2020/2/9 マタイ伝6章9~10節「あなたの御心が行われますように」
「主の祈り」の第三の願い
「御心が天で行われるように、地でも行われますように」
に聞きましょう[1]。ここでも「御心」とは「あなたの御心」、天にいます私たちの父である神の意思、喜び、計画のことです。普通「祈る」と言えば、自分の願い事、「こうなってほしい」という私たちの願望を神に叶えてもらう事を言います。自分の心を神に聞き届けてもらうこと。私の願いを何とかして叶えてもらう、そうでなければ「祈りが聞かれなかった」と言い、「神に祈っても聞かれないなら祈っても意味はない」などと、堂々と言われることがあります。それに対して、イエスは「御心が行われますように」と祈るように、主の祈りを授けてくれました。自分の願いを聞いてもらうために祈るのではない。御心――神の願いが行われますように、と祈る。祈りを通して、私たちが自分の願いを、もっと大きな神の願いやご計画への信頼の中に置く。イエスは、祈りという定義・意味合いそのものを全く引っ繰り返してしまうのです[2]。
しかしそうしたら今度は、「私たちが何を祈っても仕方がない」とか「神の御心に委ねなければならない。私たちは自分の願いを捨てて、感情や意思を封じ込めて、神の意思だけに服従するのだ」という、行き過ぎた理解に振り切ることが起きます。御心を「御意」とも書けます。「御意(ぎょい)」と言えば、絶対服従、問答無用、有無を言わせない響きがあります。「結局、神には逆らえない、自分の心に蓋をしてでも「御意(ぎょい)」と言うしかない」…そんな誤解もあるでしょう。
しかし、この祈りの直前でイエスは、神を
「天におられるあなたがたの父」
として繰り返して示しています。私たちの隠れた思いや行いも見ている神、私たちが求める前から私たちに必要なものを知っていて下さるお方、何よりも「天にいますあなたがたの父」となってくださった神をイエスは引き合わせてくださいました。私たちの心に無関心で、私たちが何を必要としているのかも関知しない神ではありません。私たちが従わなければ怒って見捨てるような神ではなく、私たちをわが子として愛し、ご配慮下さり、決して見放さない神。その神に向かって、「天にいます私たちの父よ」と呼びかけて始まる「主の祈り」です。そこで私たちは、心からの信頼を込めて、「御心が行われますように。私たちの願いや考えよりも優って大きな、あなたの御心が行われますように」と祈るのです。諦めではなく、安心してお任せできるのです。
御心が天で行われるとはどういうことでしょうか。天をよくある「天国」と考えて、悪も問題も全くない世界を思い描き、この地上、私たちの今の生活も問題や煩わしさが全くなくなり、平穏無事に生きる事が出来ますように…そういう考えることもあるでしょう。改めて、そうだろうかと思いながら、聖書を読んでいきますと、マタイの18章にこんな言葉が出て来ます。
10あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。
…14このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。[3]
この「小さい者」とは直接には一人の子どもです。引いては私たちが「小さい者」「つまらない人」と思ってしまうすべての人です。イエスは、その小さい一人が滅びることは天におられる父の御心ではない、と言われます。ルカの福音書では、
「一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです」
と言い換えています[4]。天で行われている御心とは、一人を喜ぶ喜びです。地では、人が人を小さいと見縊(くび)ったり、神から離れた生き方で滅んでいき、それを見る世間は「自業自得だ」と突き放したりする。そんな冷たい地の中で、一人が神に立ち返る。それを大喜びして、そのために一人が滅びから救われるために、天の御使いは労を惜しまないでいる。九九人の正しい人より一人の罪人が神の元に帰って来て大喜びするよう、御使いたちはたゆまず働いている。それがここで言われている御心です。神のあわれみ、深い愛、本当に尊い恵みで、一人の命が神のかけがえのない命として回復される働きです[5]。私たちの生き方や心の底がその神の御心と同じように、誰一人軽んじたり嘲ったりしないようになることです[6]。「あなたの御心がなりますように」とは、決して私たちの願いや気持ちは二の次で、神のご計画通りなる、ということではありません。この山上の説教の最後に、もう一度「御心」という言葉が7章に出て来ます。
21わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。[7]
こう言われた後、イエスは、多くの人が、主の御名によって神の言葉を語り伝え、悪霊を追い出し、奇蹟まで行ったとしても、それが父の御心ではないと語ります。父の御心は、私たちが神のために何かをする、ということではありません。天の父は子である私たちが、神の憐れみを知って、私たちの心も神の深い憐れみによって変わることです。私たちが神の深い愛に信頼して、私たちの生き方、心の深い思いが新しくされる。それが、他の人を蔑んだり憎んだり裁く見方から、自分と同じ一人の人と見る見方に変えていく。それ自体が神の御心です。ですからこの願いは、私たち自身が、この地で天の御使いのように神の憐れみを知って、そのように生きるようにしてください、という祈りでもあります。私たちを差し出す祈りです。
地上では人の力や知恵で物事が動いたり、偶然で不幸が降りかかったりします。私たちも神を信じながらも、「所詮、人生はこんなものだ」と諦めているかもしれません。主イエスは、私たちをそのように諦めさせません。天は遠くて、地は仕方がない、これも神の御心だ、などとは言わせません。「この地で天でのように御心がなりますように」と祈りなさい、と仰る。イエスは、目の前の出来事、病気や行き止まりや挫折が「神の御心だ」と言う態度とは反対に、「御心が天でのように地で行われますように」と祈り続ける姿勢を教えられます。
確かに、神は、願う所のすべてを行われ、神の御心だけが成る、と聖書は言います。私たちが祈ろうと拒もうと、神は御心を果たされる、とも聖書は言います。しかし、それは、いま地で起きている事が一つ一つ、神のご計画通りで仕方がない、という運命だというようなものではありません。決して思考停止して、諦めて、心に蓋をして「御心だ」と受け止めるのでなく、もっと正直に、信頼を込めて「御心を天でのように行ってください」と祈るのです。
「神の御心」が分からない出来事があります。なぜ神がそれを許されたかは私たちには分からない。その、御心が分からない体験を通して、他の人の痛みや悲しみに思いを馳せることが出来るようになります。痛みの中にある人に、安易に「御心は」とか神を語ったりせず、ともに深く共感できるようになっていくでしょう。それこそが、憐れみ深い神の御心――イエス・キリストを通して示された、私たちに対する天の父の御心に近いのです[8]。その御心を祈り求めていきたいのです。
主イエスご自身が、十字架にかかる前、逮捕される直前に、ゲッセマネの園で祈りました。
