聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカ18章18~30節「天に宝を積む生き方」

2014-09-06 18:50:24 | ルカ

2014/08/31 ルカ18章18~30節「天に宝を積む生き方」(#336)

 

 今日の箇所、取り分け、最初の部分は、今までルカの福音書を読んでこられた方々にとっては、難しくなく読めることではないかと思います。

18…ある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

 永遠のいのちを神様から戴くために、何をしたらいいのか。これは、ルカの福音書で、何度も出て来た問です[1]。そして、イエス様が今まで教えてこられたのは、何をしたらとか、人よりも正しく立派に生きてきたからとか、自分の側の「資格」を追い求めても神様に認めて戴くことは出来ない、という真理でした。私たちが相応しいかどうかではないのです。ただ神様の憐れみに与って、幼子のように神の国を求める者に、神は目を留めてくださる、のでした。

 ですから、ここでこのお役人が、イエス様の20節のお答えに対して、

21…「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」

と答えましたのも、イエス様の教えとは向いている方向が違うのです[2]。彼らなりの理解、守れる程度に引き下げた甘い理解の中で、神様の戒めを守っていると胸を張ります。けれどもそれは、聖書の律法の字面だけを追うことでした。それは、イエス様が22節で、

22…その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

と言われた時の彼の反応で、明らかになります。

23すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。

 20節でイエス様は、人間関係についての律法を挙げられますが、その根本にあるのは、隣人を自分のように愛せよ、という戒めです。引いては、神ご自身を愛すること、神を(神だけを)恐れ、愛し、礼拝することが、神様の律法の根幹です。このお役人が、財産を売り払い、手放すなら、天に宝を積むと言われたのは、今までは天に宝を積まず、自分のために生きてきたからです。施しをしたら永遠のいのちを得られる、という意味ではありません。彼の生き方そのものが、天ではなく、自分の財産を見ていたのです。その財産の上に、永遠のいのちも自分のものとするにはどうしたらいいかと考えていただけです。まず、見るべき所を変えようとイエス様は招かれます。そして、天に宝を積む生き方に方向転換した上で、

 わたしについて来なさい。

と仰るのです。それが、永遠のいのちを得ること、神の国に入ることです。イエス様について行くこと、イエス様に従って生きることそのものが、永遠のいのち、神の国なのです。けれども、人はそこで、神様を信じてお任せしきることが出来ずに、立ち止まってしまいます。自分の持っているものを握りしめ、自分の側にあるものを誇ろうとしがちです。

23…非常に悲しんだ。

は、悶えたとか死ぬほどの苦しみを指す、大変強い言葉です[3]。永遠のいのちを手に入れたいと願い、清廉潔白な生活を送り、それでもなお、イエス様のもとに来て尋ねるほどの真面目な生き方をしながら、そして、イエス様のこの厳しい言葉に逆上したり抵抗したりせず、その言葉の正しさを分かりながらなお、それが出来ずに、非常に深い悲しみを覚えて、立ち尽くしているのです。でも、今日の話は、この悲しみで終わりません。

24イエスは彼を見てこう言われた。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。

25金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」

26これを聞いた人々が言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」

27イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」

 これです。今日のメッセージは。子どものように神の国を受け入れればいいのに、それが出来ない私たち。金銭や財産に望みを置かずに、ただイエス様を信じて、天に宝を積む生き方を進めばいいのに、そこで惜しみ出してしまう人間。その人間の中からは、財産を売り払って必要な人に施すことも、イエス様に従うことも、産み出せないのです。だから、私たちが努力して、少しでも頑張って、イエス様にお捧げしなければ永遠のいのちがいただけないかもしれない、などとは読まないでください。そんなことは私たちには出来ないのです。けれども、神には出来る。私たちがイエス様に従えない。色色なものが邪魔をして、いや私たち自身が二心だったり本当に神様を信じ切れなかったりしてお金やモノにしがみついてしまう。そういう私たちの悲しい、頑なな心に、神様が救いを与えてくださる。神様の恵みによって、迷い、惜しみ、虚しいものを追いかけてしまう私たちの心が、深く深く変えられながら、実際の生活においても、モノとの関わりを整えられて、天に宝を積む生き方に変えられて、イエス様に従う人生としていただける。そこに今日の箇所が語っている、私たちの望みがあるのです。

 私たちを神様から引き離すものは、不道徳とか罪もありますが、今日の所を考えていると、意外とモノの誘惑が大きいのだなぁ、と改めて気付かされます。お金や財産、テレビや趣味…。それ自体が悪いわけではなくて、必要だったり祝福だったりしても、でも人間がそれを、神様以上に大事にしてしまう。色んな宣伝が「幸せになるにはこれが必要だ」と言い切っています。ストレスが溜まると、買い物をして発散しようとすることもあります。自分が宝をどこに置いているのかは、モノと関わり、時間の使い方から分かってしまうのです。そして、イエス様は、そういう私たちの実際の生き方、ライフスタイル、価値観そのものを取り扱われて、神の国に生きるように変えてくださるお方なのです。

 28節で、ペテロが、自分たちが家を捨てて従って来たことを誇った時、イエス様は、

30…この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。

と仰います。捨てたものを幾倍にして余りある恵みをくださり、後の世では永遠のいのちを約束されます。それでも、私たちが捨てたものをいつまでも惜しみ、数えることは出来るでしょう。無いものを愚痴り、損することを嫌う心-そういう心そのものを変えて、本当に主に信頼して、自分でもモノでもなくただキリストに信頼する者とするのが主の御力です。私たちの心と生活を、恵みによって新しくなさるのです。時には奪われ、失って、深く悲しむしか出来ないとしても、それでもイエス様に従わせていただきたい。最後には、とてもシンプルな人生だったけれども、失ったものとは比べものにならない祝福だったと、心から言わせていただける。そういう歩みを下さる神を仰いで、持っているものも自分自身も差し出していたいのです。

 

「主よ。あなたには出来ないことはありません。私たちが自分の生活を整えてあなた様に従うこと、この世のものならぬあなた様の恵みと祝福に満たされ、証しすること-これもまた、御業と信じて、期待します。モノや虚しい惑わしから救われて、全能のあなた様に従う喜びを、そして教会の交わりや様々な尊い贈り物を味わい、潤され、命の道を歩む者としてください」



[1] 十25「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」など。

[2] この「小さい時から」というのも、当時のユダヤ教的な理解で、物心ついた頃から、というような甘い限定ですが。

[3] マタイ二六38(マルコ十四34)「そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。…」、マルコ六26「王は非常に心を痛めたが、…」


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