聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/12/5 マタイ伝26章31~35節「つまずきの先で待つ主」

2021-12-04 00:55:30 | マタイの福音書講解
2021/12/5 マタイ伝26章31~35節「つまずきの先で待つ主」[1]

 30節まで「最後の晩餐」があって、そこからエルサレムから1kmほどのオリーブ山に向かいました。ちょうど満月の頃ですから、月明かりに照らされた夜道だったかもしれません。

31そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。
32しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」

 この後もう半日もせずに十字架にかけられる時です。その迫る出来事を見通した上で、イエスは弟子たちもまもなくそのご自分の逮捕や有罪宣告を見て、躓くことを予告されたのです。
 これは決して恨みがましく、非難して言われた台詞ではありません。また、こうは言っても、躓かず、出来れば頑張って、イエスへの忠誠を貫くよう期待された警告でもありません。そんな頑張りなど通用しない出来事が、まもなく起こるのです。イエスが捕らえられて、十字架に殺される。神の子、救い主、愛するキリストと信じて従って来た方が、神を冒涜する者として捉えられて、最悪の呪わしい処刑方法の十字架に殺される。それは弟子たちにとって、到底受け入れがたい出来事です。そこには弟子たちが躓いて、散らされる事、弟子たちが自分のプライドとか自信を砕かれる事も含まれているのです。だからこそ、ここでイエスは、
32しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。
と一息に仰ったのですね。あなたがたは躓くけれど、わたしはよみがえらされて[2]、あなたがたより先にガリラヤに行く。あなたがたの故郷、一緒に過ごしたガリラヤに先に行っている。

33すると、ペテロがイエスに答えた。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」

 聞き捨てなりません、私は躓かない、あなたから離れたりあなたに失望したりしない、そうでしょう。こう言う私を誇りに思ってほしい。あなたを見捨てるような弱い人間だなんて見損なわないでください、私もそんな自分だなんて嫌です、と言わんばかりです。すると、

34イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」

 鶏は夜明け前に鳴きますから、ホントに今夜、暗いうちにということです。これだって、ペテロの自信を挫(くじ)くために冷たく言ったのではなく、温かく諭すお言葉だったでしょう。でも、

35ペテロは言った。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った。[3]

 ペテロだけでなく、弟子たち全員が自分は躓きません、一緒に殺されてもあなたを知らないなんて言いません、と言い張ったのです。でも、実際はやはり、この後、弟子たちは皆躓いて散り散りになり、ペテロは鶏が鳴く前に三度、イエスを知らないと言います。しかし、それで終わりではないのです。その後、イエスは葬れた後よみがえり、弟子たちより先にガリラヤへ行って、弟子たちを待っておられた。そこで弟子たちがイエスにお会いする。そして、その弟子たちをイエスが派遣される。その派遣の言葉をもってこのマタイの福音書は結ばれるのです。

 ペテロも弟子たちも、そして私たちも、自分の弱さや限界は認めたくないものです。躓きという言葉はスキャンダルの元になった言葉です[4]。「自分の人生にスキャンダルはあってはならない。イエス様だって私の生活に傷や汚点が少しでもあれば失望されるだろう」と考えているものでしょう。しかしイエスは、私たちの限界や現実をご存じです。神は、私たちには絶えきれない禍を時にお許しになります。堪えきれず、躓いたり離れたりする時もある。私たちの心にある闇、人生の夜をご存じです。マタイはこの会話をエルサレムからオリーブ山に出かける月夜の途中に置きます[5]。夜は、私たちが、昼間には隠れて気づかない自分が現れる時間です。イエスはそこにこそ触れられます。私たちの隠れた闇をこそイエスは知っておられ、そここそ、私たちと神との出会う場となります。自分では認めたくない、死んでもそんな自分では嫌だった自分を、イエスは知っておられ、受け止めておられ、その私たちの躓きの先で待っておられる。そう知って初めて、私たちのために死んでよみがえられたイエスに出会うのです。

 クリスマスは光のお祭りでもありますが、夜の祭りでもありますね。燭火礼拝やキャロリングは、夜に集まって、キャンドルを点すのが嬉しいのです。この世界の夜にキリストの星が現れた。夜番をしている羊飼いに、御使いが輝いてキリストの誕生を告げた。弟子たちの威勢の良さが尽きて、躓こうとしていた夜に、キリストは将来、先に待っていることを告げられた。教会が夜の思いをする時も、そこでこそ私たちのために死なれて甦った主が出会ってくださる。そこで私たちは、何度でも主に強められて、弱さや躓きを認めながら歩むことが出来るのです。

 31節の引用は、ゼカリヤ書13章7節です[6]。ゼカリヤ書当時の、民の問題を非難しながら、指導者(羊飼い)を打ち、民も散らされると預言していました[7]。しかし、その後に続くのは、残された人々のことを主が

9…銀を錬るように彼らを錬り、金を試すように彼らを試す。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『主は私の神』と言う。

