2017/3/5 「ヤコブ書 筋の通った人」ヤコブ3章13-18節
今月、聖書66巻の中から取り上げるのは「ヤコブ書」です。祈りのカレンダーにも印刷しました「聖書同盟」の通読表では、3月7日からヤコブ書を読む順番になっています。五章しかない短い書簡ですから、改めて読んでくださればと思います。そして、そこに出て来る強い言葉を「律法的」「厳しい」とでなく、生きた恵みなのだと気づいて味わえたらと願います。
1.「藁の書」?
宗教改革者のマルチン・ルターがヤコブ書を評して「藁の書」と言ったという有名なエピソードがあります。ルターは、中世のカトリック教会が、救われるためには信仰だけではなく、行いも必要だ、と人間の行為(善行、献金、苦行、聖職叙階、殉教など)を必要としたのに対して、人が救われるのは行いによらず信仰のみだと大胆に主張した人です。それが、宗教改革という大きなうねりになっていったのです。しかし、ヤコブ書二章にはこんな言葉があります。
14…だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」[1]
行いのない信仰では救われない、と言っていますね。でも、ルターの宗教改革では、救われるためにはキリストが十字架で御自身をささげてくださった事で十分であって、私たちはそれを信仰で受け取るだけで良い、宗教的な善い行いを付け加える必要はない、が論点でした[2]。ヤコブ書で言う場合の「行い」や「信仰」は少し意味が違います。ヤコブが言う「信仰」は「宗教的な行い」も含めています。割礼・献金・儀式・奉仕・伝道などを含めて「信仰」と言っているのです。そういう「信仰」がいくらあった所で、その人の生き方が信仰と結びついていないなら、そんな信仰は何の役にも立たない、というのです[3]。
確かにキリストは私たちのために十字架にかかり、よみがえられて、私たちの救いを果たされました。私たちはそれに儀式や善行を付け加える必要はありません。しかし「行いはどうでもよい」のではないのです。むしろ、恵みによって救って下さるイエスとの出会いは、私たちの考えや生き方の土台をも変えるはずです。自分が救われるために何かをする生き方から、イエスを信じる生き方、神を知ってしまった者として新しく生かすのが「信仰」なのです。
週報にも書いたとおり、ヤコブ書にはイエスのご人格とか御業などは全く触れられません。けれども、イエスの説教は、このヤコブ書の中で繰り返されています[4]。そして生き生きと、具体的に、当時の人々に適用しているのです。イエスは、私たちが神の子どもとして生きるために来てくださいました。孤独に囚われ、罪に振り回された生き方から、恵みに捕らえられ、恵みに動かされる生き方へ-自己中心的な生き方から神を賛美し互いに仕え合う生き方へと私たちを解放してくださるため、命を捧げて下さったのです。そういう意味で、このヤコブ書は他にはないユニークな形で、イエスの教えをハッキリと示し、想起させてくれます。
2.信仰による歩み
ヤコブ書は具体的なテーマを扱います。試練のこと、教会での貧富の差別、言葉の失敗、喧嘩や悪口という人間関係、商売人の思い上がり。病気の人のための祈り…そういう具体的な問題です。そこに透けて見える教会は、信仰に立っていると豪語しながら、実際の対人関係や生き方、価値観が、信仰と無関係で、ダブルスタンダードであった教会の姿です[5]。
ヤコブ三13あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。
14しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。
15そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。
16ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。
天にいます神が下さる知恵は、柔和で良い生き方を生み出す。けれども、もしまだ心の中に苦い妬みや敵対心があるならば、それは天からではない、この世界の知恵(知恵ならざる知恵)に振り回されているに他ならない。秩序の乱れやあらゆる邪悪な行いがある、というのです。
17しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。
18義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。
私たちはこういう「知恵」を求めるべきだ、とヤコブ書は勧めます。一言で言えば、ヤコブ書は、筋の通ったキリスト者、信仰と一致した人となれ、と勧めるのです。でもそれは、「立派な生き方をせよ」ではありません。三章には
「舌で罪を犯さない人はいない」
という有名な説教がありますが、それは「言葉で罪を犯すな」ではなく
「舌で罪を犯さない人は一人もいない」
なのです[6]。舌で罪を犯すなという道徳ではなく、神に対する信仰と他人に対する毒舌や軽蔑を、自分の中の破れとして自覚するのです。憐れみを必要としている自分を知らされて、その私を憐れんで下さる神を求めるのです。
「純真、平和、寛容、温順、あわれみと良い実」
に満たされ、依怙贔屓や見せかけのない者へと変えられることを求めるのです。そしてイエスがそれを求められ、ヤコブ書がそれを改めて言うとおり、そういう生き方は可能なのです。
3.イエスの願う「救い」のゴール
過ちのない生き方ではなく、過ちを持ち、矛盾を抱えた自分だからこそその自分を神に差し出し、知恵をいただく生き方をイエスは下さるのです。自分の心を欺かず[7]、二心でない生き方はあるのです。神の御子イエスは私たちを、どんな罪や問題や血筋や素性があろうとも関係なく、神の家族に迎えてくださいます[8]。しかしそれがゴールではありません。イエスが生涯で語られていたのは、神に愛された者として生きる生き方、思いそのものでした。神を忘れて、妬みや恐れやプライドに生きるあり方を深く憐れまれて、神の子どもとしての生き方を示してくださったのです。
