2016/09/04 申命記三四章「主が閉じてくださる」
私は若い頃から涙もろい方で、好きな映画も最後にほろっとさせられたり、「そうきたか!」と号泣させられたりする話が多いです。現実の世界ではなかなかそういかないので、せめて人が紡ぎ出す物語に憧れるのかもしれません。今日は、ずっと開いてきた申命記の最後です。モーセの死が語られます。これはハッピーエンドとは違います。申命記だけではなく、聖書のエピソードは殆どが映画のような大団円ではありません。私たちの現実とは違う、憧れの、あちら側の世界ではなく、こちら側の、私たちの現実に近い出来事が淡々と綴られます。しかし、この私たちの現実の世界に、神は働いておられる。そういう希望が語られるのです。
1.モーセの死
まずここで、モーセがどのように死んだかを見ていきましょう。1から3節でモーセは
「ネボ山…ピスガの頂に登った」
、そして、北のギルアデ、西のエフライムとマナセ[1]、から南のネゲブを見て、すぐ対岸のエリコまでを眺めるのです[2]。これは、非常にざっくり言って、淡路島の先端まで行きながらそこから先へは進めず、高台の展望台から、はるか遠くの琵琶湖から兵庫、岡山までを眺めて、対岸の神戸に目をやる。そんな感覚が近いかもしれません[3]。
モーセはしばらく佇(たたず)んだのでしょう[4]。この三四章のモーセは寡黙です。何も言いません。ただ主の言葉だけが静かに響きます。一望の景色は、主がアブラハム、イサク、ヤコブに、その子孫に与えると誓った地です。イスラエルの民はまさにその約束の地に入ろうとしています。モーセはここまで彼らを導いて来ながら、そこに入ることが出来ない、と主は4節で言われます。モーセは切なかったことでしょうか。悔しかったことでしょうか。でもそれだけではありません。既に三一章三二章で明言していた通り、イスラエルの民が約束の地に入っていったら、直ぐにでも主に背いて、偶像を拝んだり、社会を不正や差別や利潤追求で歪めたりすることは目に見えていたのです。決して「バラ色の未来があって、そこにモーセが入れない」という単純な話ではありませんでした。折角の約束の地に入っても民はそこで神の恵みを踏みにじる歩みをする。眼下に広がる広い地方で、どんな悪や残酷で身勝手な歴史を積み重ねようとしているか。そう思って、モーセは苦しくもあったのではないでしょうか。しかしもう四〇年、モーセは民を導いて来ました。ほとほと指導者の大変さに疲れていました。民の根深い頑なさはこれからも続きます。でも、それはもうモーセの手を離れるのです。モーセの肩からは、指導者という重荷は下ろされたのです。これからの歴史についてはもう責任を負わなくて良い。モーセはこの地に立ちこめる暗雲を感じつつも、解放感もあったかもしれません。
2.私たちに必要なもの
モーセの最期は一言では言い切れません。達成感も後悔も、満足も心配もあったでしょう。まだまだ気力や体力はあったのですからやり残した思いもあったでしょう[5]。後継者のヨシュアはモーセに続く指導者としての務めを果たしますが、10節ではモーセのような指導者は起こらなかったとあります[6]。ヨシュアはモーセとは違ったのです。彼だから出来たことはまだまだあったはずです。しかし、主はそのモーセの歩みを今ここで閉じられたのです[7]。
創世記から申命記までの五つの本は「モーセ五書」とか「律法(トーラー)」と呼ばれます。旧約聖書の中でも最も重要な部分をされます。しかし「律法」とは言っても、規則や命令よりも、モーセやアブラハムやヤコブの生涯のほうが多いのですね。そして、この申命記の最後三四章も、申命記だけでなく「律法」の最後でもあるわけですが、ここには規則や命令よりも、モーセの死と生涯の総括が述べられます。それこそが、律法の結びです。まとまったハッピーエンドというよりも、私たちに対する語りかけ、問いかけでもって、律法は結ばれるのです。[8]
私たちは人生が最後は幸せに囲まれて終わるドラマに憧れています。現実には無理だと思っていても、もしもっと自分に力があれば、お金や恵まれた環境や、清く正しい心があれば、立派な信仰があれば、そういう人生になるだろうと考えやすいものです。あるいは、キリスト教や宗教、信仰を持つことによって、少しでもそんなスッキリした人生になることを期待していることもあるでしょう。モーセほどの信仰者なら、きっと後悔も傷もない、平安な最期を迎えて、神様に「よくやった。よい忠実なしもべだ」と言われるんじゃないかと思い込んでいたりします。しかし、そういう幻想はここで砕かれます。人間が理想通りにドラマのような人生を紡げるわけではありません。神の力を借りて自分が神になろうとするのは間違いです。むしろ、私たちは、神の大きなドラマの中で、自分の与えられた役割を果たす者に他ならないのです。
この後、讃美歌310番を歌います。三番は
「静けき祈りの時はいと楽し。聳ゆるピスガの山の高嶺より故郷眺めて上りゆく日まで慰めを与え、喜びを満たす」
です。ピスガの山から約束の地を眺めたモーセのように、私たちもやがて神様の大きなご計画の全体像を見るのかもしれません。そして、そこに生きる自分も含めた人間がみんな、過ちを犯し、限界があります。いろいろな戦いや苦しみ、孤独や恐れを抱えます。そういう私たちが、自分たちが人間に過ぎないことを神の前に認めて、静かに祈る中で、慰めを与えられ、喜びを満たされる。そうして祈りながら、やがてピスガの高嶺よりも先、神ご自身のもとに召されるまで旅をするのです。
3.モーセにまさる主の導き
ここにはモーセのような預言者は再び起こらなかった、とあります。同時に、申命記の一八章には、モーセのような預言者を与えるという約束があります[9]。「使徒の働き」では、イエスこそこの
「モーセのような預言者」
だと宣言しています[10]。イエスはモーセ以上の完全な預言者であり、完全な指導者として、約束の地に私たちを導き入れてくださいます。でもそれだけなら、私たちはこの時モーセが見通していたように、神が下さった祝福の中で神に背いたり、恵みを乱用したり、人を自分のために傷つけ、裁き、利用しようとします。神の律法に従う代わりに、自分の理想や自分の欲望に従おうとするのが罪の姿なのです。イエスはその意味でも完全な預言者です。イエスはご自分が
