2016/07/03 マタイ二八章16-20節「あらゆる国の人が」
「世界宣教週間」にあたり、日本長老教会の海外宣教の働きを覚えます。お配りした「海外宣教報」にありますように、中国やタイに遣わされている宣教師、バングラデシュやインドの長老教会との協力関係、そしてここにいる諸外国の方々の母国を特に覚えたいと思います。
1.イエスには、天地のいっさいの権威がある(18節)
今日のマタイ二八章、マタイの福音書の最後の数節は、「大宣教命令」とも言われて、世界宣教の根拠としてよく読まれる言葉です。この部分を読みますと、私たちの宣教がとてもユニークなものであることに気がつきます。ここでイエスは、
二〇18…わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
と仰っています。権威が与えられています、と宣言しておられます。世界における権威はイエスにある、と事実を述べておられます。決して、「世界におけるわたしの権威が奪われている」と仰ったのではありません。「この世は悪の権威が支配していて悔しい。あなたがたに、わたしの権威を授けるから、世界に出て行って布教活動をしてきなさい」と命じられたのでもありません。イエスは天地における権威を既に与えられています[1]。イエスは、天地における権威であられます。キリスト教を知らない人、信じようとしない人に対してさえ、イエスは権威を持っておられます[2]。言い換えれば、イエスは天地の造り主なる神ご自身であるということです。
先週お話ししましたように、聖書の最初の創世記では、世界の造り主なる神が、神に背いて悪を計るようになった人間の中にさえ働いておられることが語られています。アブラハムを選び、その子孫を通して世界を祝福され、神のご計画を絶妙に果たされる、と確信するのです。
イエスが弟子たちを遣わされたのは、この、世界を創造された神の、祝福のご計画に基づいています。神が世界に権威を持っておられ、祝福なさるご計画に基づいて、それを告白するために弟子たちが派遣されました。キリスト教という思想や信条を広め、自分たちのシンパを増やすとか「教勢を拡大する」、或いは「世界を支配しよう」という野望で動いたのではありません。むしろ、既に天地のあらゆる権威をお持ちであるお方の、祝福の約束に根差して、宣教は始まるのです。イエスを、世界の主なるお方として告白するから世界宣教をするのです。
2.弟子としなさい(19節)
ですから、イエスが弟子たちを遣わしてしなさいと言われることも、ただ入信させなさい、信じさせなさい、ではなくて、
19…弟子としなさい。
なのですね。「弟子」とは「見習い、生徒」と言い換えても良いでしょう[3]。イエスの権威の下に謙り、教えに従い、その示して下さった歩みを示して生きる人です。すべてのクリスチャンは弟子でもあります。弟子というと特別な人を指すように思われがちですが、私もみなさんも主の弟子なのです。この言葉はそう教えますね。「福音を伝えて、信じた人の中から、特に熱心な人を弟子にしなさい」ではない。
19それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
20また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。…
なのです。主が弟子たちに命じられたことをすべて守るように教えられる。それが「弟子とする」ということですね。あらゆる国の人々を「弟子」として生み出していく事こそ、主が命じられたことなのです。私たちはみな主の弟子です。教会の看板には、
マタイ十一28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
とあります。「休めたらいいのであって、弟子になるなんて遠慮したい」と思うとしたら、
29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
なのです。この「学ぶ」が元になったのが「弟子」という言葉です[4]。イエスが下さる「休み」とはイエスに学び、イエスと共に軛を負い、イエスが下さる軽い荷を担う生き方から与えられる「休み…安らぎ」です。つまり、イエスの弟子となる時に「安らぎ」が来るのです。なぜなら、イエスは全ての権威を持っておられ、心優しく謙った主だからです。イエスの教えとは無理難題や高尚な生き方ではありません。重荷を増し加えるのでなく、私たちの魂を自由にしてくれるのです。イエスという心優しきお方が、この世界の権威を持っておられ、その方がともにいてくださる。そう知って、それまで私たちの心を縛っていたあらゆるもの、迷信とか地位とか勝ち負けとか、人を支配したいとか、あらゆる間違った権威から解放されるのです。主の権威を受け入れ、自分を明け渡し、喜んで主の弟子となり、深く安らげるのです。主は、私たちの心や私の人生、毎日の行動においても、本当の権威をお持ちです。そして心優しく謙っておられ、私たちを愛し、聖書の言葉により従う道を教えて、安らぎを下さる良き羊飼いです。
3.世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(20節)
面白い事に17節には、この時の弟子たちの中にも
疑う者
がいたとあります。この時のイエスは、弟子たちの疑いを一掃するような輝かしく眩いお姿ではなかったのですね。そして、主は疑う者をもそのままお遣わしになりました。「疑わず信じなければ伝道は成功しない」などと脅迫したり従順を強いたりしてコントロールしようとはなさいません。そして最後には
「世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」
