聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/12/26 マタイ伝26章47~56節「剣を鋤に打ち直す方」

2021-12-25 12:46:01 | マタイの福音書講解
2021/12/26 マタイ伝26章47~56節「剣を鋤に打ち直す方」

 マタイの福音書をずっと読んできまして、今年最後の今日、主イエスが遂に捕まり、人々の手に引き渡される-これ以降は囚われた身で十字架に向かわれる、その大きな節目を読んで、新しい年を迎えることになりました。この言葉を今ともに聞けることを感謝しています。

 この逮捕は、前から予想されていたことではありましたが、それでも腹立たしい場面です。裏切り者の弟子ユダがやってきて、何食わぬ顔で
「先生、こんばんは」
と口づけする[1]。しかしそれは、群衆がイエスを捕らえるための目印、全く裏切りの挨拶です。しかしイエスはなお、ユダを叱ったり呪ったりはしません。毒づいたり非難したりせず、「友よ」と呼びかけて働きかけます[2]。けれども、イエスは黙っていても、弟子たちの方が黙っていられませんでした。

51すると、イエスと一緒にいた者たちの一人が、見よ、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。

 この弟子はヨハネの福音書によるとペテロだと分かります[3]。彼が剣を抜いて斬りかかったのです。勇気よりも、恐怖の余りで、闇雲に振り回したらたまたま耳に当たって、しまったと青ざめたのではないかと思います。
 いずれにせよ、イエスはその弟子に言われます。

52…「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。[4]

 剣を持つ群衆や裏切りの口づけにも、イエスは弟子たちが剣で抵抗することを許されませんでした。武器を振り回す抵抗を放棄させます。決してイエスが無力だからではありません。

53それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。

 父なる神にお願いすれば、ご自分と十一人の弟子たち一人ずつに御使いの一軍団を送ってもらうことだって出来る。でも、イエスの目はもっと先にありました。それは、聖書の成就です。

54しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」

 これは、ただの義務とか命令という以上に「神のご計画の中での定め・必然」を指します[5]。神の大きなご計画は、この世界が神のものとして回復されることです。神に背いた人間が、神に立ち戻ることです。それこそが、神の「こうならなければならない」です。イエスは弟子たちに、剣や御使いの力を借りて自分たちが勝利する以上のこと、聖書の「こうならなければならない」へと目を向けさせられるのです。それは55、56節での群衆への言葉でも同じです。

55また、そのとき群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮で座って教えていたのに、あなたがたはわたしを捕らえませんでした。56 しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」

 聖書の所謂「預言書」[6]に限っても、「剣」がたくさん出て来るのです[7]。人間の罪が戦争や搾取とか、力尽くで他者を排除する暴力になって、結局、自分も滅ぼされる。その滅びの象徴の一つが「剣」です。勿論、文字通りの剣に限らず、近代的な兵器とかテクノロジー、色々な武器もそこに含まれるでしょう。直接武器は使わなくても、言葉や策略、圧力で人を傷つけることだって出来る。そうした色々な剣で弱者や相手を傷つけては、最後は自分にもそれが返ってくる。そういう幻をもって、預言者たちは罪の報いが滅びだと語ります。けれども、預言者たちが語るのはその先の、神の回復です。将来の希望です。その事を典型的に示すのが、

イザヤ書2:4
主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。
彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。
国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。[8]

 剣を鋤に打ち直す。これが、聖書が「こうならなければならない」と語る神の定めです。
 神は剣を鋤に打ち直させられます。人を敵から同僚にし、世界を戦場から畑に変え、争いを躍りに変える。それこそイエスが生涯掛けて教えられた「神の国」です[9]。ここでも剣を捨てさせ、聖書の幻を弟子にも群衆にも思い出させます。人の力や企みよりも遙かに強く、待ち望ましい、平和こそ神が成就される必然です。こう言われた後、主は、剣よりも大きく遥かに呪わしい十字架を引き受けられました。そして、その十字架が罪の赦しの恵みの象徴に変わったのです。

