聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/6/20 マタイ伝21章12~17節「神は幼子の口を通して」

2021-06-19 12:48:47 | マタイの福音書講解
2021/6/20 マタイ伝21章12~17節「神は幼子の口を通して」

 先週、私たちはイエスがロバに乗ってエルサレムの都に入られたことを見ました。それは、イエスが力尽くで治める将軍ではなく、柔和な王であることを示すしるしでした。その続きの今日の箇所は、イエスが柔和な王であることが三つのことを通して具体的に示されます[1]。
 最初は「宮きよめ」と言われる、イエスの御生涯で最も激しい行動、抗議活動です。
12それから、イエスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
 宮で鳩を売っていたのは神殿礼拝での生け贄のためです。牛や羊を献げる余裕がない貧しい人は鳩を献げる決まりでした[2]。また遠くから礼拝に来る場合は、動物を換金して、現地で規定にあった動物を調達したのです[3]。この時も何十万人もの巡礼者は、宮で鳩を買うつもりだったでしょう。「両替人」も、ユダヤの貨幣に交換する欠かせない役割でした[4]。しかし、
13…「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」
 「祈りの家と呼ばれる」の引用元、イザヤ書56章は、ユダヤ人の血を引いていない異邦人でも、様々な理由で去勢手術をしてしまった宦官も、
「自分は礼拝に招かれていない」
と言うな、主はすべての人を招かれるのだ、という言葉です[5]。主は異邦人も宦官も招かれる。
 もう一カ所引用する「強盗の巣」はエレミヤ書7章[6]。主の宮という建物に安住して、弱者を虐げ、暴利を吸い上げていると非難されたのです。この言葉をイエスは引用します。それは、イザヤ書、エレミヤ書同様、両替人も鳩売りも巡礼者たちの礼拝を助けるどころか、自分たちの利得のために礼拝を利用していたからです。神と弱者の間に立ち塞がっていたのです。しかしイエスは、巡礼者や鳩を献げるのが精一杯の貧しい人々の側に立って、彼らを責めるのです。
 両替人は一割から1.5割の手数料で、何十万の巡礼者からは巨万の富を得られました。それは礼拝につけ込んだ「強盗」行為です。またこの場所は、神殿でも一番外側、異邦人はそこまでしか入れない「異邦人の庭」でした[7]。厳密には宮の中ではないのです。宮の中に入れない異邦人がせめてそこまでだけでも、と集まってくる庭でも、商売人たちが大きく場所を占めて、自分たちの儲けのため、礼拝を阻んでいる。その事をイエスは憤られたのです。次に、
14また、宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来たので、イエスは彼らを癒やされた。
 かつてダビデがエルサレムを攻め落とそうとした時、当時そこに住んでいたエブス人はダビデを嘲って、「目や足の不自由な者でもお前を追い出せる」と侮辱しました[8]。そのせいで、障害者は神殿に相応しくないとされてきた。その人々が、イエスの御許に来て、イエスに癒やされました。イエスは礼拝がバリアフリーな場であると宣言されました。これは画期的な事で、15節では「いろいろな驚くべきこと」、とても強い、ここにしかない表現で言われるのです[9]。
15ところが祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさったいろいろな驚くべきことを見て、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのを見て腹を立て、
 イエスの障害者歓迎は本当に驚きでした。でもそれを見ても、腹を立てる人々がいました。その上、子どもたちが、イエスと一緒に都に入ってきた群衆の口まねをして「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのを見て、ますます腹を立てる。子どもが意味も分からずに、賛美の言葉を言うなんて冒涜だ、ということでしょう[10]。確かに、神殿では訓練されたレビ人の聖歌隊たちが美しく荘厳な唱和で賛美を献げていました。しかしイエスはここでも、詩篇の言葉を引き、
16…聞いています。『幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れを打ち立てられました』とあるのを、あなたがたは読んだことがないのですか。」
 この元の詩篇八篇は、天、月や星や自然界の諸々を見て主を称えることで有名ですが[11]、2節では幼子、乳飲み子の口、力も知恵もない者を通して、神が事をなさるのだとも言っているのです。子どもたちの「ごっこ遊び」のような賛美さえ、神はそれを喜んで受け入れて、ご自身の誉れとされるのだ、と返されます。礼拝を司る権力者の上から目線を、礼拝されるべき神、本当の礼拝の司であるイエスは、下からの目線、万物の視点でひっくり返されるのです[12]。
17イエスは彼らを後に残し、都を出てベタニアに行き、そこに泊まられた。[13]
 王であるのに、都に泊まらず、近くの村で泊まりました。弱者や異邦人が追い出されていたように、イエスも追い出されて、都の外に泊まりました。商売を怒る以上に、虐げられていた人たちと同じようになった王。祭司長たちの言いがかりをただすだけでなく、幼子たちや私たちの口からの賛美を喜ばれて、何事か、誉れあることを打ち立ててくださる。そうして、私たちが「こうでなければ」としがみついている思い込みの腰掛けを倒してくださるお方です[14]。

