2017/11/12 使徒の働き十一章19-30節「恵みを見る喜び」
1.「初めて、キリスト者と呼ばれるようになった」(26節)
「キリスト者」
は英語では「クリスチャン」。これをそのまま使って、私たちは「クリスチャン」と言いますが、日本語としては「キリスト者」です。その始まりは、人から
「呼ばれるようになった」
渾名でした。「あの連中は、口を開けばキリストのことだ。いっそ、キリスト者(キリスト党、キリストオタク、キリスト馬鹿)」と呼んでやれと、揶揄を込めた呼び名でした。それを弟子たちは「失礼な」と言わず、受け入れた。やはりそこに自分たちの特徴が言い当てられていると思ったのです。私たちも初々しい思いにさせられる出来事です。
19節にある
「ステパノのことから起こった迫害」
は八章の最初にあった出来事です。迫害でエルサレムから散らされたことから、サマリヤやダマスコに伝道が広がりました。その間に迫害者サウロの回心や異邦人への救いの広がりに驚かされる出来事があったのですが、ここではシリアの首都アンティオキアで教会が誕生した出来事が書かれています[1]。
そして、そこで初めて「キリスト者」と呼ばれるような特徴の集まりが出来たのです。それまで弟子たちはユダヤ人の中の一グループでした。ユダヤ人もキリストを待ち望んではいましたが、ユダヤ民族を中心にした運動でしたから、他の民族には他人事でした。キリスト者自身も、フェニキアやキプロス島、アンティオキアまで500kmも北上しながら、ユダヤ人以外の人に御言葉を語ることは思い及ばずにいました。そうした中、20節で、ある(無名の)キプロス人とクレネ人が何人か、ギリシャ語を話す人たちにも語りかけ、主イエスの福音を宣べ伝えました。この場合の
「ギリシャ語を話す人」
とは当時の共通語だったギリシャ語を話した人、普通の人という意味でしょう。ギリシャ人にも限りませんし[2]、ギリシャ語を話せるほど教養ある人でもありません。話が通じる人と会話しながら、自分の信仰を分かち合いたい、知って欲しい、と思ったのです。それは「救霊の情熱」や使命感ではなく、無名のキプロス人たちの内側からの情熱でした。「伝えなければ、信じなければ」ではなく、「伝えたい、知って欲しい、信じて欲しい」と思えたのがミソです。すると大勢が福音を信じて、主に立ち返りました。その出来事がエルサレム教会に届いて、驚きながら彼らはバルナバをアンティオキアに派遣したのです。
ユダヤの弟子や使徒にはまだまだ他民族との関係に戸惑っていました。迫害の収集も途中だったでしょう。北に逃げたあの兄弟たちはどうしたろうか、と案じていたら、何と遙か北で、無名の弟子たちが分け隔てなく福音を語って、異邦人の新しい教会が出来ちゃったという知らせが届いた。予想もしない方向から、考えもしなかった展開を聴いて驚かされた出来事でした。
2.心を堅く保ち、主にとどまっていなさい
バルナバは
「23神の恵みを見て喜んだ」
とありますがどういう事でしょうか。喜びや祝福や素晴らしい出来事や奇蹟もあったかもしれません。しかし何よりも「恵み」とは
「相手の価値によらない無償の好意」
です。こちらが相応しいからではない。もしそれが大事なら恵みとは言わないのです。「素晴らしいですね。あなたの普段の行いがよっぽどいいからですね」と私たちはつい言いがちですが、それでは「恵み」とは違うのです。普段の行いに関わらず、本当に主が良いお方で憐れみ深いから私たちを愛し、様々な良い物や慰めや回復を下さるのです。
単刀直入に言えば、ここでバルナバが見たのは本当に分け隔てのない、ユダヤ人もギリシャ人も民族を超えた集まりでした。その人たちがただ主イエスの福音を受け入れて、主イエスの福音によって一つに集まっていました。主イエスの恵みがなければ到底あり得ないような新しい共同体がありました。自分たちも待ち望んでいたメシヤ(キリスト)が来られて喜び、キリストにある新しい共同体の祝福を戴いていましたが、ユダヤ人ではない人にもその祝福が与えられていることに、本当に福音を見て、神の恵みなのだなぁと痛感した、ということでしょう。この恵みの主に留まるのが
「心を堅く保っていつも主に留まっているように」
という励ましです。主イエスの一方的な恵みによって集まったのに、いつしか恵みでないものが入り込まないよう、主ならぬものに目を奪われないよう、心を守る必要があります。民族や生まれで壁を造ったり、批判したり、居づらいような規則を持ち込まないよう、心を堅く保つのです。自分の意志や信仰の努力で、主に必死にしがみつく頑張りとは逆です。そのために、心を主に向けて祈り、力を抜いて主の恵みの中に安らぎ、静まって、主イエスの福音を味わうことが大切です。
バルナバは立派な人物で大勢の人を導く働きをしました。しかし彼はあのサウロを捜しにタルソへ行きます。反対もあったでしょう。なんと言っても19節の
「迫害」
