聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/2/9 ルカ15:21~32「神に背を向ける罪」ニュー・シティ・カテキズム16

2020-02-09 20:35:46 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/2/9 ルカ15:21~32「神に背を向ける罪」ニュー・シティ・カテキズム16

 先週は、神の律法は何のために私たちに与えられているのか、お話しをしました。私たちが聖書を読むのは、聖書に立派な生き方が書かれていて、それを守れると思っているから、ではありません。むしろ、聖書は神がどんな方か、どんなに偉大か。私たちが及ばないほど、いや想像も出来ないほど聖く、愛に満ちているお方かを知らせます。私たちは聖書を通して、自分の罪を知り、聖書を通して、救い主イエス様へと導かれ、そしてイエスとともにどう歩めば良いかを教えてもらえるのです。私も聖書を読む度に、自分の罪に気づかされ、ますますイエスを頼るようになり、そしてどう生きれば良いかを教えてもらっています。聖書は、私にとって、人生を照らしてくれる光です。
 さて今日は「罪」とは何ですか?というお話しをします。教会でよく聞く言葉の一つに「罪」がありますが、とても誤解されやすい事でもあります。その事を教えてくれるのが、先に読んだルカの福音書15章の「放蕩息子の譬え」として有名なお話しです。
 ある人に二人の息子がいました。お兄さんの方はマジメでお父さんの言いつけを忠実に守り、朝から晩まで仕事をしていました。弟は、そんな生活に嫌気が指して、お父さんから自分のもらう分の財産を早々と譲り受けて、家を飛び出し、全部を使い果たしてしまったのです。けれど、そうして一文無しになった遠くの国で、自分の間違いに気づいて、彼は帰ってきました。そこで、お父さんに言ったのが最初のセリフです。
15:21息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』
 この息子は、自分が天に対して罪を犯し、お父さんの前にも罪がある、もう息子と呼ばれる資格もない者です、と言いました。お父さんからお金だけもらって、お父さんに背を向けて飛び出してしまった。その上、遊ぶために有り金を使い果たしてしまった。こんな自分は、怒られて当然だと認めたのです。法律的には、この弟息子は牢屋に入れられるような犯罪をしたわけではありません。お父さんがくれたお金を、遊ぶために使い果たしただけです。罪とは「犯罪」とか悪いこと、心が真っ暗だ、ということではありません。それでも、弟息子は、神にもお父さんにも背を向けた自分の罪を認めます。
第十六問 罪とは何ですか? 答 罪とは、神が創造された世界にあって神を退け、無視する事です。神を全く基準にしないで生きることによって神に反抗して、神の律法で神が求める人にならず、神の求めることをしないことです。それは私たちの死と、全ての創造物の崩壊をもたらします。
 罪とは、神が創造された世界で、神が命を下さって目的をもって生かして下さっている私たちが、神を退けて、神などいないかのように生きることです。神がすべてを造られているのですから、神がすべての基準なのに、神抜きに生きようとすること。それが罪です。私たちが善意でするとか、真面目に生きる、誠実かどうか、も勿論大事です。けれどもそれさえも、神が私たちの心に下さっている思いです。神は私たちを、神との関係に生きるように造られました。神以外のものを神とすることは、神が最も悲しまれることです。エデンの園で人間が神に背を向けて以来、人間は生まれながらにして、造り主との関係が壊れています。生まれながらにして、罪の状態にあるのです。
 放蕩息子の父親は、彼が帰ってきたときに、どうしたでしょうか。罰を与えたでしょうか。どれほど悪いかを説教したでしょうか。いいえ、父親はこう言いました。
22父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。23そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。
 お父さんにとって息子は「死んでいた」。どんなに悲しかったでしょう。どんなに淋しかったでしょう。帰って来たことが嬉しい。また顔を見られることが幸せ。そんな風に思っているお父さん。神も私たちとの関係を求めるのです。私たちが神に背を向け、神を無視するとき、それは神にとって私たちが死んでしまうような悲しい状態です。いくらそこで楽しく、元気で生きていたとしても、愛する者に背を向けられることは、悲しく辛く、何にも替えがたいことです。この父の言葉は、罪が何よりも神を退け無視すること、という聖書の言葉をとても良く現しています。そして、神との関係が壊れる時、当然、それは
「私たちの死と、全ての創造物の崩壊をもたらします」
 神に逆らって生きる時、それは当然、死をもたらします。光に背を向けたら影が出来、動物に餌をやらなければ死んでしまい、高い所から飛び降りたら大けがをするように、神の基準に従わなければ、私たちは死に、他の全ての被造物にも致命的な影響をもたらすのです。神が怒って私たちを罰するのではありません。罪は、当然の結果を、それも悲しく、破壊的で、自分では癒やしようのない結果を刈り取ることになるのです。
 先の「放蕩息子」の兄は、そうは考えませんでした。自分は長年お父さんにお仕えし、戒めも破らないで来た。それなのに、遊んで財産を食いつぶした弟のために大宴会をするなんて!と激怒しました。この兄息子のような「罪」理解は多いでしょう。「戒めを破ったことは一度も無いのならOK。好き勝手な生き方をしてきたなら、そんな奴は罰せられて当然」。でも、そういう思いなら、お父さんと一緒に住んでいても、お父さんはどんなに淋しかったことでしょう。どんな間違った生き方をしていても、帰って来て欲しい。間違いの報いを十分に味わうのは本人なのだから、帰って来たら喜び祝うのは当然ではないか、と言います。この兄息子の道徳的な理解とは根本的に違う父親の言葉こそ、聖書の罪理解の温かさです。戒めを守りながら、神の熱い愛を無視しているなら、そのほうが深刻な罪です。しかし、人はどちらにも傾くほど、罪で壊れているのです。
 神の造られた世界で、神に背いて生きることは死と破滅に向かうしかありません。人がそれを自分で悔い改めることも出来ません。ただ、神だけが私たちを救い出し、神との関係を修復して下さるのです。聖書は私たちに、罪と救い主を教えてくれます。

「宇宙を支配しておられる主よ、あなたの道は良いものに満ちています。私たちは自分勝手な道を歩むとき、死に向かってしまいます。どうか罪が私たちに毒を与えていることに気づかせ、不法の霊によってではなく、あなたの律法によって、私たちの思いと歩みとを守り導いてください。アーメン」
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2020/2/9 マタイ伝6章9~10... | トップ | 2020/2/16 マタイ伝6章9~11... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ニュー・シティ・カテキズム」カテゴリの最新記事