでした。主に従うことにこそ、人の命があります。また、人は自由意思を与えられて、主に従う者として造られました。もちろん、エデンの園を耕し、世話をするという使命もありました。それに背いたとしたら、彼らは罪ある者となって、死ななければならなかったでしょう。でも地を耕す使命に従うことは、ムズカシイことではありません。考えれば納得のいくことです。けれども、善悪の知識の木の実を食べない、ということは、主がそう言われたから、という以外に理由がありません。エバはそのため、木の実に問題があって、食べないだけでなく、触りもしない方がいいのだろう、と考えたようです。そういう誤解や無理解があった上で、なお、主が言われたのだから、そのようにしよう、と約束を守ることは出来たはずでした。そして、そのように主に従うことによって、彼らは、死ぬことがなく、永遠のいのちへと引き上げられたはずでした。
もちろん、これは、人の努力が永遠のいのちを勝ち取る、ということではありません。「命の契約」を提案されたのも、締結されたのも、神の側からの一方的な行為でした。人間は、被造物として、創造主に従うのが当然であって、それが何かを要求する権利になると考えるとしたら、図々しいもいいところです。人間に一つの約束を与えられた事は、神の恵みです。それも、よいものをすべて備え、エデンの園で暮らし、園のどの木からでも思いのままに食べさせた上で、たった一本の木の実を禁じる約束が、永遠のいのちの報いをもたらすようにされたなんてのは、神の測り知れない恵みに他なりません。勿体ない、有り難い、お約束、それが、「いのちの契約」でした。
でも、この小さな契約が、「特別な摂理」と言い表されます。全被造物に対するこの上ない摂理の、いわば「頂点」に、人間が神に従うという契約がありました。それは決して小さな事ではありませんでした。神さまの聖定において、人間が神に従うこと、神を信じて生きることが、肝心な意味を持っていたのです。
この約束を破ったために、人間は罪ある者、神に背いて生きる者となり、死すべき存在となりました。自分でその不従順を解決する事は出来ませんし、神さまとの関係を修復することは出来ません。ただ、神さまが備えて下さった解決方法、すなわち、御子イエス・キリストの命を捧げてくださっての贖いによって、私たちは神さまとの関係を回復していただくのです。けれども、回復されて終わり、ではなく、主はなおも「わたしに従って来なさい」と仰いますね。今日のことを考えたら、それはもうお分かりでしょう。私たちがいのちを得ることは、主に従うことと切り離せないからです。なおも主に従おうとしないなら、それは自ら死を選ぶことです。
最も大切な戒めは、
「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」
だと主は教えられました(マタイ二二37、38)。人間は、心から主を愛し、隣人を愛する存在として造られました。愛せない自分、まだ罪があるため従うには程遠い自分です。けれども主が、従えないその現実を十分に知った上で、私たちを救われました。みことばと御霊によって支え、何度でも「わたしに従いなさい」と仰います。表面的な従順ではなく、心からの信頼を求められます。それは、アダムに与えられた「特別な摂理」が映し出している、尊い御心です。
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