2019/10/6 マタイ伝2章13~23節「慰めを拒むほどの」
マタイ伝2章の前半は、お生まれになったイエスを拝むために、東の方から来た博士たちの巡礼を伝えていました。今日の後半では、ヘロデ王がイエスを亡き者にしようとします。ヨセフは三回、夢を見ます。夢のお告げでエジプトに逃げ、また夢でイスラエルに帰りなさいと言われて戻り、三度目の夢でナザレという寒村に住むことになります。イエスの誕生を祝うクリスマスは、博士や羊飼いたちのほのぼのとした礼拝でお話しを終わることが多い。実際の聖書は、そこに関わるヘロデの殺意や聖家族の逃亡、そしてベツレヘムの幼児の虐殺まで含めています。クリスマスはほのぼのとしたファンタジーではなく、私たちの生きている世界の暴力や悲しみ、安心できない現実、理不尽さを浮かび上がらせる、ノンフィクションなのです[1]。
さて、最初のエジプト逃亡では、最後にホセア書の言葉が引用されています。
15…これは、主が預言者を通して、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と語られたことが成就するためであった。
エジプトに逃げるのに、エジプトから呼び出した、という言葉が成就した、というのは「あれ?」と思う方もいるでしょう。わざわざ呼び出すために一旦エジプトにやったのだ、というのなら、21節辺りが相応しいはずです。元々のホセア書の言葉は、やがてのキリストの生涯を予告したのではありません。かつての出エジプトの出来事を回想しているのです。しかし、エジプトの奴隷生活から折角自由にされたのに、イスラエルの民は主なる神を忘れ、人を奴隷にし、エジプトから救い出された幸いを無意味にするような歩みをしている。そう嘆いているのがホセア書です。そして今も折角メシヤが来られたのに、民は喜ぶよりも、ヘロデの支配を気遣い、蛮行にも沈黙しています。ユダヤ人の王であるメシヤがユダヤで殺されそうになり、命を守るためあのエジプトに逆戻りする、という悪い冗談のような状態です。ユダヤからエジプトに行くのが「エジプトから呼び出した」と言われる程、神の民が「エジプト化」している。それこそホセア書が痛烈に批判していた、神の民の背信です。けれどもホセア書は、人間の背信を痛烈に指摘しながらも、その先にも、主が
「わたしはあわれみで胸が熱くなっている」
と語り
「決してあなたがたを滅ぼさない」
と仰います[2]。イエスはこの後も、歓迎されません。追い出され、逃げ回り、最後は十字架に架けられる、その道を歩み切ってくださるのです。
次の16節以下、ヨセフ家族が逃げた後、ヘロデは怒ってベツレヘムとその周辺の二歳以下の男の子をみな殺させます。当時の人口などから、ここで殺されたのは20人とか12人と言われます。イエスは逃れましたが、それだけの子どもたちが殺されたのです。この出来事を私たちはどう理解したら良いでしょう。この出来事は、聖書のここ以外に記録されていません。ヘロデやアルケラオは他にも多くの惨殺や虐殺をしています。他にも兵士たちが日常的に民を殺し、村ごと焼き払うなんてことはあったでしょう。今日でも、世界の子どもの半数、十二億人が人生のスタートから、貧困や紛争、女性だからという理由で、人権を奪われています[3]。田舎村のベツレヘムの幼児殺しなど統計の誤差にもなりません。でも聖書はこの幼児殺しを記録しています。また、その母たちの叫びを汲み取り、預言者の言葉の成就としています。
マタイ2:18「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」
これはエレミヤ書31章5節の言葉です。これは直接には、エレミヤに先立つ時代、イスラエルの民がアッシリアに捕囚となって引いて行かれた後の情景です。イスラエル民族の母の一人であるラケルが、捕囚となっていなくなった自分の子どもたちを思って嘆きを挙げている。それは子を失うという、慰めを拒むほどの喪失だというのです。しかしこのエレミヤ書の言葉も、アッシリア捕囚という北イスラエルの罪の結果だ、と冷たく言い放ちはしないのです。
エレミヤ31:16主はこう言われる。「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。──主のことば──彼らは敵の地から帰って来る。17あなたの将来には望みがある。──主のことば──あなたの子らは自分の土地に帰って来る。[4]
その先には
「新しい契約」
という将来まで語るのがこのエレミヤ書31章なのです。でもその手前の今は嘆きがあります。慰めを拒むほどの悲しみがあります[5]。歴史の中ではかき消された母たちの、子どもたち12億の、世界人口77億人のむせび泣きを神は聞いておられます。「自業自得だ、もっと早く悔い改めてなかったお前のせいだ」と責めず、聞かれるのです。私たちは受け入れがたい現実を前に、すぐに分析や犯人捜しをしたがります。
「イエスがベツレヘムで生まれなければ、子どもたちは殺されなかったのに」
と思いたくなります[6]。身の回りの出来事に
「あの時あんな事をしたから…私がこうしていれば…あんたが来たから…」