26:39「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。…わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」[9]
イエスご自身、十字架の厳しさにたじろぎつつ、大きな御心に自分を献げました。そのイエスが私たちにも、自分の見える所より遥かに大きく深い御心を信頼して生きるため、「御心が天で行われるように地でも行われますように」と祈りなさいと言われます。何よりも御心が行われますように。そう祈り、イエスにおいて為された父の深い愛の御心を仰げる事は本当に幸いです。この祈りがあるから、私たちは天の父の最善に信頼して手を開くことが出来ます。この地に御心がなされるため、私たちの祈りも、思いも、手も捧げていきたいのです[10]。
「すべてを御心のままになされる父よ。本当に沢山の痛みがあり、言葉を失います。それでも諦めず、御心がなされますようにと、私たちの願いも、存在もあなたにお捧げします。あなたの憐れみを求め、私たち自身の狭く冷たい心も変えられることを求めます。どうぞこの地に、あなたの尊く深い、慰めの御業を今日も推し進め、小さな私たちもそのために用いてください」
[1] 第三の願い、といっても前の「御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように」と別々ではありません。「御名が聖なるものとされる」のは「御国」であり、「御国」とは「御心が行われる」場です。
[2] Ⅰヨハネ5章14節「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。15私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。」
[3] マタイ18章10~14節の全文「あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。(11異本のみ)12あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。13まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。14このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。」
[4] ルカの福音書15章7節。同4~7節の全文は「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。5見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、6家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。7あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。」
[5] それは、既にこの山上の説教で語られてきたことです。敵を赦し、迫害する者のために祈り、壊れた関係を修復していく御心です。言わば、御心が天で行われるように、地でも行われるとは「山上の説教や、主イエスの教え、聖書の言葉が、この地上で、今この世界で現実となりますように」という事に他ならないでしょう。
[6] マタイにおける「みこころ」(セレーマ)は他に、7:21「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」、12:50「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」、18:14、21:31「二人のうちのどちらが父の願ったとおりにしたでしょうか。」彼らは言った。「兄です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。」、26:42「イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。」
[7] マタイ7章21~23節「21わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。22その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』23しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』」
[8] 御心は行われるべきものである。何よりも、私たちが御心を行うことである。私たちには、何が御心なのか、神が今これを許している・あれをしないでいる理由は分からないが、私たちには自分に出来る事があるならば、それをなす。「祈るしか出来ない」と簡単に言わず、声をかける、人に伝える、出来ることは何かあるかもしれない。私たちが、王様のように座り込まず、しもべとして淡々と出来ることをしていくよう変わることは、私たちに対する御心。
[9] マタイ26章37~46節「そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。38そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」39それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」40それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。41誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」42イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。43イエスが再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。44イエスは、彼らを残して再び離れて行き、もう一度同じことばで三度目の祈りをされた。45それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。46立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」
[10] ヨブ記23章13節「しかし、みこころは一つである。だれがその御思いを翻せるだろうか。神はご自分が欲するところを行われる。」、詩篇33篇11節「主のはかられることは とこしえに立ち みこころの計画は 代々に続く。」、135篇6節「主は望むところをことごとく行われる。 天と地で 海とすべての深淵で。」、イザヤ書53章10節「しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」、ダニエル書4章35節「地に住むものはみな、無きものと見なされる。この方は、天の軍勢にも、地に住むものにも、みこころのままに報いる。御手を差し押さえて、「あなたは何をされるのか」と言う者もいない。」
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