 ロバに乗って巡礼者たちとともに来られ、神殿に慣れ親しんだ人たちが受け入れがたい驚きで宮をきよめられた主は、私たちの人生や教会にも、全く予想外の形で入ってこられます。余りに意外で、困ってしまう事もあります。しかしその事こそ、主が何かを始められる出来事かもしれません。そこに主がどう働いているかを見ようとするよう、私たちが変えられる。そうして、人が神に近づくことを妨げる狭い神理解を砕かれて、柔和な者へと私たちが変えられていく。そのこと自体が、主が私たちの王として来られ、私たちをきよめてくださる事です。

「主よ、私たちにあなたの柔和な眼差しを与えてください。自分ではなく他者を変えよう、言い包(くる)め、排除しようとする傲慢から、まず自分があなたの似姿へと変えられる事を願い、ここですべての人がともにあなたに祈りを捧げ、住まうことを願う柔らかさを与えてください。今献げている賛美も、あなたが私たちの口に授けられたものです。私たちの唇を通して、あなたは何をなさろうとしているのでしょうか。どうかそれを成して、御名を賛美させてください」

[1] 「柔和」と「宮きよめ」とは対照的ではないのでしょうか? いや、これが貧しい人々、障害のある人々や子ども、異邦人らへの大胆な行動であることを思うと、この出来事も「柔和な王」の力だと覚えさせ得られるのです。因みに、マルコの福音書では、ロバに乗った入城の翌日(月曜日)に「宮きよめ」となっていますが、マタイは、その事には拘らず、「宮きよめ」を「エルサレム入城」と直結させています。

[2] レビ記1章14節(主へのささげ物が鳥の全焼のささげ物である場合には、山鳩、または家鳩のひなの中から、自分のささげ物を献げなければならない。)、5章7節(しかし、もしその人に羊を買う余裕がなければ、自分が陥っていた罪の償いとして、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽を主のところに持って行く。一羽は罪のきよめのささげ物、もう一羽は全焼のささげ物とする。)そして、5章11節には「もしその人が、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽さえも手に入れることができないのなら、自分の罪のために、ささげ物として、十分の一エパの小麦粉を罪のきよめのささげ物として持って行く。その人はその上に油を加えたり、その上に乳香を添えたりしてはならない。これは罪のきよめのささげ物であるから。」とまで、次の策が規定されています。

[3] 申命記14章22~26節(あなたは毎年、種を蒔いて畑から得るすべての収穫の十分の一を、必ず献げなければならない。23主が御名を住まわせるために選ばれる場所、あなたの神、主の前であなたの穀物、新しいぶどう酒、油の十分の一、そして牛や羊の初子を食べなさい。あなたが、いつまでも、あなたの神、主を恐れることを学ぶためである。24もしあなたの神、主が御名を置くために選ばれる場所が遠くて、あなたの神、主に祝福していただくために運んで行くことができないほど、道のりが長いなら、25あなたはそれを金に換え、その金を包んで手に取り、あなたの神、主が選ばれる場所に行きなさい。26あなたは、そこでその金を、すべてあなたの欲するもの、牛、羊、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたが望むものに換えなさい。そしてあなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜び楽しみなさい。)

[4] 各地のコインは像が刻まれていましたから、ユダヤ人の律法解釈では「偶像」と見なされたのです。

[5] イザヤ書56章2~8節「幸いなことよ。安息日を守って、これを汚さず、どんな悪事からもその手を守る人は。このように行う人、このことを堅く保つ人の子は。3主に連なる異国の民は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。4 なぜなら、主がこう言われるからだ。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、5 わたしの家、わたしの城壁の内で、息子、娘にもまさる記念の名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。6また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった異国の民が、みな安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、7わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。8 ──イスラエルの散らされた者たちを集める方、神である主のことば──すでに集められた者たちに、わたしはさらに集めて加える。」

[6] エレミヤ書7章2~11節(「主の宮の門に立ち、そこでこのことばを叫べ。『主を礼拝するために、これらの門に入るすべてのユダの人々よ、主のことばを聞け。3イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたがたの生き方と行いを改めよ。そうすれば、わたしはあなたがたをこの場所に住まわせる。4あなたがたは、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」という偽りのことばに信頼してはならない。5もし、本当に、あなたがたが生き方と行いを改め、あなたがたの間で公正を行い、6寄留者、孤児、やもめを虐げず、咎なき者の血をこの場所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、7わたしはこの場所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住まわせる。8見よ、あなたがたは、役に立たない偽りのことばを頼りにしている。9あなたがたは盗み、人を殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに犠牲を供え、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。10そして、わたしの名がつけられているこの宮の、わたしの前にやって来て立ち、「私たちは救われている」と言うが、それは、これらすべての忌み嫌うべきことをするためか。)11わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目に強盗の巣と見えたのか。見よ、このわたしもそう見ていた──主のことば──。