と仰った約束です[8]。躓きを通しても民の心を練り清め、深く取り扱って、心から主を「私の神」と呼ぶように導いてくださる。そういう約束をするゼカリヤ書には「夕暮れ時に光がある」(14:7)という言葉があります。夕暮れて暗くなる一方の時にも、なお主の光がある。それもまた、クリスマスと復活を通して、私たちが確信できる言葉です。[9]

 人や教会や神への願い以上に、自分がこうありたい姿が砕かれる体験はとても辛いものです。けれども主は、そういう私たちの全てをもご存じです。神は私たちの願うよりももっと深く、もっと大きく、私の神です。クリスマスも十字架もその事をはっきり見せてくれ、今もこの主が私の主、教会の主でいてくださる[10]。その主に立ち戻る度に、私たちの心は鎧を脱がされて、深く変えられます。そしてこの私たちを待っていてくださる主に導かれて、歩み出せるのです。

「闇に来られた光なる主。あなたは私たちの闇も現実もご存じです。光や力も、あなたからのものに他なりません。躓き、打ちのめされて恥じ入る時も、あなたは私たちを決して恥じることなく、力づけて再び立ち上がらせたまいます。その恵みこそ、教会の原点です。小さな私たちを先立って受け止め、慰めてくださる主を、素直な喜びをもって証しさせてください。闇の中にそっと来られた主が、そのあなたの光の子として今日も私たちを派遣してください。」

[1] アドベントの今週と来週も、マタイの福音書の続きをともに読みます。クリスマスと受難週、飼葉桶と十字架は切り離せない繋がりがあります。この十字架に向かうイエスと弟子たちの姿を読みながら、クリスマスに向かう私たちの心に、主の光を点して戴きたいのです。

[2] この「よみがえる」は受動態です。イエスの復活は、動詞の場合、常に受動態で表現され、イエス自らの力によって「よみがえった」のではなく、神が「よみがえらせた」御業です。それゆえ、私たちも、神が「よみがえらせてくださる」と信じることが出来るのです。

[3] イエスの言葉は、責めたり辱めたりする口調ではなかったけれども、ペテロはそれを屈辱と受け止めたのでしょう。「そんな自分ではありたくない」のです。しかし、そんな自分の認めたくない大失敗を晒した時、それでも主は私を愛し、私を支え、私とともに歩んでくださいます。私を恥じることなく、何度でも立たせてくださることをペテロも知り、この記事や自分の体験を通して、私たちもそれを知るのです。まさにルカの福音書でイエスがペテロに仰った通りです。ルカ22章32節「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

[4] ギリシア語スカンダリゾー(動詞)。

[5] ルカの平行記事では、この会話は最後の晩餐の席で(22:31-38)。マタイとマルコ(14:27-31)は、これをゲッセマネへの道中に置きます。どちらが事実かは諸説ありますが、それぞれの意図を汲みたいと思います。

[6] ゼカリヤ書13章7~9節の一段落は以下の通り:「剣よ、目覚めよ。わたしの羊飼いに向かい、わたしの仲間に向かえ──万軍の主のことば──。羊飼いを打て。すると、羊の群れは散らされて行き、わたしは、この手を小さい者たちに向ける。8全地はこうなる──主のことば──。その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。9わたしはその三分の一を火の中に入れ、銀を錬るように彼らを錬り、金を試すように彼らを試す。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『主は私の神』と言う。」

[7] その「羊飼い」は文脈からは唐突な登場ですし、10:2-3(テラフィムは不法を語り、占い師は偽りを見る。夢見る者は意味のないことを語り、空しい慰めを与える。それゆえ、人々は羊のようにさまよい、羊飼いがいないので苦しむ。3「わたしの怒りは羊飼いたちに向かって燃える。わたしは雄やぎを罰する。」万軍の主は、ご自分の群れであるユダの家を訪れ、彼らを戦場の威厳ある馬とされる。)からして、メシア預言というよりも、民の指導者を打つ、と取るのが自然の流れでしょう。その言葉をイエスは引用しながら、その打たれる指導者(羊飼い)と自らがなって打たれて下さり、そこから先の希望を語っておられるのでしょう。神は、語られた言葉の厳しさを、自らに引き受けてくださり、その痛みをともにしつつ、その先の回復を先導してくださいます。

[8] これに続いて、ゼカリヤ書14:4「その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山はその真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ、残りの半分は南へ移る。5「山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたはわたしの山々の谷に逃げる。ユダの王ウジヤの時に地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げる。」私の神、主が来られる。すべての聖なる者たちも、主とともに来る。6その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。7これはただ一つの日であり、その日は主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に光がある。8その日には、エルサレムからいのちの水が流れ出る。その半分は東の海に、残りの半分は西の海に向かい、夏にも冬にも、それは流れる。9主は地のすべてを治める王となられる。その日には、主は唯一となられ、御名も唯一となる。」

[9] 詳しくは、以前の一書説教、「ゼカリヤ書 夕暮れ時に光がある」ゼカリヤ書14章4-11節をご参考ください。聖書プロジェクトのゼカリヤ書 Zechariahもぜひ。

[10] つまずき倒れても、まだ先がある 日本キリスト改革派関キリスト教会 橋谷英徳氏説教


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