2014/09/21 ルカ18章35~43節「見えるようになれ」
目の見えない人が、イエス様によって癒されて、見えるようにしていただいた奇蹟です。最初はイエス様と群衆が彼の前を通り過ぎるだけでした。物乞いをしていたこの人は、
36群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。
それで、イエス様のお通りを知って、イエス様を大声で呼び求めたのですが、
39彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめた…
と言うのですね。この盲人がイエス様の憐れみに与ることを喜び、イエス様の所に連れて行く所か、五月蠅(うるさ)い、静かにしろ、と叱ったのです。このように、人々がイエス様のお恵みに与るには相応しくないと見下されていた人々がイエス様の所に来て、冷たくあしらわれながらも、イエス様から恵みを戴く、というパターンは、このルカの福音書で繰り返されてきたものです。異邦人の百人隊長[1]、罪深い女[2]、長血の女[3]、ツァラアトの病を癒された十人の中にいたサマリヤ人[4]、当時「取税人のようでないことを感謝します」と言われてさえいて自分でも「こんな罪人の私」と言うしかなかった取税人[5]、祝福のために連れて来られた子どもたち[6]、などでした[7]。そして、そういう最後に、イエス様がよく仰っていたのが、
「あなたの信仰があなたを救った(直した)のです」
というお言葉でした。今日の所でもそう言われます。勿論イエス様は「わたしの力ではなくて、あなたの信仰があなたを救ったのですよ」と仰ったのではありません。人の信仰に力があるのではありません。この人たちは、常識的に考えれば、信仰や神様との近さにおいて、後回しにされ、「しゃしゃり出るな」と窘(たしな)められるような人たちでした。だからこそ、彼らは自分にある信仰深さとか立派さを頼みには出来なかったのです[8]。この、目の見えない人は、
38大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と言った。
この「あわれんでください」という言葉は、可哀想に思うという意味ですが、ただ憐れんでくれ、だから百円でも二百円でも恵んでくれ、という意味ではありませんでした[9]。
41…(イエス様が)「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです」と言った。
彼がイエス様に求めたのは、自分の目が見えるようになることでした。勿論、彼は他の人にはこんなことを求めはしなかったでしょう。物乞いをしながら、誰彼構わず「目が見えるようにしてくれ」と頼みまくっていたのではないはずです。でも、彼はイエス様を、
…「ダビデの子のイエスさま。…主よ。…」
とお呼びしています。イエス様のことを、聖書がずっと預言してきた、真の王、私たちを治めて救ってくださる主なるお方として信じたのです。その方に彼が求めたのは、お金の施しではありません。ただの同情や愚痴を聞いてくれることでもありません。自分の目が見えるようになることでした。それを、このイエス様ならば出来ると信じたのです。それをイエス様に願ったのです。自分の側に立派な信仰や神様に褒めてもらえるものがあるとは思ってもいませんでした。ただ、憐れんでくださいと言う他に術(すべ)を知りませんでした。しかし、イエス様が私を憐れんでくだされば、見えるようになると信じました。そういうイエス様に対する信仰は正しいのだと、あなたの信仰には私たちを救い、癒す力が働くのだと、イエス様は仰ったのです。
前回31-34節では、イエス様がご自分の最期、どのような死に方をされて、その後によみがえるかを、再三弟子たちに語られたことが書かれていました。でも、弟子たちはそれを聞いても理解できませんでした。その後に、見えない人の目を癒されるイエス様の奇蹟があるのです。ルカはたった一度だけ目の癒やしを伝えていますが、他ではなくあえてこの位置に置くのです[10]。心の目が閉じている弟子たちにも、イエス様は見るべきものを見る力を下さるのだと、大切なことを理解できるようにしてくださる方です。もっと言えば、私たちにも、自分が見えているつもり、分かっているつもりを止めて、「私をあわれんでください。目が見えるようにしてください」と求めることを、イエス様は待っておられるのです。黙らせられても、窘(たしな)められても、恥ずかしがらずに大きな声で叫んだこの人のような熱心さ、しぶとさをもって、見えるようにしてくださいと願う、そういう信仰をイエス様は私たちにも持って欲しいのです。
エペソ人への手紙の中で、使徒パウロが読者のために、こう祈っていると言います。