[7] 神殿は、大祭司が年に一度だけ入れる「至聖所」と、祭司だけが入れる聖所を中心に、その回りに、ユダヤ人男性が入れる庭、その回りにユダヤ人女性が入れる「女性の庭」、そして、その外に、異邦人はそこまでしか入れない「異邦人の庭」という構造になっていました。これは、最も外側の「異邦人の庭」でのことです。これを今日の教会堂に適応するなら、「礼拝堂」では金銭のやりとりや飲食などを禁じる、ということではなく、玄関が「にわか」の人たちにとって入りにくくなっていないか、という問いかけとして聞くべきなのです。

[8] Ⅱサムエル記5章6~9節(王とその部下は、エルサレムに、その地の住民エブス人のところに行った。すると彼らはダビデに言った。「おまえは、ここに攻めて来ることなどできない。目の見えない者どもや足の萎えた者どもでさえも、おまえを追い出せる。」彼らは「ダビデがここに攻めて来ることはできない」と考えていたのである。7しかし、ダビデはシオンの要害を攻め取った。これがダビデの町である。8その日ダビデは、「だれでもエブス人を討とうとする者は、水汲みの地下道を通って、ダビデの心が憎む『足の萎えた者どもや目の見えない者ども』を討て」と言った。それで、「目の見えない者や足の萎えた者は王宮に入ってはならない」と言われるようになった。9ダビデはこの要害に住み、これを「ダビデの町」と呼んだ。ダビデはその周りに城壁を、ミロから一周するまで築いた。) 聖書協会共同訳は、8節の「王宮」を「神殿」と訳しています。

[9] 「驚くべきことサウマシオス」(直訳:驚き)はここのみの言葉です。そしてそれゆえにこそ、この驚くべきことを見てさえ、祭司長たちは驚かなかった、それこそ驚くべき頑なさ、というよう。

[10] 16節の「子どもたち(フートイ)が何と言っているか」は意訳で、「これらが何と言っているか」という問いです。乱暴に訳せば、「これら」「こいつら」とも出来る、突き放した言い方です。

[11] 詩篇八篇「主よ 私たちの主よ あなたの御名は全地にわたり なんと力に満ちていることでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。2幼子たち 乳飲み子たちの口を通して あなたは御力を打ち立てられました。あなたに敵対する者に応えるため 復讐する敵を鎮めるために。3あなたの指のわざである あなたの天 あなたが整えられた月や星を見るに4人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。 人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。5あなたは 人を御使いより わずかに欠けがあるものとし これに栄光と誉れの冠を かぶらせてくださいました。6あなたの御手のわざを人に治めさせ 万物を彼の足の下に置かれました。9主よ 私たちの主よ あなたの御名は全地にわたり なんと力に満ちていることでしょう。

[12] 神殿の商売で搾取されている人々、宮には相応しくないと排除されてきた目や足の不自由な人々、そして、賛美を口にすることも生意気だと思われていた子どもたち。こうした人々を、イエスは優先されました。その柔和さのゆえに、権力側の商売人を追い散らすことも厭わず、祭司長たちにも怯まずに子どもたちを庇われました。これが、イエスの激しい柔和さでした。神殿礼拝にとってこれは全く仰天ものでした。今の社会も、障害者が居づらく、裕福な人には優しく貧しい人には冷たい。私たちもそんな考えや差別意識の影響を否応なく受けて、教会を健康で似たような人がいて、活動を維持してくれる人の来会を期待してしまいます。礼拝や信仰でも、神のため、ふさわしい礼拝のためという大義名分が優先してしまいます。熱心が高じて、神や礼拝を代弁しなければ、と人を説得しよう、教えようと焦ることもあるでしょう。そうなればなるほど、私たちは柔和さとは逆の、怒りや頑固さに強ばってしまいます。

[13] 17節「泊まられた」アウリゾマイ ここのみ。アウレー(庭、屋根なしの空間)。26:3、58、69の派生語です。立派な神殿のある都は、イエスの泊まる場所ではなく、イエスにとっても「わたしの家」「祈りの家」ではありませんでした。イエスは、王でありながら、野宿同然にベタニアに泊まります。それは、8章20節で「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」と仰った通りで、また、多くの庶民が野宿したのと同じ生き方を選ばれた証しでもあります。

ベタニア 26:6でも。(さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、) ここでもイエスは、貧しい人の友となっている。

[14] イエスは、私たちが人生を計算し、貸し借りを書き留めた机をひっくり返してくださる。私たちのソロバンをひっくり返してくださる。支配が変わる時、通貨も古いものは紙切れとなる。ヨベルの年に、借金はすべてなくなり、財産も屑になる。

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