聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカ二四章36~43節「イエスは魚を食べられた」

2016-02-14 16:24:28 | ルカ

2016/02/14 ルカ二四章36~43節「イエスは魚を食べられた」

 

 「無くて七癖」と言いますが、皆さんは鯛焼きをどっちから食べますか。頭か尻尾か、お腹か、抑(そもそ)も鯛焼きは嫌いか。鯛焼きと言わず本物の魚でも何でも、食べ方に性格とかその人の為人(ひととなり)は現れるのでしょう。自分の食事にはどんな癖があるんだろうと恥ずかしくなります。

 今日の箇所で、イエスは最後に焼き魚を一切れ召し上がりました[1]。これは、イエスがよみがえられた日の夜の事でした。ルカによれば、復活されたイエスが弟子たちと逢ったのは、この前の二人の弟子たちとシモン・ペテロが先で、その後、全員の前にお姿を現されたのは、この箇所が最初でした。弟子たちが、イエスのよみがえりが本当らしいと、色めき立っている所に、イエスが突然現れて、弟子たちの真ん中に立たれた、というのです。しかし、

37彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。

 彼らは主のよみがえりを受け入れていたのです[2]。それでもイエスを見た時、それが霊であればまだ信じられたのです。声を聞き、手や足を見せ、触らせられても、実感が湧きません。それは不信仰というよりも、嬉しさの余りでした。嬉しすぎて信じられない。そこでイエスがなさったのが、食べ物があるか尋ね、魚を取って召し上がるパフォーマンスだったのです。

 イエスは「信じないとは何事だ」と、不信仰を責めはなさいません。また、先に二人の弟子の前からは忽然(こつぜん)と消えて、ここではいきなり真ん中に立たれて驚かされましたが、もう一度「瞬間移動」するとか、奇蹟でビックリさせるとかもなさいませんでした。墓でよみがえりを告げ知らせた二人の人(御使い)は眩(まばゆ)いばかりの衣を着ていたのですから、よみがえったイエスご自身も眩い栄光を見せて弟子たちを圧倒させることも出来たでしょう[3]。しかし、ここでイエスはそういう威圧的な方法ではなく、ご自分の手と足を見せられ、肉と骨とがあることを語り、それでも信じられなければ、そこにあった焼き魚を召し上がったのです。復活は、確かに超自然的で、栄光のお体ではありましたが、特別で尋常ならぬ遠い存在になられたのではなく、本当に見たり触ったり出来て、食べ物を食べたり、その食べ方を見ればイエスだと分かるような、そんな実に温かい、限りなく親しみをもてるようなお体だったのです。

 37節の

「霊を見ているのだと思った」

とは、思い込んだ、そう見えたという言葉で、ギリシャ語では「ドケオー」と言います。同じ言葉で、イエスも本当に肉体を取られたのではなく、そう見えた(ドケオー)だけだ、という考え方が一世紀には起きていました。そう考える異端を「仮現説」と訳していますが、ドケオーから取って「ドケチズム」と言います。その根底には、私たちの体、肉や骨、傷や苦しみがあったり、食べたり労苦したりする、世界の営みには価値がない、という考え方です。見える世界を軽視する考え方です。こういう考え方に対して、キリスト教は、天地を創造された神や、マリヤの胎から生まれたキリストを告白し、よみがえったイエスへの信仰を宣言しました[4]。「ドケチズム」は間違っているとしました。今日のルカの福音書も、まさしく、イエスが、手や足、肉や骨があり、魚を食べた方であったことを記しています。よみがえられた体は、消えたり現れたり出来る「栄光の体」ですけれど、同時にその手や足はイエスの手や足でした。弟子たちが触(さわ)れるお方、弟子たちと同じように、手や足、肉や骨を持ち、魚やパンを食べられた方の、そのままの復活でした。その差し出された手と足には釘の痛々しい跡があったでしょう[5]。しかし、その傷こそイエスのしるしでした。

39…まさしくわたしです[エゴー・エイミー][6]。わたしにさわって、よく見なさい。…

 その傷つかれた手と足こそ、イエスご自身を示すものでした。その傷は、イエスのよみがえりが、霊や幻や別世界の事ではないことを示しました。イエスは弟子たちの所に来られ、その手や足、傷を見ればイエスだと分かるお方として来られ、その仕上げに魚を食べて、本当に弟子たちと共に生き、食べ、傷つかれたあの生身のイエスである事を示されたのです[7]

 イエスは、霊や幻や、超人的な存在としてではなく、傷ついた体や、魚を食べる様子をもってご自分を証しされました。それと同じように、やがて私たちも、今の生涯で体に刻まれ、染みついてきた癖や傷など、すべての特徴を持ってよみがえるのです。「まさしく私です」「まさしく○○さんだ」と言われるような復活なのです。有り難くない傷もあるでしょう。直したい癖も、消えて欲しい皺もあるでしょう。しかしやっぱり私たちの体や魂に刻み付いたものこそ、「私らしさ」ですし「まさしく○○さん」なのですね。そういう人生の形跡が綺麗さっぱりなくなるなら、誰が誰だか分かりません[8]。私たちはその自分の恥や傷を、人に見せたくなくて隠したがりますが、神様の目には隠せません。そして、何を隠したがるかこそ、私たちの心の姿を現している私たちの正体です。それもまた、私たちの人生の物語を綴っているのです。そして、主イエスは、そうした私たちの見える傷から、自分でも忘れてしまうほど深くにしまい込んだ痛みのために、ご自身がこの世に来られ、十字架にかかってまで苦しみを負ってくださいました。主イエスの手足の十字架の後は、私たちの見える痛みも見えない染みも全てを主が引き受けて下さった傷です。私たちの痛みや絶望が、赦しや恵みや希望に変えられていく接点です。今は苦しく、引きつる部分でこそ、主と出会い、恵みを味わうのです。私たちの痛みは、隠したい恥ではなくかけがえのない物語として、自分自身の一部となるのです。私たちは、傷を隠したり恥じたり、自己憐憫したりもせず、主の赦しと癒やしを頂きながら、分かち合い、受け止め合い、差し出し合うようにと招かれているのです。