と説明することで目を逸らそうとします。犯罪や虐待や痛ましい出来事で、しばしば被害者にも落ち度があったかのような言い方がされます。勿論、私たちはその時その時を大切に、良い生き方を選ぶことが良い結果に繋がる事が多いでしょう。しかし、良かれと思ってしたことが裏目に出るのも現実です。命を守った結果、自分の命が危なくなることもあります。そうした暴力を悲しむ余り、「あの時ああしていれば」では慰められません。イエスのせいで虐殺が起きたのではなく、ヘロデや殺害者が殺害の首謀者です。この世界はあちこちが壊れ、完璧は望めません。もしタイムマシンで人生をやり直せたとしても別の問題を引き起こすでしょう。神は、明確な罪の過去をさえ責めるよりも、わたしは将来の望みを創造する、失われた者が戻ってくる、慰めを拒むほどの嘆きの涙もわたしが拭う、と前を向かせてくださるのです。ですから私たちも、過去を悔やんで「ああすれば良かった」「いや、もっと遡れば生まれてこなければ良かった」と言うことから救われます。原因を探して、人を責め「お前があの時こうしていたら」と責めて言い争い、もっとズタズタにするより、十分に嘆きつつ、将来に目を向けていけます。「あなたが悪いのではない」「あなたも苦しかったね」と言葉掛けをしていきたいのです。
23節の
「彼はナザレ人と呼ばれる」
という預言者の発言はどこにもありません。「新改訳2017」も今までの欄外引用箇所を削除しました[7]。でも、預言者が語っていたメシヤを言い表すのに、ナザレ人とはピッタリだ、とマタイは思ったのです。ユダヤの北のガリラヤ地方はエルサレムからは遠く、田舎弁丸出しで
「キリストや預言者がガリラヤから出るはずがない」
と思われていました[8]。その更に辺境のナザレは、ガリラヤ人からも蔑まれ、
「ナザレから何か良いものが出るだろうか」
と言われたド田舎です[9]。でも、その「ナザレ人(田舎者)」にキリストはなってくださった。英雄として来て、世界の問題をパッと解決するメシヤを期待したら、イエスは親に連れられて逃げ回り、卑しい村人として生きた。この世界の最も低い所で人の嘆きを味わい知っている。それこそが預言者の語る、この世界の救い主のエッセンスなのです。
イエスは「そもそもあの時こうしていたら良かったのに」とか「お前が悔い改めなかった罰だ」とお説教しません。そんなことでは救われない、この世界の暴力や不条理や後悔や偏見や嘆きをご存じです。信仰で踏み留まるより、逃げる方がよい程の危険があることもご存じです。問題の原因探しや分析ではなく、将来の回復に向かわせてくださいます。そのために、ご自身が一人の人として生涯を過ごしたのです[10]。今日も、主の食卓に与ります。天地を造られた大いなるお方が、私たちに小さく裂かれたパンを「これがわたしだ。わたしを覚えてこれを行いなさい」と言って下さるのです。そして、やがて主が再び来られて、神の国で新しく飲む日が来る。すべての悲しみが慰められて、すべての破れが覆われて、すべての暴力も傲慢も偏見も手放されて、ともに慰められ、祝う将来が来ます。その望みを、ご一緒に味わいましょう。
「主よ。私たちを憐れみ、罪の赦しを戴かせてください。悲しみが大きい余り、嘆くよりも、過去を責め、将来を諦めてしまうのです。しかし、世界の嘆きも破れも味わい知る主が、ともに嘆いて下さり、責めるよりも将来の望みを語ってくださいます。どうか私たちがその恵みを受け止められるように、前に置かれた望みをともに見ていくような言葉を語らせてください。」
[1] そして、その合間に15節と18節と23節で三回、旧約聖書の預言が引用されて、その言葉が成就するためであったと繰り返す。ヘロデの脅威を逃れつつ、それもまた、神の敗北とか危機一髪とかではなくて、聖書の預言者(神の言葉を預かった人)たちが語っていた事だと強く印象づけるような書き方をしています。
[2] 前後の文脈も含めてホセア書11章を以下引用します。「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、エジプトからわたしの子を呼び出した。2彼らは、呼べば呼ぶほどますます離れて行き、もろもろのバアルにいけにえを献げて、刻んだ像に犠牲を供えた。3このわたしがエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いたのだ。しかし、わたしが彼らを癒やしたことを彼らは知らなかった。4わたしは人間の綱、愛の絆で彼らを引いてきた。わたしは彼らにとってあごの口籠を外す者のようになり、彼らに手を伸ばして食べさせてきた。5彼はエジプトの地には帰らない。アッシリアが彼の王となる。彼らがわたしに立ち返ることを拒んだからだ。6剣は、その町々に対して荒れ狂い、かんぬきの取っ手を打ち砕き、彼らのはかりごとのゆえに、町々を食い尽くす。7わたしの民は頑なにわたしに背いている。いと高き方に呼ばれても、ともにあがめようとはしない。8エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。どうしてあなたをアデマのように引き渡すことができるだろうか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができるだろうか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。9わたしは怒りを燃やして再びエフライムを滅ぼすことはしない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者だ。わたしは町に入ることはしない。
