2016/06/19 申命記二八章(1~14節)「高く挙げられるために」
1.聖書で二番目に長い章
最近一番ホッとした出来事の一つは、北海道で八歳の子どもが六日ぶりに見つかったことでした。本当に胸を撫で下ろしました。あの事から「しつけ」や「罰」についての悩みがあちこちで議論されました。どこまでがよいのか、どうやっても言うことを聞かない子に、厳しい躾はどうなのか。そんな事への答として、
「脅しや体罰によるしつけは子どもをこわがらせるだけで効果は低い…。怖さや罰するだけで分からせるのは難しい」
と現実に気づくことも大事だと言われています。どなったり、罰したりしそうになった時は
「子どもに伝わっているか、しつけでなく心理攻撃になっていないか」
と考えることが呼びかけられていました。[1]
今日の申命記二八章は、申命記で今まで語られてきた、神の民としての契約を結ぶ部分です。全部で68節もある長い章です。これは、聖書でも二番目の長さです[2]。今読んで戴いた14節までには、主の言葉に従った場合の祝福が記されていました。この後、15節から68節までは、反対に主の契約に背いた場合の呪いが書かれているのです。祝福の四倍もの長さで、延々と、契約違反の結果がどれほど悲惨なものとなるのかが書き連ねられていくのです。病気や不作だけでなく、敵国に攻められて包囲されて、極限の飢餓状態になるとか、敵の捕虜として連れて行かれて、心が病んでしまうとか、徹底的な荒廃がこれでもかとばかりに描かれるのです。
ただし、これは聖書の書き方の問題ではなくて、古代オリエント社会での契約文書は、祝福と呪いとを並べて最後に取り交わす、というのが形式を取ったのだそうです。そして、呪いの方が長いのも普通です。現代でも、契約違反の条文はやはり詳しく書かれますね。契約の祝福は、契約そのものに含まれているので長々と述べる必要はありませんが、契約を踏みにじるような場合は覚悟しておけ、と釘を刺すのは一般的な事です。
しかも、ここに至るまでの話を思い出してください。イスラエルの民は、主の力強い御業によって、エジプトから救い出された解放を体験していました。本当に神があわれみ深く、何度も赦してくださるお方であることを知っていました。だから、これからも主に従い、主の命じる生き方を棄ててはならないことは当然だと弁えることが出来たはずなのです。こんな呪いは恐ろしいからと、恐怖で従うのではなくて、主が真実で恵み深い神である以上、従うのは当然で、のろいを言われなくても従うし、従わなければ呪われるのも自業自得だ、と思うのが本当だった筈です。そこを誤解すると、恐怖政治のように思えてしまうのです。
2.しかし、罰では人は変わらない
あえて言うならば、先の
「脅しや体罰によるしつけは子どもをこわがらせるだけで効果は低い…。怖さや罰するだけで分からせるのは難しい」
はここでも当てはまりました。こう言われたからと言って、民が神である主に対する忠誠を貫いたわけではありませんでした。この二八章そのものは、当時の契約文書の書き方を踏襲したものです。しかし、これだけ詳しく、主の言葉から離れてはいけないと具体的に長々と確認しても、それは民の心を直すことはなかったのですね。「御言葉に従わなければならないなんてしらなかった」とは言えませんし、「するなと言われたら却ってやりたくなる」なんて屁理屈も通用しません。民は、神である主、生ける唯一の創造主の力と恵みを知った上で、その神が命じる礼拝の民としての歩みを捨てました。互いに親切にし、偏見や格差のない社会を造ることを辞めて、利を貪り、虚栄を求めるようになりました。知らなかったからではなくて、悪いと十分教えられた上で、背いたのです。
これは聖書の物語の大きな要因(プロット)の一つです。人間は、神と共に正しく喜んで生きることを望まなくなってしまった。いくら幸いをもらっても、いくら罰を与えられても、警告を受けていても、それでも神に背いたり、こっそり悪を行ったりしてしまう。それが人間の姿です。聖書はそれを分かっています。だからここでも、呪いや罰を恐ろしく描き出して、「神に従わないと悲惨が待っているぞ」と脅しつけ、無理遣り従わせようとするとは思わないで下さい。恐怖が動機で、恨みを秘めた信仰など信仰でさえないのです。罰や厳しさだけで人間は育ちません。勿論、刑罰が不要だとか、罰は無い方がいいということではありません。聖書は、神を恐れ、他の何物も神とせず、人をぞんざいに扱わず、正直であることを命じます。具体的な、本当に具体的な生き方を手取り足取り教えてくれています。私たちにとって必要だからです。