の中心的リーダー、主犯格の一人でした。サウロにひどい目に会わされた人もいたでしょう。しかし、ステパノはそうした隠せない過去を持つサウロの再出発を願いました。ユダヤ人も異邦人も、昨日の敵(加害者と被害者)もともに、神の恵みを見る教会を考えました。恐らくタルソで一人何も出来ないでいたサウロを、アンティオキアに迎え入れ、働きの場を与えました[3]。サウロが教える能力を生かせるとともに、サウロ自身が受け入れられ、役に立ち、愛され、その共同体に神の恵みを深く実感して慰められたでしょう。そのような傷あるサウロの存在そのものを通して、そこにおれた人も多くいたでしょう。知識や立派さで集まるのでなく、普段の行いや心の闇を抱えた論外な人も、神が恵みで迎え入れてくださる、というキリストの福音を体験したのです。
3.早速の救援活動
この生まれたばかりのアンティオキア教会が、27-30節で大飢饉に襲われたユダヤの教会のために救援物資を集めて、バルナバとサウロの手に託して送ったのです。これもエルサレムの教会にとっては思いもかけない有り難いものだったでしょう。福音を伝える眼中にさえなかった人たちの教会から、救援物資が送られてきて助けられるのです。大飢饉は世界中と言われるぐらい大規模で[4]、アンティオキアも楽ではなかったでしょうに、彼らは持っているものを分かち合い、困っている貧しい人を助けました。エルサレム教会は最初から分かち合いをしていました[5]。今それが500kmも離れたアンティオキア教会との間でも実践され、自分たちが助けられる側になりました。キリストは自分たちだけでなく、他の人にも働いていた。こうして「自分はユダヤ人。彼らは何人」でなく
「私たちはキリスト者」
と呼ばれるのが一番シックリ来る。神の恵みに根差す教会、そこから離れないよう心を堅く保つ大切さを、エルサレム教会もまた改めて、アンティオキア教会からしみじみ教えられたのです。
これはエルサレム教会が計画もせず準備もしていなかった展開でした。それは、私たちが陥りやすい狭い生き方を打ち破る、新しい繋がりがあり、助け合いの始まりでした。自分たちだけで盛り上がって遠い所での大飢饉や災害に無関心、ではありませんでした。あるいは「そんな災いは異邦人を見下した傲慢への神の裁きだ」とも言いませんでした。ただ、それぞれの力に応じて、救援の物を送ることを決め、実行しました。勿論アンティオキア教会を美化や理想化したら、恵みは見えなくなります。問題はあったでしょう。初めてヘブル語聖書を知らない教会の礼拝でした。また人種の坩堝での教会形成は試行錯誤の連続だったはずです。そのここでの経験が、サウロが後々に書くローマ書やエペソ書や様々な手紙で書かれている勧めの原点なのです。人間関係への洞察、違いの受容、正直で責任ある関係作りの勧めや心構えはここで産み出されたのです。何よりその土台はキリストの恵みです。主イエスご自身が、人種や文化や言葉やあらゆる違いや、人間関係や後悔や課題を含めて集めてくださった。助け合わせてくださる。キリストの十字架の愛と復活の希望に望みを置いて集まるのです。違いも含めて、同じ
「キリスト者」
です。端からは滑稽に見えほどの、このキリストにある交わりなのです[6]。
「主よ。あなたは今に至るまで、私たちを思いもかけない形で導き、予想を超えた恵みを現されます。アンティオキアに生まれた教会のように、新しい出会いや関係、助けや励ましをどうぞ今も見せ、私たちを通して現してください。あなたご自身が十字架において恵みを与えてくださいました。いつも主を仰ぎ、主に倣い、互いを通して輝いている恵みを戴かせてください」
[1] 同時に、8章最初からの流れに戻りつつ、その間に起きた、迫害者サウロの回心という大事件も、ここにサウロが登場して絡んできますし、異邦人コルネリウスたちの救いという十章から十一章18節まで詳しくじっくりと書いてきました出来事も別の角度から裏付けるような出来事として、アンティオキアに新しい異邦人中心の教会が誕生した、という出来事が今日の箇所です。また、中心人物がペテロからサウロ(パウロ)へと徐々に移行していくことにも気がつけます。
[2] これは、「新改訳聖書」と「聖書新改訳2017」とでの変更点です。
[3] サウロがすぐアンティオキアに来たのは、タルソでの働きがすぐに離れられるような状況だったから、でしょう。ここまで数年、サウロは故郷タルソで何をして過ごしていたのでしょう。どんな思いでいたのでしょう。そこにバルナバが来て、アンティオキアでの働きに加わり、大勢の人を教え、成長に関わることで、サウロ自身どれほど慰められたことでしょう。
[4] ここに名が上げられている「クラウディウス帝」は在位が紀元41年から54年。その間に、ローマ帝国全体を襲った飢饉という史実は記録されていませんが、46-47年にユダヤ地方を襲った飢饉はあったのです。
[5] 使徒の働き二44-45、四32以下など。
[6] ガラテヤ書二章の、テトスが同行しての訪問は、この時のことかとも考えられています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます