聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

「礼拝⑬ 神の意志と計画」マタイ7章21-27節

2017-03-06 10:40:37 | シリーズ礼拝

2017/3/5 「礼拝⑬ 神の意志と計画」マタイ7章21-27節

1.「御心の天になる如く、地にも為させ給え」

 この「主の祈り」の第三祈願を祈る時、皆さんはどんなことを考えているでしょうか。私は随分長い間、「天では争いや禍がないように、地でも悪いことや嫌なことがありませんように」という思いで祈っていました。自分にとっての願わしい状況に引き寄せて「御心」ということを考えていたのです。第一祈願と第二祈願でお話ししたようにこの「御心」とは

「天にいます私たちの父」

の「心・御意志」という意味です。第一祈願、第二祈願と同じように、私たちはこの祈りをする時に、

「私の願いではなく、あなたがよいと思われることをなしてください。私の思うようにではなく、あなたのご計画の通りになりますように」

と言うことになります。言わば、天において行われているのも、私たちが願うような平和で温々とした心地よいことではなく、天にいます私たちの父の御心が行われているのです。キリスト者の祈りは、自分の楽や降伏や願いを神に要求する祈りではありません。自分のちっぽけで浅い願いよりも、神の大きなご計画やお考え、天の父の思いに信頼し、明け渡す。そういう祈りだ、という素晴らしい意味に、私は段々と気づかされています[1]。勿論それは、自分の願いを押し殺し、諦めて、神の御心に降伏する、というような詰まらないことではありません。自分が見えている事、精一杯考えていることよりも遙かに深く、比べものにならないほど素晴らしい神のお考えに、私たちが心から信頼して、自分の願いも、自分自身も、その御心にお任せして従うことです。[2]

 でも、多くの方は心配するのではないでしょうか。自分の願いや思いを捧げて、神の願いに従うだなんて、危なくはないのだろうか。何か、神の操り人形やロボットになろうとするかのような、危険な宗教ではないのか。確かにそうです。そういう危険は教会こそ十分警戒しなければなりません。私たちは、聖書を通して、神の御心がどのようなものであるかを丁寧に学び続けて行くことが出来ます。そして、聖書を通して私たちは、神の御心が私たちの考えがちなものとは全く違う、驚くばかりの憐れみに満ちた御心だと知ります。私たちが神の名前や真理を掲げて、絶対服従を要求すること自体、神の御心とは違うのだと、聖書は教えています。そればかりか、今日読みましたマタイ七章では、不思議な最後の大逆転が言われていました。

マタイ七21わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

22その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』

23しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

2.あわれみの御心

 この七章21節は、マタイ六章10節の「主の祈り」の

「御心が天で行われるように地でも行われますように」

の後に初めて出て来る「御心」の箇所です[3]。勿論、「御心」という言葉は使わなくても五章から七章の「山上の説教」全体が神の御心を現しています[4]。でもその最後にもう一度

「天におられる父の御心を行う者が天の御国に入るのです」

と念を押すように書いている時に、私たちはどれほど神の御心を誤解しやすいかを思うのですね。ここでイエスはハッキリ、主の御名によって言葉を語るとか悪霊追い出しや奇蹟など力強い業を行ってさえ、それが「御心を行う」ことではないと明言なさいます。そういう人は大勢いると言われます[5]。熱心に主の御名を呼び、自分では御国に入れるものと疑わないのです。御心を行っていると疑わないのです。でも、そこに勘違いがあります。なぜなら、自分が御心を行い、あれこれの正しい伝道、華々しい活動をしてきたから、だから自分は神の御国に入る権利がある。そう主張するのは、神の憐れみではなく、自分を誇ることです。神の恵みではなく、自分の信仰や行為に信頼を置いているのです。そんなあり方は御心ではない、とイエスはハッキリと仰るのです。

 厳しい言葉です。だからこそ、私たちの心にシッカリと神の御心を刻みましょう。神は私たちにもっと何か努力せよ、自分の期待に応えよと求めたり、出来ない私に呆れたり失望したりしておられるお方ではないのです。自分の願いが叶わないのは自分の信仰が足りないからだとか、人に対してもそのような基準で裁いたりするとしたら、それ自体が、天の父の御心を全く誤解したあり方です。それは、天の父との関係も不健全にしますし、人との関係も傷つけます。

 この「山上の説教」の最初にイエスは何と仰ったでしょうか。

五3心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

 これは神の深い憐れみです。自分の心に何もないと嘆く者に天の御国を与えてくださるのが神の御心です。同じ山上の説教の最後に出て来たあの人たちが主張したのは何でしょう。自分は預言や奇蹟をしてきたから神の国に入る権利がある-自分は貧しくない、という自己主張でした。そこには神の深い愛への感謝が欠けています。自分のプライド、人より勝っていたいという思いを神の御名によって貫いただけです。そんな生き方を神は求めておられないのです。

3.「天にいます私たちの父」の御心

 神は憐れみ深く、三位一体の中に永遠の愛を輝かせておられるお方です。その神の、見せかけでない、深い御心が聖書に明らかにされています。御心を明らかにするだけではありません。聖書は、神の御心が確かにこの世界になされている現実も明らかにしています。人の誤解や傲慢や悪意が勝ったように見えても、その全てを巻き込み、覆したり逆手に取ったりしながら、神の大きなご計画が果たされるのです。御心が行われていないから、

「御心が行われますように」

と祈るわけではありません。御心は確かになされる。その事を忘れがちな私たちのために、

「御心を為させ給え」

と祈るよう主は教えて、御心への信頼を取り戻させてくださるのです。

 しかし、御心への信頼だけではありません。マタイが教えるように、天にいます私たちの父の御心は、私たちもまた憐れみ深い父に倣って、憐れみ深い子どもとして成長することです。神の子どもは、天の父の心を知り、神と同じ心を持っていくのです。神は、私たちを我が子として憐れまれるだけでなく、私たちにも同じように、心から仕え、互いを受け入れ、赦し合い、慰め合い、生かし合うよう教え、育て、訓練なさるのです[6]。私たちは、ただ一方的に与えたり、優しくしたり、相手をかばい甘やかすのではありません。ともに我が儘や甘えを捨てて、神の子どもとして成長することを励まし合うのです。起きる出来事にどんな御心があるのかは分かりません。しかし、今は多くの事に御心が見えない中で、互いに思い合い、祈り合い、限界を受け入れ合って境界線を引き、みんなを巻き込んで、ともに進むことこそ、御心なのです。

 主イエスは、居心地のよい天にふんぞり返っているお方ではなく、私たちを神の子どもとするために、人間となるリスクを冒しました。それが天において行われた御心でした。御自身の命を十字架に捧げて、私たちの罪のための生贄となってくださいました。その一方的な憐れみへの感謝に溢れて、私たちは神を礼拝し、証しや奉仕を行います。それは神の憐れみを現すためですが、ひょっとするとそうしたそれ自体は善い業さえもプライドにすり替わりかねません。でも、そういう危うい私たちを、天の父は

地の塩」

とされてこの地に置き、天での御心を地になさるのです[7]。私たちが幸いや成功した時には神に感謝をし、失敗や恥をかいては謙ってまた神に感謝をし、禍や悪に対しては真剣に戦う。そういう生き方を、聖書を読みながら励まされ、砕かれ、何も誇れない自分を痛感して、ますます天の父の憐れみを仰がされます[8]。そういう私たちの歩みを通して、神が深い憐れみの御心を、尊いご計画をなして下さるのです。

「御心が、私たちの願いより遙かに尊いあなたの御心が行われますように。その確かな御心を知らせ、信頼させてください。御心は、私たちがあなたの子どもとなる、父としての御心です。どうぞその御心を私たちになし、それぞれの場で傲慢を砕かれ、あなたへの感謝と心からの信頼に歩ませてください。私たちの小さな業を祝福し、御名が崇められるよう用いてください」



[1] 諦めを込めてこう祈るのではない。私たち自身がそう願い、それを選び取っていけるようにと祈る。そうすることによって、私たちは自分の狭い殻を打ち破り、怒りや苛立ちではなく、天の父への広やかな希望、信頼、喜びに立つ。

[2] 私たち自身が積極的に神の御心にそった願いを持つようになることこそ、神の願いであることは、最も大切な戒めが「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マルコ一二30)にも明らかです。自分の意志・心・感情を押し殺して、ではないのです。判断を放棄するのではなく、悩み、熟慮し、思いを新にしていくことです。参考、ローマ十二2。

[3] マタイでの「御心(セレーマ)」は他に、十二50「父のみこころを行う者はわたしの兄弟また姉妹なのです」、十八14「小さな者のひとりが滅びることは天の父のみこころではない」、二一31「父親の心にかなうことをしたのはどちらか」、二六42「わたしの願いではなくあなたのみこころがなりますように」で用いられています。

[4] この山上の説教で見えてくるのは、隠れた所を見ておられ、憐れみ深く、善い物を下さり、心の貧しい者を幸いに入れて下さる天の父。

[5] C・S・ルイスは、「人は、神に「あなたの御心がなりますように」という人間と、神から「おまえのしたいようにせよ」と言われる人間とのどちらかになる」。

[6]五45それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。…48だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」繰り返しますがこの「完全」とは、冷たい完璧主義のような完全さではなく、憐れみにおける完全さです。

[7] 「天になるごとく地にも」の「地」は、山上の説教では「地の塩」でも用いられます。私たちが地に置かれているのは、地の塩として、私たちを通して御心が行われるため。神に愛されている者、あわれみをいただいた者として生きることが、地に対する「塩」としての働きを示す憐れみの証しとなるのです。

[8] それは今まで見てきたように、自分の名前がどう口にされるかではなく、神の御名が崇められることを何よりの喜びとして満足し、自分の支配や力への憧れを捨てて、天の父が王であられる事実に服する。そういう御心です。主の祈りという実にチャレンジングな祈りを通して私たちが変えられ、新しくされることも、主の御心がどのようなものであるかを物語っています。

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