聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問21「心からの信頼」ローマ書4章18-20節

2016-07-03 15:05:42 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/07/03 ハイデルベルグ信仰問答21「心からの信頼」ローマ書4章18-20節

 

 「心からの信頼」。今日のタイトルは、ハイデルベルグ信仰問答21の答から取りました。では、「心からの信頼のことです」が答になる、問とはどんな問でしょうか。どんな問に対して、「心からの信頼」という答をするのでしょうか。

問21 まことの信仰とは何ですか。

答 それは、神が御言葉においてわたしたちに啓示されたことすべてをわたしが真実であると確信する、その確かな認識のことだけでなく、福音を通して聖霊がわたしのうちに起こしてくださる心からの信頼のことでもあります。それによって、他の人々のみならずこのわたしにも、罪の赦しと永遠の義と救いとが神から与えられるのです。それは全く恵みにより、ただキリストの功績によるものです。

 答が長すぎて分かりづらいので、分解しておきましょう。

  • 確かな認識   神が御言葉においてわたしたちに啓示されたことすべてをわたしが真実であると確信する
  • 心からの信頼  福音を通して聖霊がわたしのうちに起こしてくださる
  • まことの信仰によって、他の人々のみならずこのわたしにも、罪の赦しと永遠の義と救いとが神から与えられる
  • それは全く恵みにより、ただキリストの功績による

 ここでは、信仰が

「確かな認識」

ですよ、でもそれだけではありませんよ、

「心からの信頼」

のことでもありますよ。そういう

「まことの信仰」

によって、私たちには

「罪の赦しと永遠の義と救いとが神から与えられる」

のですよ。そして、この「まことの信仰」とは

「全く恵みにより、ただキリストの功績によるものです」

と、こう説明しています。

 このハイデルベルグ信仰問答が書かれたのは、16世紀、宗教改革の時代です。それまでのカトリック教会の考えでは、信仰とは、全部これと反対になっていたのですね。特に、普通の庶民にとっては、信仰は手が届かない。立派な聖人や司教などになれば、知識も増えます。よく聖書や神学もよく知っているけれど、民衆にはそんなものは手が届きません。だから、神を心から信頼することも出来ません。罪の赦しと永遠の義と救いとを戴くにも、信仰だけでは不十分で、善い業をしたり、献金をしたり、巡礼に出かけたり、何かしら埋め合わせをする必要があると考えられていました。そういう中で、当時の人たちが持っていたのは、

「まことの信仰」

とは何ですかと聞かれても、決して

「心からの信頼です」

という答は出て来なかったと思うのですね。私たちが神様を心から信頼する、というよりも、私たちはまだまだ足りない、自分の信仰じゃとても無理、と思ってしまいますね。そう思い込んでいた時代に、宗教改革が起こりました。そして、聖書をよく調べて、キリストの十字架と復活の福音は、どれほど大きいかを説き明かすようになりました。神様がどれほど大きく、聖いお方か、その約束がどれほど素晴らしいか、人間がただキリストの恵みによって救われるのであって、私たちが自分の行いとか何かを足したりする必要はないことを、教えるようになったのですね。

…神が御言葉においてわたしたちに啓示されたことすべてをわたしが真実であると確信する、その確かな認識のこと…

という部分は、まずその聖書の真理を私たちが受け入れることの大切さを教えていますね。ところが、教えや知識の勉強は、大事ですけれども、それが頭の知識だけで終わることもよくあります。宗教改革の時もそうでした。聖書の話を聞いて、福音を理解する人が増えていきました。これまでの教会の教えが間違っていたことを人に教えることが出来る人もどんどん出て来ました。けれども、それが「認識」(知識)や頭の中だけの事で終わっている。その人の心に、キリストに対する生きた心からの信頼がない。そういう問題が、ここで意識されているのだと思います。

…その確かな認識のことだけでなく、福音を通して聖霊がわたしのうちに起こしてくださる心からの信頼のことでもあります。

 認識や知識だけではありませんよ。心からの信頼でもあるのですよ。それも、私たちが自分で神を信頼するのではなくて、聖霊が私のうちに起こしてくださる心からの信頼なのです。私たちが福音についてどれほど正しい知識を持って、ちゃんと理解しているか、以上に、福音とは、神が私たちを恵みによって贖い、私たちの神となって下さった、という知らせですね。その神に私たちは心から信頼するのであって、それをどれ程私たちが正確に分かっているか、どれほど心から信頼しているか、という私たちの側の完璧さを考えると、本末転倒になってしまうのです。私たちがどれほど

「心からの信頼」

をしているかどうか、ちょっとも疑っていないか、火事や交通事故にあってもビクともしない信仰かどうか、そんな私たちの側の足りなさは問題ではないのです。私たちは、まだ弱かったり分かっていないこともいっぱいあったりしますね。段々老人になれば、色々なことを忘れて最後は何にもボケて覚えられないかもしれません。それでも、イエス・キリストは私を忘れず、ずっとともにいてくださいます。私の間違いや足りなさでダメになる関係ではなく、大きな愛と真実で、私を御自身のものとしてくださったのです。そういう聖書の知識は、ただ頭で分かるだけではなく、私たちに心からの信頼を生み出すはずです。聖霊が福音の説教や聖書の学びを通して、私たちの中に、生きた信頼を起こして下さるのですね。そこには、

「罪の赦しと永遠の義と救い」

が与えられます。それは、私たちの知識や信頼とともに神が与えて下さる恵みです。決して、私たちの信仰や知識や心の純粋さによって勝ち取る、というのではないのです。

 …他の人々のみならずこのわたしにも、罪の赦しと永遠の義と救いとが神から与えられるのです。…

 面白い表現ですね。他の人々のみならず、この私にも。でも、牧師をしていて、私もよくあります。他の人には、

「大丈夫ですよ。神様がいてくださいますよ」「イエス様の愛は、どんな人をも受け入れて下さいますよ」。

 そう言いつつ、自分の事となると、どこか不安だったり、恐れていたりします。人には罪の赦しと救いをお話ししながら、自分も本当にそうだと実感しているわけではない。

「僕は大丈夫かな、ダメなんじゃないかな」。

 そんな不安を持っていることに気づかされることが何度もありました。でも、そうやって、自分の勘違いや恐れに気づかされては、いや、神はもっと大きな方、本当に真実な方、心から信頼できるお方。これから先、何があろうとも、信頼できるお方なんだ。そう思えて生きていけるのは本当に幸せですね。

 もし不安や恐れがあっても、自分が何かをすることで心を埋めようしてはダメです。静かにゆっくり御言葉に聞き、それを味わい、心の信頼にまで深めるように、思い巡らしましょう。主の一方的な、大きな愛を知ることで、心からの安心と力を戴きましょう。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« マタイ二八章16-20節「あら... | トップ | 申命記二九章(10-18節)「... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ハイデルベルグ信仰問答講解」カテゴリの最新記事