イエスは、私たちが憐れみに基づいて生きるべきだと宣言されます。ただ善行を命じたのではなく、私たちの具体的な生き方や言葉や考え方を、神の憐れみと支配によって潤したいのです。恵みの神を信じる者らしい、本当に自由で、伸びやかで、謙虚で陰日向ないものとしたいのです。罪の赦しや永遠の命や御自身への信仰とか伝道活動よりも、今私たちがここで、本当に神の子どもらしく人と接し、誠実に語ることをイエスは示されたのです。
ここで念頭にあるのは、私たちの現実の人間関係です。貧乏人への軽蔑、互いの陰口、争い、約束破り…。それは世間では問題とも思えない日常茶飯事でした。イエスは、そういう妬みや敵対心、依怙贔屓や見せかけから救い出して、神の子どもらしく、上からの知恵を戴いて生きよと、新しい生き方を示されました。イエスを信じるとは、そのように生きることなのです。
イエスの言葉を通して、私たちは、心にある欲望や渇きや甘えに気づかされます。神を賛美しながら、心には神に対する怒りや疑いがある。それがひょっと口から毒となって飛び出す。そんな感情や思いを天の父に差し出しましょう。主が私たちに示されるのは、神の憐れみを信じ、見せかけをやめて、恵みによって生きる者となる道です。そして、ヤコブ書はそういう恵みは私たちに手が届くものだとハッキリ教えています[9]。差別せず、口で呪わず、富や地位に思い上がらず、病人のために、間違った人のために祈り、迷った人を連れ戻す生き方は皆さんのそばにあるのです。完璧には無理です。私たちは弱く不完全です。だからこそ、イエスは私たちに天にいます私たちの父を信じさせてくださいました。神を信じる、分け隔てのない見せかけでない生き方を求めなさい。それが現実である事を覚えさせてくれるヤコブ書です。
「憐れみ深く大いなる、そして私たちの父なる神様。主イエスが私たちに求められた、神の前に生きる生き方を、本当に自由で、重荷を下ろして、傲慢を砕かれた心を、どうぞ私どもに強いてでもお与えください。普段の生活の隅々にも、心の妬みや疑いにも目を配って下さり、差別や争いを恥じ、私たち自身が癒やされ、ともに歩むにはどうしたら良いかを教えてください」
[1] 他にも、「17それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」「22あなたの観ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、…24人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。」「26たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」
[2] パウロの書簡のあちこちに書かれている通りです。たとえば、エペソ書二章8節「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によってすくわれたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。9行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」、また、ガラテヤ書二章16-21節、ローマ三章21-31節、など。
[3] これはルターとカトリック教会とが議論したことからすると、信仰義認には都合が悪い文章に思えます。ルターにとっては不利な言葉で、カトリック教会が喜ぶような言葉なのです。だから「藁の書」と言った。そのエピソードだけが一人歩きして強調されてしまって、「ヤコブ書は律法的だ、人間の行いばかり主張して、恵まれない」と思われているふしもあるようです。
[4] 山上の説教との類似:一2(マタイ五10-12)、一4(五48)、一5、五15(七7-12)、一9(五3)、一19-20(五22)、二13(五7、六14)、二14-16(七21-23)、三17-18(五9)、四4(六24)、四10(五3-4)、四11(七1-2)、五2-3(六19)、五10(五12)、五12(五33-37)
[5] ヤコブ書が書かれたのは、紀元五〇年のエルサレム会議の前とされています。エルサレム会議(使徒一五章)の決定が反映されていないからです。興味深いことに、エルサレム会議では、割礼や律法の遵守などの行いも必要とするユダヤ主義クリスチャンと、異邦人は割礼を受けなくても救われるとするパウロたちの理解を巡って、信仰義認が決定されるのですが、ユダヤ人宛に書いたヤコブ書が、「行いではなく信仰によって救われる」か「行いも必要か」という二分法ではなく、「行いが信仰と一致していない」というアプローチで、偽善を暴露しているのです。また、ヤコブ書の宛先が、迫害によって散らされたキリスト者ユダヤ人たちであったとすれば、迫害にも耐えて信仰に留まっていながら、貧富の差別や悪口など、人間関係レベルでは甚だ思い上がったものになっていた、という事情もうかがえてきます。
[6] ヤコブ書三1-12。
[7] ヤコブ書一26。
[8] でもイエスは、私たちが神の家族に入ればいいとは考えません。イエスが語られた「神の国の福音」は「ただ信じなさい。罪の赦しを戴きなさい」、せいぜい、「そういう有り難い救いの約束を伝道しなさい」ではありませんでした。
[9] ヤコブ書五12。
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