2017/11/05 ハ信仰問答94「神だけを礼拝する幸せ」マタイ4章1-11節
私たちの生活に、キリストはどのような教えを下さっているでしょうか。聖書全体が神から与えられた、生活の規範ですが、その中心にあるのは「十誡」です。今日からこの十誡を、第一戒から順番に一つずつ、繙(ひもと)いていきましょう。第一戒は
「あなたはわたし以外に他の神々があってはならない」
です。主以外に神があってはならない。
問94 第一戒で主は何を求めておられますか。
答 わたしが自分の魂の救いと祝福とを失わないために、あらゆる偶像崇拝、魔術、迷信的な教え、諸聖人や他の被造物への呼びかけを避け逃れるべきこと、唯一のまことの神を正しく知り、この方にのみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽くして、この方にのみすべてのよきものを期待し、真心からこの方を愛し、畏れ敬うことです。すなわち、わたしが、ほんのわずかでも神の御旨に反して何かをするくらいならば、むしろすべての被造物の方を放棄する、ということです。
読んで分かるように、ここでは聖書が示す、まことの神である主以外のものを礼拝したり、信仰の対象としたりすることを厳格に禁じています。そして、
「真の神を正しく知り、この方にのみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽くして、この方にのみすべてのよきものを期待し、真心からこの方を愛し、恐れ敬うこと」
と言っています。
これだけを読むと、こう思う人も多いでしょう。「キリスト教は排他的だな。他の宗教や神々を認めないなんて、独善的だ」。そう嫌悪する方もいるでしょう。確かに、そう言われるような面もあります。何しろ聖書は、世界にある沢山の宗教の一つ、人間が考え出した神々の一つとしての神ではなく、世界をお造りになった神、人間をもお造りになった神を神としているからです。この神が、すべてのものを創造されて、私たち人間との生きた関係を始めてくださった、と聖書は語っているのです。この神以外の「宗教」や「神々」は人間が自分なりに考え出したり造り上げたりした神なのです。
ところが、聖書にはそのおかしな事をし始めた人間の物語が書かれています。聖書の始まりから終わりまで、そこに書かれているのは、本当の神から離れてさ迷い出す人間の歴史です。神に背いてしまう人間を取り戻すため、世界に来て、関わってくださる神の謙遜と忍耐の限りを尽くす物語が、聖書なのです。
今読んだマタイの福音書四章には、イエスがキリストとしての働きを始めた最初に、荒野で受けた悪魔の誘惑が書かれていました。極限状態の中、悪魔はイエスに三つの誘いかけをしました。その三つ目は、第一戒に関わる誘惑でした。
マタイ四8今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
9言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
10イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」
悪魔は、イエスに全世界の国々とその輝かしさを見せて、自分を拝むなら、これを全部上げようと言いました。これをイエスは、神ならぬものを拝むなんてことはしないと拒まれたのです。これは考えてみればアタリマエの話です。イエスが、サタンを拝むだなんておかしな事です。サタンも奇妙な取引を持ちかけたものだ、というのは簡単です。でも、サタンの経験則からすると、確かに人間は、自分の欲しいものを手に入れるため、簡単にサタンにひれ伏し、悪に流されてしまうのです。最初のエデンの園で、人間に神を疑わせて、神に従うより自由に生きた方が幸せそうだと思い込ませるのに、サタンはまんまと成功しました。それ以来、人間は、簡単に主を捨ててしまいます。神ならざるもの、力や権力、欲望やうまい話にコロッと騙されて、神に背を向けてしまうのです。主が素晴らしい恵みを下さったら有頂天になるけれども、何かあると遅かれ早かれ、神から離れて、神ならざるものに飛びついてしまう。それが人間の姿です。でもそれがどんなに人間の習い性で、無理もないとしても、それでも神ならざるものが神に代わる事はありません。神が下さる「魂の救いと祝福」はないのです。
ここでは大胆にこう言っています。
「わたしが自分の魂の救いと祝福とを失わないために」。
これが第一戒の最初に確認されます。エデンの園以来、人間の心には神への不信感が根を下ろしています。神は私たちの幸せよりも、自分への服従を求める、と考えます。しかしここでは、自分の救いと祝福を捨ててでも神だけを拝むべきだとは言いません。人は、自分の救いと祝福のためにこそ、神ならぬものを避け、真の神を正しく知り、この方にのみ信頼するのです。勿論誘惑や戦いはあります。一時的に幸せを諦めたり楽を拒んだりすべき時はあります。イエス御自身が、サタンの誘惑と戦われました。イエスは十字架の苦しみでも、人間に嘲笑われ、苦しめられ、呪われながらも、その人間のために十字架に留まる道をイエスは命がけで守り通されたのです。真実に生きる道とは、決して簡単ではありません。神の御旨に従うことを選ぶため、目の前にぶら下げられたニンジンを我慢することも必要でしょう。いいえ、ここで最後に言われているように、
「すべての被造物の方を放棄する」
こと、お金儲けや成功のチャンスを拒否したり、時には自分の命をも捨てて殉教を選んだりすることさえあるのです。
いつもお話ししているように、私たちが自分の努力や信仰で魂の救いや祝福を得るのではありません。イエス御自身が私たちの罪の救いのために、すべてをしてくださいました。御自身が人となって、あらゆる誘惑に打ち勝ってくださいました。御自身が
「謙遜と忍耐の限りを尽くして」
くださり、神を私たちの天にいますお方として信頼するよう結び合わせてくださいました。イエス御自身が、私たちのために御自身の楽も名誉も命さえも放棄してくださいました。それが本当の神です。その神を、私たちが人間と同じように考え、他のものと取り替えようとするとはなんと愚かなことでしょう。
その愚かから救われていく途中に私たちはあります。真の神は私たちを救い祝福するために、惜しみなく犠牲を払い、今もともにいて、導いておられます。そうして、私たちがこの方だけを神として信頼し、この方のみを神とする幸いな生き方を導かれています。ですから、私たちも主を愛し、主以外のものを恐れたり神のように崇めたり慕ったりしないよう、心から願うのです。誘惑に遭うときには、賢明に勇気をもって負けることないよう助けてください、日々、神のみを神として歩ませてくださいと祈るのです。
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