でも律法で人が正しく歩めるとは聖書は期待しません。人間には、神から離れようとする罪がある。その心は、外からの強制や脅しや何かによっては変わり得ません。だからこそ、神はイスラエルの民が背いても、すぐにここに書いてあるのろいを全て下されたりはしませんでした。自分のした結果を刈り取らせましたし、不正や暴力を持ち込んだ社会はどんどん荒廃していきましたけれども、そうした中で神は民に語り掛け、悔い改めて立ち帰ることを呼びかけ続けました。いいえ、この申命記でも三〇章ではもう、悔い改めと回復がハッキリ約束されているのです。神は人間を脅さず、自分の悪に気づき、神に従わなかった間違いに気づくのを待たれます。そうして、心から神に戻って来るよう、決して見捨てずに、ともにおられたのです。
3.高く挙げてくださる方
人間の言いたがる屁理屈に「神がいるなら見せてみろ」「願いを叶えるとか奇跡を見せてくれたら信じられるのに」という詭弁があります。今日の二八章はそういう言いがかりへも答えていますね。奇跡やのろいを見たところで、人は変わりません。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で懲りないのです。それは、人の心に、神を小さく考え、自分の方が神よりも上であるかのように思いたがう性質が染みついているからです。神もまたそれを十分ご承知ですから、私たちにただの意志の力で生き方を正しくし、根性で心を変えることなんて期待してはおられません。それでは無理だと示すのが、イスラエルの民の歴史なのです。そして、イスラエルの民が失敗を繰り返してどんどん破綻していっても、なお神はそこでともにおられました。時に怒ったり、嘆いたり、苦しまれつつ、ただ人間に表面的な従順を求めるのでは無く、神ご自身を心から信頼する深い関係へと招き続けられたのです。その末に、国が滅びる寸前のイスラエルに、神のひとり子イエス・キリストがおいでくださって、御自身を十字架に捧げてくださいました。そのイエスのいのちの犠牲によって、私たちのいのちも新しくされ、神に従う民が造られていく。そういう物語の中で、初期の躾の一部として、今日の二八章も意味を持っているのです。
私たちは、戒めやその結果、自分が受ける祝福や呪いにもまして、それを下さった神ご自身を仰ぎましょう。侮ってはなりませんが、「良い子」でないと怒り狂う神でもないのです。
二八1もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。
と仰る神です。私たちを高く挙げなさる神。高く挙げたいと思ってくださる神[3]。神は私たちを卑しめ踏みつけたいどころか、喜んで御自身のそばに引き上げたくて溜まらない神です。そのためにも、神よりも自分の方が高いと思うことを止め、神を崇め、自分を低めるのは当然です。私たちよりも高く大いなる神の言葉の前に謙虚になりましょう。キリスト御自身が限りなく低くなられたように、本当の高さとは、低くなることにしかないのです。高くなろうと背伸びを止め、自分の問題や恐れや貧しさを認めましょう。神を大いなるお方として崇めましょう。そうして生活の中で人と付き合いながら、謙って歩む道は、呪いではなく恵みに他なりません。
「主よ。人が子育てに悩むように、あなた様も、呪いさえ警告し、忍耐をもって私たちを育て導いておられます。その限りない御配慮を感謝します。私たちの貧しさを悉く知り給う主が、私共をどうにかして命に生かそうと、卑しくなりたもうゆえに御名を崇めます。どうぞ私たちの心を、ただあなたの聖なる憐れみによって押し出し、謙って仕える歩みへと高めてください」
[2] 聖書で最も長いのは、詩篇一一九篇、三番目が民数記七章です。
[3] これは、13節でも「私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行うなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。」と言われて繰り返されています。また、二六19でも「主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が造られたすべtねお国々の上に高くあげる。」と言われていました。
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