 ここで「剣を収めよ」と言われることが絶対的非暴力主義で、一切の抵抗を禁じたと考えるのは極端です。イエスは弟子たちが留まって殉教するなど望まれませんし、ヨハネの福音書ではハッキリと弟子たちを逃がさせておられます[10]。自分や人や敵をも、出来る限り守るのが、
「殺してはならない」
の意味です[11]。その根底には、神が私たちの命を尊び、滅びることを望まない御心があります。剣を振り回して滅びで終わる事ではよしとしないのです[12]。やがて剣を鋤に打ち直して、ともに地を耕し、ともにいのちを育てるために汗を流すようなあり方を創造させなさるのです。それこそが、神にとっての必然だと思ってくださるのです[13]。

 弟子が剣で斬り掛かったことは、無謀でしたが多少の義憤も混じっていたでしょう。それでもイエスは弟子に「剣を収めなさい」と言われます。私たちにも言われます。私たちの剣が義憤であっても、自分で強引に成敗しようとすることを止めなさい、と[14]。暴力を容認するのではありません。剣に剣で報いる以上のことが起きなければならないからです。すべての剣が必ず剣であることを止め、打ち直され、鋤や楽器に持ち替えられなければならないからです[15]。主は必ずどの剣も打ち直されます。そのためにご自分のいのちをも惜しまれなかったのです。

 一年の終わりに自分の心を探る時、胸に刺さっている痛みがあるでしょうか。握りしめた手には見えない剣や毒があるでしょうか[16]。それを誰かにぶつけそうな私たちに主は言われます。
「剣を元に収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」
と。
 起きなければならないのは、仕返しや滅びではなく、神のご計画である平和の成就です。そのためにこそ、主は十字架を引き受けました。
 その主の愛によって、まず私たちの剣を鋤に打ち直してくださるよう求めましょう。怒りを祈りに、嘆きを踊りに、罪の呪いを祝福の恵みに、変え始めていただきましょう。

「平和の主よ。私たちの手や口や心にある剣を、平和の道具へと打ち直してください。あなたは私たちの罪を赦し、罪のもたらした断絶を癒やし、ご計画を果たすために十字架に向かわれました。あなたが成就される平和の希望に目を向けさせてください。一年の恵みを感謝し、過ちを悔い改め、痛みは包まずに差し出します。その一年の旅路どんな時も私たちとともにおられたことを感謝します[17]。あなたの善き御業への信頼をもって新しい年を迎えさせてください」

脚注

[1] 欄外にあるように、この言葉は「喜びがありますように」「お元気ですか」と訳されます。他にもマリアに告げられた「おめでとう」や、マタイ27章28節の「万歳」なども同じ言葉です。

[2] 「友よ」の後の「あなたがしようとしていることをしなさい」は欄外に「何のために来たのですか」とも訳され、原文はここにしか出てこない意味不明な文章で、明確な訳が出来ません。しかし、それでもここに、イエスのユダへの敵意や報復はないのは明らかです。

[3] ヨハネの福音書18章10~11節「シモン・ペテロは剣を持っていたので、それを抜いて、大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。11イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。」

[4] 同様の言葉は、創世記9:9(人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちとして造ったからである。)、エゼキエル35:6(それゆえ――神である主のことば――わたしは生きている。わたしは必ずおまえを血に渡す。血はおまえを追う。おまえは血を憎むことがなかった。だから、血がおまえを追いかける。)、黙示録13:10(捕らわれの身になるべき者は捕らわれ、剣で殺されるべき者は剣で殺される。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰が必要である。)

[5] デイ 神のご計画の中での必然。マタイで8回。16:21(そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。)、17:10(すると、弟子たちはイエスに尋ねた。「そうすると、まずエリヤが来るはずだと律法学者たちが言っているのは、どういうことなのですか。」)、18:33(私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』)、23:23(わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。)、24:6(また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。)、25:27(それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。)、26:35(ペテロは言った。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った。)、26:54。イエスがこの時、御使いを呼ぶことも出来たのに、十字架に掛からなければならないから、我慢して、逮捕された、というような意味での「ねばならない」「しかたがない」ではないのです。神は、自由なお方です。