と言い切ってくださいました。疑いも、悲しみも、障害や限界、喪失など、抱えているのが弟子たちです。その人生には、困難な時、真っ暗闇の時、単調で物足りない時、もあるでしょう。そうした日々、どんなときも、主は決して離れることなく、ともにいてくださる…。この約束を戴いているのが、「弟子」なのです。私たちとともにいる、とこう宣言して下さる主は、本当に心優しく謙ったお方ではないでしょうか。この深く大きな主の約束に私たちも押し出されて、主の弟子として歩むことが出来るのです。こういう恵みの主が、天にも地にも、世界の国々にも、私たちの人生にも権威を持っておられる。そう気づかされて、本当に深い安らぎを持つのです。
イエスが弟子たちを遣わされたのは、その恵みの権威を知らないで、恵みならざるものに縛られて生きている人々の回復のためでした。世界中、民族や言語や文化は違っても、疲れたり絶望したり苦しむ人を愛おしまれたからです。ただ何とか言いくるめて信じさせて洗礼を授けたらお終いとか、沢山の改宗者を造るとか、そういう宣教ではないのです。また、西洋の伝統とか自分たちのやり方を押しつけて、「キリスト教化」したと思うのでもないのです。オセアニアのある島国では村ごとキリスト教に入信しました。建てられた教会はどこも犬が繋がれていて、理由を聞いたら、「最初の宣教師が犬を飼っていたから、教会とは犬を飼っていなければならないのだろう」と答えたそうです。そういう「改宗」から、彼らの言葉に聖書が飜訳され、学ばれていった時、イエスとはどんな方かを学び、心に喜びが溢れる回心が起きたのです。
犬を飼うとか、クリスチャンらしくするとか、あれをせずこれをするではないのです。心がキリストを主とする恵みによって変えられるのが宣教です。主ご自身が、私たちが何かをすること以上に、主とともに歩むあり方を願っておられます。深い安らぎと喜びとを持つ生き方に、心から変えてくださるのです。世界のあらゆる国々の人も、ここにいる私たち一人一人の心の底においても、イエスが崇められますように。世界の反対側で宣教が推し進められることと、私たち一人一人の心がまだイエス以外のものに囚われている問題は、等しい大問題なのです[5]。同時に世界宣教の様子を知り、宣教師たちの苦労や証し、そこでの回心のドラマや大変さを知ることで、私たち自身が励まされ、教えられます。主が本当に天地のいっさいの主であることを、鮮やかに知らされます。世界宣教のために、祈り捧げ、私たちも主の弟子とされましょう。
「天と地、一切(いっさい)の主権者なる主よ。疑い迷う私たちをも養い、愛する弟子として成長させたもうのは、あなただけです。ここ日本で、私たちが礼拝の民として集められ、今、世界の弟子たちとともに礼拝を捧げている不思議に、あなたを崇め、私たちの心も人生も捧げます。主よ、どうぞ世界において、主の弟子とされる祝福を推し進め、そこに私たちも加えてください」
[1] これは、マタイが最初から宣言してきた「権威者イエス」のテーマです。七29「というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」、八9(百人隊長のイエスに対する台詞)「と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」(だから、イエスの言葉には尚更権威があるので、ただおことばを下さい、という繋がりになっています。)、九6「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。7すると、彼は起きて家に帰った。8群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。」、十1「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。」、二一23「それから、イエスが宮に入って、教えておられると、祭司長、民の長老が、みもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」24イエスは答えて、こう言われた。「わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。」(27節まで参照)。このように、イエスの権威は、十字架に掛かる前から明らかであり、論点であったことが分かります。十字架と復活によって帯びた権威ではなく、十字架と復活へと至るような権威であった、とも言えます。それは、四章の「荒野の誘惑」で悪魔が「この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」(マタイ四8-9)」と誇示した権威とは根本的に異なる権威です。
[2] このことは、マタイでは五46(天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです)などの、民族や選民の枠を越えた広い視座に通じます。
[3] ダラス・ウィラード『心の刷新を求めて』(あめんどう、中村佐知、小島浩子共訳、2010年)、435頁。今回の説教では、同書の第一三章「地域教会の霊的形成」がマタイ二八・一八以下を解説していますので、大いに参考にさせていただきました。
[4] 「学ぶ」(マンサノー)はマタイで三回使われています。九13「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」、二四32「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。」。この言葉から「弟子」(マセーテース、マタイで69回)、「弟子とする・弟子となる」(マセーテューオー、十三52、二七57、二八18)が生まれます。
[5] 私たちの中で、まだこのイエスを「主権者」と認めていない思いがある。世俗の政治家や権力者のような虚勢、お金や名誉や恋愛がもたらす欺瞞の恍惚感を追い求めるところがある。そのようなままでは、私たちは「キリストの弟子」ではなく、ただの「信者」でしかない。それはまだ失われた状態であり、疲れ、迷い、渇き、何かがあれば信仰を捨てかねない状態。
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