 『精神障害と教会』という本を読みました[9]。北海道の過疎地の教会で始まった「浦河べてるの家」の向谷地生良さんが書かれたすばらしい本です。統合失調症や双極性障害、様々な障害を抱えた方が半分以上という教会で、

「地域の中でもっとも困難を強いられている人たちの現実を、教会の現実として共に苦しむ」

というのです。確かに大変で苦しいことですが、問題のある人たちを何とか直してやろう、早く解決して普通にしよう、ではなく、その人の人生や社会の歪みや色々なものがギュッと凝縮された障害を簡単に考えない。その病気を通して人と繋がり、自分を見つめるきっかけになる。回復しようとする深い力を信じ、ともに回復するのだ。こうした苦労と悩みは「負の問題」ではなく

「宝、たくさんの恵み」

だ。障害や傷がある人が、そのままに集まれることにこそ、教会の本来の姿があると問われ、教えられました。

 イエスはまさに人となられました。その傷を、恩着せがましく押しつけたりせず、弟子たちにご自身の痛みを見せてくださいました。驚き恐れ、まだ信じられない不完全な弟子たちに、失望も説教もされず、その前で、傷ついた手で魚をとり、そしてきっと美味しそうに、その魚を平らげなさいました。それは、何と楽しげなお姿でしょう。ここにこそ、まさしくイエスが現されています。イエスは、恐れ疑う弟子たちに喜びの中におられます。傷つき不完全な私たちとともに傷を知る方としておられるお方です。私たちの、この地上の痛みも含めて、他の誰でもない、傷も癖もあるがままの「まさしく私」として回復してくださいます。

 

「主よ。御手と御足の傷こそ、あなたがあなたである尊いしるしでした。そのあなたが、傷や欠けだらけの私たちをもよみがえらせ、まさしく私として、永遠のいのちを下さる、その約束を感謝します。今すでに、あなたの癒やしと回復へ、希望と喜びへと招かれ、飾らない交わりを始めてくださいます。慰め主なる主がおられる幸いな交わりを、ここにも育ててください」



[1] 「魚」五6、9(ガリラヤの大漁の奇蹟)、九13、16(五つのパンと二匹の魚)、十一11(魚を求めるのに蛇を)「魚」というギリシャ語は、後々、キリスト教会の基本的信仰を指す言葉として用いられます。しかし、もしここでルカが、イエスが魚を食べたことにシンボリックな意味を持たそうとしたのであれば、続編の「使徒の働き」にも魚がもっとたくさん出て来そうですが、この箇所がルカ文書での魚の登場は最後です。当時の一般的な食べ物であり、それをイエスが食べられた、という意味はもっと掘り下げても良いでしょうが、魚そのものに象徴や寓意を読むことは無意味です。

[2] 34節「「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。」

[3] 実際、ルカ九29では「…御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。」という「栄光」(同32節)を見せたこともあったのです。

[4] 特に「使徒信条」は、このような「ドケチズム」も含めた「グノーシス主義」という霊肉二元論への反対を意識した内容になっています。

[5] ヨハネ二〇25以下のエピソードでは、疑うトマスが「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言いますが、後日イエスが現れた時、トマスに「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と仰ったことが書かれています。

[6] この「エゴー・エイミー」は、ヨハネの福音書で七回繰り返される重要なキーワードとして有名なギリシャ語です。その元には、神が「わたしは「わたしはある」という者である」(出エジプト記三14)と言われた宣言があります。ここには、ヨハネにおいて展開・発展させられていく、イエスの独自性の宣言が垣間見えます。

[7] 後に弟子のヨハネは、第一の手紙をこう書き出しました。「Ⅰヨハネ一1初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、」

[8]私たちの傷や皺(しわ)も、私たちがどのような生き方をしてきたかが形になっているのです。勿論、私たちの傷はある意味では癒やされているでしょう。イエスの十字架の釘跡も、もう血を流したり、痛んで立つことも出来かったりするようなダメージはありませんでした。私たちの傷も、もう悲しみや恥ではなくなります。癒やされて、慰められて、だからこそ私たちの地上の人生を刻んできたすべての道筋は、かけがえのないその人の「しるし」として永遠に残るのです。ただの美しさとか外見の格好悪さとか、そういう意味ではありません。むしろ、見た目や自分の楽や得を気にせずに、他者のために労した手や、微笑みを浮かべたり泣いたりして刻まれてきた皺、曲がった手や背中は、神の愛の前にどんなに美しいことでしょう。最も悲惨で痛ましいイエスの十字架が、この時には信じられないほどの喜びをもたらしたように、よみがえりは私たちの美や価値の基準も一新するのです。

[9] 向谷地生良『精神障害と教会』、いのちのことば社、2015年。

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