エペソ一17どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
18また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
19また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
神の御霊が与えられるときに、私たちが頂く望み、栄光に富んだ嗣業、偉大な力が分かるように、心の目が開かれる。そうなることを祈っている、とパウロは言うのです[11]。それは、私たちの現実からかけ離れた知識ではありませんね。知っても知らなくてもどうでもいいような高尚な事ではなくて、私たちの心を明るくし、新しくして、生きる希望と、どんな困難や死にさえも負けない喜びを与えてくれるような、力強い真理が見えるようになるという祈りです。
今日の所で、目の見えない人が、見えるようにしてくださいと願ったのはアタリマエのように思えます。でもそう簡単でもないのかも知れません。貧民街(スラム)で生きてきた人は案外そこから出て働く気力はないことが多い。目が見えない生活に慣れて、見えないからこそ社会の冷たさを感じたり、人間の汚さに傷つけられたりして、人生こんなもんだと思っているのも楽だったかも知れません。イエス様に多めの施しを願うだけで終わることだってあり得ました。逆に見えるようになって、まだ文句を言い、恨み言を零(こぼ)すこともあり得ました。でも、彼は違います。
43彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。
まだ一文無しで、今まで失った時間は取り戻せないし、これからだって苦労は待っています。でも、神様を賛美しながら、イエス様に喜んで従って行く、無邪気な姿です。私たちもまた、イエス様によって目が開かれる時に、こうなるのだと言われているのではないでしょうか。イエス様が下さる望み、栄光、力の素晴らしさを見せていただいて、神様を賛美しながら生きていこう。お金持ちになるのでもない。恥もかき、人からの反対もある。しぶとく願い、汗水流して働かねばならない。人の心の裏側を知ることもあるし、自分もまた善人ではなくてあわれんでくださいと叫ぶしかないとつくづく思い知る。でもだからこそイエス様は、「見えるようになれ、わたしを信じる信仰はあなたを救うのだ」と仰います。私たちに望みを下さって、賛美を歌わせてくださいます。イエス様に着いていける素晴らしさが、一際(ひときわ)輝く灯りとなります。
「折角(せっかく)『何をしてほしいのか』と聞かれても、本当に何を願えばいいのか分からない私たちですが、今日の言葉に、私たちも『見えるようにしてください』と願うよう励まされて、感謝します。魅力的なもの、心を暗くするもの、様々に目を奪われそうになりますが、何よりもあなた様に目を向けて、その素晴らしさに歌い躍りながら、イエス様にお従いさせてください」
文末脚注
[1] ルカ七2-10。
[2] 七36-50。
[3] 八43-48。
[4] 十七11-19。
[5] 十八9-14。
[6] 十八15-17。
[7] そもそもの一章の「マリヤ」の選びもそうでした。これは、彼女の讃歌(一46-55)に明白です。また、最初の説教における例(四25-27)を始め、十五章の「放蕩息子」など、ルカの福音書全体に、このメッセージは鏤(ちりば)められています。
[8] この盲人が発したのは、先の役人が「私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」(十八18)と聞いた質問とはまるで違う言葉でした。
[9] 詩篇六2-3「主よ。私をあわれんでください。私は衰えております。主よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています」、四一4「私は言った。「主よ、あわれんでください。私のたましいをいやしてください。私はあなたに罪を犯したからです。」も、「あわれむ」が「いやし」と同義語(もしくは平行関係)に扱われています。
[10] マタイは九27-31、マルコは八22-26に、ヨハネは九1以下に、それぞれ別の「目の見えない人の癒し」を伝えています。ルカも一般的には七22「そして、答えてこう言われた。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。」と伝えてはいますが。
[11] パウロはまた、Ⅱコリント四6では、「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです」とも述べています。
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