[4] エレミヤ31:5「主はこう言われる。「ラマで声が聞こえる。嘆きとむせび泣きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。その子らのゆえに。子らがもういないからだ。」16主はこう言われる。「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。──主のことば──彼らは敵の地から帰って来る。17あなたの将来には望みがある。──主のことば──あなたの子らは自分の土地に帰って来る。31:18 わたしは、エフライムが悲しみ嘆くのを確かに聞いた。『あなたが私を懲らしめて、私は、くびきに慣れない子牛のように懲らしめを受けました。私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。主よ、あなたは私の神だからです。19私は立ち去った後で悔い、悟った後で、ももを打ちました。恥を見て、辱めさえ受けました。若いころの恥辱を私は負っているのです』と。20エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。──主のことば──
[5] 子が失われるという悲しみを、聖書はしばしば取り上げる。子を捧げるのは、最も大きな試練の一つ(アブラハムのイサク奉献)であり、それがどんなに辛いか、を聖書は見据えている。「慰めを拒む」は聖書に4度(創世記37:35、詩篇77:2、エレミヤ31:15とここ)。その3回は、子を亡くした親の悲しみ。しかし、少なくないのも現実。その時、親は自分を責め、原因を探さずにはおれない。ヤコブにも彼自身の過去を指摘し、バビロン捕囚には民の罪・反逆を思い知らせ、ベツレヘムの虐殺にもヘロデの罪・エルサレムの優柔不断を責めることは出来よう。しかし、エレミヤ書も、責めるよりも慰めを語り、罪を論わずに「あなたの労苦には報いがある」と語る。
[6] もっと言えば、30年後、イエスが十字架に架けられる前、「十字架につけろ」と叫び続けた人の中には、このベツレヘムでわが子を殺された母親も混じっていたかもしれません。「お前のせいで、私の子は殺された」と、癒えない喪失をぶつけて、「十字架につけろ」と叫ぶ母たちがいたことも、あったのかもしれないと思うのです。イエスが助かっただけで、大勢の子どもたちが殺された事はどうでもいいのか、とは重い問いです。「イエスが来なければ人類全体が滅んだのだ」という「目的のためには多少の犠牲もしかたがない」理論は到底同意できません。真摯に受け止めたい問です。
[7] 旧版の『聖書 新改訳』では、イザヤ書11:1が欄外の証拠聖句として引用されています。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」 この「根(ネツェル)」は「ナザレ」と同語源です。しかし、これは「彼はナザレ人と呼ばれる」とは似ても似つかない文章です。
[8] ヨハネ7:41「別の人たちは「この方はキリストだ」と言った。しかし、このように言う人たちもいた。「キリストはガリラヤから出るだろうか」。7:52「彼らはニコデモに答えて言った。「あなたもガリラヤの出なのか。よく調べなさい。ガリラヤから預言者は起こらないことが分かるだろう。」
[9] ヨハネ1:46「ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」ピリポは言った。「来て、見なさい。」」 先にベツレヘムも「ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない」と言われていましたが、ナザレは更に小さく、数える価値さえないと思われた場所でした。
[10] 初代教会はキリストを「ナザレ人イエス」と呼びました。使徒の働き2:22「イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それは、あなたがた自身がご承知のことです。」、3:6 すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」、4:10「皆さんも、またイスラエルのすべての民も、知っていただきたい。この人が治ってあなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです。」、6:14「『あのナザレ人イエスは、この聖なる所を壊し、モーセが私たちに伝えた慣習を変える』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」、10:38「それは、ナザレのイエスのことです。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。」、22:8「私が答えて、『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、その方は私に言われました。『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである。』、24:5「実は、この男はまるで疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者であり、ナザレ人の一派の首謀者であります。」26:9「実は私自身も、ナザレ人イエスの名に対して、徹底して反対すべきであると考えていました。」
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