goo blog サービス終了のお知らせ 

聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/8/1 出エジプト記2-3章「逃げるモーセ」こども聖書㉔

2021-07-31 12:15:58 | こども聖書
2021/8/1 出エジプト記2-3章「逃げるモーセ」こども聖書㉔

 前回から、モーセのことをお話ししています。紀元前16世紀、キリストの時代の1500年以上前の時代です。その時、モーセはエジプトにいました。モーセの先祖、ヤコブの家族がエジプトにやって来て、大きな民族になっていき、エジプトの王が彼らイスラエル民族を奴隷として苦しめていた時代でした。モーセは、不思議にも命を救い出されましたが、その後、大きくなってからも、モーセの人生は波乱続きでした。
出エジプト記2:11こうして日がたち、モーセは大人になった。彼は同胞たちのところへ出て行き、その苦役を見た。そして、自分の同胞であるヘブル人の一人を、一人のエジプト人が打っているのを見た。12彼は当たりを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺し、砂の中に埋めた。
 モーセは、エジプト人に苦しめられている仲間のヘブル人を見て、我慢できませんでした。誰も見ていないのを確かめて殺したのです。しかし次の日、彼が見たのは、
13次の日、また外に出てみると、見よ、二人のヘブル人が争っていた。モーセは、悪いほうに「どうして自分の仲間を打つのか」と言った。14彼は言った。「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。おまえは、あのエジプト人を殺したように、私も殺そうというのか。」…
 誰も見ていなかったはずなのに、どうして知られたのでしょう? 簡単ですね、助けた人がいたんですから、誰も見ていないわけがありません。そして、エジプト人だけが悪いのではなく、ヘブル人も争い、仲間を打ちたたいていました。だから、モーセがこっそりヘブル人を助けたら、全てが上手く行くなんて単純なことではなかったのです。

 だからモーセは逃げなければならなくなりました。砂漠を越えて荒野に行きました。そこでモーセはミディアン人の家族に出会って、結婚し、羊飼いとなりました。そして、四十年が絶ちました。モーセは80歳! もうエジプトから離れた時間の方が長くなってきた頃、またまた神様は、モーセの人生を大きく変えられたのです。
 3:1モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。2すると主の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。3モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」
 こうして近づこうとしたモーセに、主は語りかけました。
4…神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。5神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」

 モーセはびっくりして、顔を隠して、平伏します。
 主はモーセに語り続けます。

7…「わたしはエジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。8わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に…彼らを導き上るためである。

 こう仰った主は、今度はモーセに言われます。

9今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。10今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。

 40年もエジプトから遠く離れて、羊を飼って生活していたモーセには、びっくりの話です。また、エジプトを40年前に離れたのは、自分が仲間を助けようとして失敗したからです。苦い思い出がよみがえります。とてもエジプトに行く気にはなれません。

11モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」

 その通りですね。私たちだって、こんなことを言われたら戸惑うでしょう。

12神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。…

 わたしがあなたとともにいる。全然、モーセの質問、「私はいったい何者なのでしょう」の答えになっていませんね。だからモーセは続けてこう聞いて食い下がります。
13…今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」

 すると神は先ほどの、答えにならない答えと同じことを仰います。

14神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。…『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」

 神は、わたしはあるわたしはともにいるそれがわたし(神)だ、と仰います。
 私たちがどこにいても、神はともにおられます。神がおられない場所などありません。どんな所でも、そこで「わたしはある」と言われる。それが神です。モーセがエジプトにいても、そこから逃げてミディアンにいても、神はともにおられます。ヘブル人が苦しみに叫んでいた時も、神はともにおられ、時至って、今彼らを救い出そうとされています。
 エジプトでは、神のように権力を振るって、人を奴隷にして苦しめていたのは、王ファラオでした。モーセがファラオの所に行っても、ファラオは耳を貸そうとせず、ますますイスラエル人を苦しめます。神など、追い払えると思ったのです。しかし、ファラオも人間です。神ではありません。いつでもどこでも、そこにいるのは神であって、人間は神を追い出すことは出来ません。この神だけが、「ともにいます」というお方で、今もこれからも私たちとともにおられるのです。その神だけが神であることを、私たちは証しするように、ここから遣わされます。これ以外に答えや理由はないのです。

「ともにおられる神様。あなたは、いつも私たちとともにおられ、どこででもそこからあなたの業を始められます。あなたが見えない時、あなたを忘れる時、あなたを拒む時もあなたがおられることは決して動くことがありません。どうぞ私たちとともにいて、私たちを強めて、全ての人があなたとともに歩む喜びに生きるため、用いてください」
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2021/7/25 出エジプト記1-2... | トップ | 2021/8/1 ローマ人への手紙1... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

こども聖書」カテゴリの最新記事