「律法を廃棄するためではなく、律法を成就するために来た」
と言われました[11]。私たちの基準から神の律法に生きるために、イエスは来られたのです。イエスを信じれば神の律法を守らなくても良い、ではないし、ただ形式や強制で無理矢理にでも神の律法を行わせる、という意味でも決してありません。イエスが「わたしは律法を成就するために来た」と仰った山上の説教では、天の父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深くありなさい、ということこそが律法の極意として語られます。天の父なる神が憐れみ深いことを私たちが深く味わい知ることこそ、律法が成就していく唯一の秘訣です。
ここでもそうではないでしょうか。申命記の最後に示されるのは、モーセと主との静かで深い時間です。モーセの失敗も働きも丸ごと引き受けつつ、その生涯を閉じられる主です。11節12節にまとめられるモーセの働きも、モーセが、ではなく、主がモーセを通してエジプトに対してもイスラエル人に対しても権威をお示しになるためだった、と言われます[12]。そして、主がモーセの生涯を今ここで閉じられるのです。
ここで、モーセその人以上に、モーセを通してここまで働き、今その生涯を終えた主が中心です。そしてモーセは死んでも、主は今も変わらず生きておられ、欠けや様々な思いのある私たちに語りかけ、導かれます。主イエスはモーセにまさる預言者として、私たちを教え、私たちのためにいのちを捧げてくださいました。
モーセにまさる主イエスが、私たちを導き、確かに約束を果たしてくださることを、この申命記の結びに確信しましょう。その主が私たちに下さっている聖書に聞き従う大切さと喜ばしさを、もう一度心に刻みましょう。その主の大きな神の国を眺める日が私たちにも来ると信じます。
「主よ。私たちのいのちはあなたのものです。私たちの願う物語よりも、もっと大きなご計画の中に、あなたは私たちを導き、ともにいてくださいます。失敗や悲しみや、訳の分からない展開になろうとも、主よ、あなた様の真実を仰がせてください。今もともにおられ、最後まで導いてくださる主に信頼して、この旅路を整え、心を聖なる恵みによって清めてください」
[1] 「西の海」とは、地中海のことです。
[2] ピスガの標高は700メートルほどと考えられています。
[3] あるいは、距離感だけで言えば、高知から鳴門、岡山、愛媛まで、四国から瀬戸内海までを見渡すぐらいの感じです。
[4] モーセは約束の地に入れませんでしたが、最初にこれを見る特権を与えられました。いいえ、それ以上に、こうして約束の地全体を見回すことはモーセだけが許されたことでした。さらに、主イエスの「山上の変貌」において、モーセがエリヤとともにイエスの前に現れます。しかし、そのモーセは、自分がカナンの地を踏んでいる事以上に、主イエスの苦しみを話題としていました。地上で果たせなかった願望を果たすよりも大きなこと、永遠の御国へと踏み入れるために、神ご自身が担って下さった苦しみ、戦い、寂しさ、に心打たれているのです。ルカ九28-36。
[5] 「彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」が、自分では「出入りが出来ない」(三一2)と言っています。人がよく言うように、「仕事があるからまだ生かされている」とは言いがたいのです。死は、神が納得されたから訪れるのではない。人間が自分のいのちは自分のものではないことを痛み知る出来事である。
[6] 民数機二七15-23に、モーセがヨシュアの上に手を置いて任命した記事があったことを、ここでは前提としています。それとて、その儀式に力があったのでも、モーセに権威を授ける能力があったのでもありません。神が、その任命をも用いて、働いてくださったのです。さらに、この時点で、すでにヨシュアは「神の霊の宿っている人」と呼ばれていました(民二七18)。
[7] McConvilleは「主の怒りの理由は、少なくとも申命記においては十分な説明がない。これは、次のような印象を強める。すなわち、モーセの罰は何かしら身代わりの死だった、と思わせるのだ。」(p.478)と説明しています。さらに、イザヤ書の「主のしもべの歌」にも、しもべが苦難を負い、イスラエルだけでなく諸国の民のためにいのちを捧げると歌われていることにも通じることを指摘しています。
[8] Mannは、ヨシュア記でカナン入植を終えた時点ではなく、このカナンの手前でトーラーが閉じられることを重視しています。自己満足より自己吟味、ハッピーエンドよりもチャレンジが聖書の民の立つべき模範なのです。(Westminster Bible Commentary, p.147)
[9] 申命記十八18-20。
[10] 使徒の働き三20以下「それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。21このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで天にとどまっていなければなりません。22モーセはこう言いました。『神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。23その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。』24また、サムエルをはじめとして、彼に続いて語ったすべての預言者たちも、今の時について述べました。」、また七37「このモーセが、イスラエルの人々に、『神はあなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる』と言ったのです。」
[11] マタイ五17以下。
[12] Craigieは、最後の3節がモーセの墓碑銘のようだ、と。預言者であったが、墓碑銘が記すのは、彼がどれほど神を知っていたか、ではなく、神がモーセを知っておられた、という記述(NICOT, p.406)。
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