[6] 聖書(今でいう旧約聖書)には預言書があり、聖書全体の呼び方の一つが「預言者」でもあります。ただし同じ「預言書」といっても、現行のプロテスタントの使う聖書の区分では「イザヤ書」から「マラキ書」までの16の文書を指しますが、ユダヤ教のタナハの区分では「ヨシュア記」「士師記」「サムエル記(上下)」「列王記(上下)」を「前預言書」とし、「後預言書」として「イザヤ書」「エレミヤ書」「エゼキエル書」の三大預言書と、「ホセア書」から「マラキ書」までの十二小預言書が「預言者の書(ナビーム。タナハのナに当たります)」とされます(ダニエル書は、タナハでは「預言書」ではなく、諸書(ケスビーム)に区分されます。)。

[7] 「剣」は、旧約に423回使われますが、そのうち、イザヤ書以降の預言書が222回、半分以上を占めています。

[8] 同じ文言は、ミカ書4章3節「主は多くの民族の間をさばき、遠く離れた強い国々に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。」

[9] 人の考える「当然」は「自分の敵は剣で滅ぼさなければならない」だとしても、神の「なければならない」は、世界は回復され、罪は赦され、失われた人は捜して救われなければならない。戦いや終わり、憎しみは和解し、わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合わなければならない、と思われたのです。そのために、神ご自身が犠牲を払い、御子イエスをこの世界に送ってくださいました。神の子イエスが、罪の赦しのため、自らを献げてくださいました。神は、どうにかして私たちが滅びに至る道ではなく、神に立ち戻って、神の民として祝福のうちを生きるように考えてやまれない。神は、ご自身の造られた私たちや世界を回復されなければならない、滅びから救われなければならないと思ってご計画をしてくださった。そう書いてあるのが「聖書」であり「預言者たちの書」なのです。

[10] ヨハネの福音書18章7~9節「イエスがもう一度、「だれを捜しているのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。8イエスは答えられた。「わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。」9これは、「あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった」と、イエスが言われたことばが成就するためであった。」

[11] 「Q67第六戒は、どれですか。 A第六戒はこれです。「あなたは殺してはならない」。 Q68第六戒では、何が求められていますか。 A第六戒が求めている事は、私たち自身の命と他人の命を守るために、あらゆる正当な努力をすることです。 Q69第六戒では、何が禁じられていますか。 A第六戒が禁じている事は、私たち自身の命を奪うこと、あるいは隣人の命を不当に奪うこと、またその恐れのあるようなすべての事です。」ウェストミンスター小教理問答67~69

[12] 武器を持っていたために不要な争いや犠牲を招く悲劇も現実にはありますし、かといって戦いに抵抗しなければ酷い悪に支配させてしまう場合も、大なり小なりある。その複雑さの中で、最終的な平和を待ち焦がれながら、私たちは生きているのです。現実の暴力や言葉や態度での暴力まで、私たちの身の回りにも剣があり、心に刺さっている言葉や握りしめている武器があるものです。その厳しさを知っているからこそ、イエスは弟子が剣を振り回すことを止めさせただけでなく、ご自分を見捨てて逃げることさえ許されました。

[13] イエスのこの時の受難は、ご自身のメシアとしての特別な死ですが、同時にこの姿は、キリスト者にとっての模範という面も持っています。Ⅰペテロ2章20~25節「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。21このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。22 キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。24キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。25あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。」

[14] ローマ12:18~21自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。19 愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。20 次のようにも書かれています。「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」21 悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

[15] 今、私たちは剣が正義の象徴であるように生きています。剣に勝る神のことばの力を依り   頼みます。悪に打ち勝つのは仕返しではなく、善です。恐れに打ち勝つのは武器ではなく、希望です。そして、御使いたちはイエスを助けに来なかったのではありません。既にあの誕生の夜に、おびただしい天の軍勢が現れて、「天には栄光が神にあるように。地の上で、平和が、みこころにかなう人々にあるように」と歌ったのです[15]。御使いは、復活の朝にも、昇天の後にもいて、私たちに本当の力を下さいます。それは、イエスが下さった、神の平和です。そのイエスの平和を力に、私たちは今ここで剣を取らずに生きるのです

[16] 私たちは、今、この年末最後の礼拝において、この言葉を聴いています。私たちの周りにも、自分の心や手にも、気がつけば剣がないでしょうか。暴力や中傷、悪意、いやむしろ善意の言葉が心に刺さり、自分も仕返しの石を握りしめている。その私たちにイエスは言われます。「剣を取る者は剣で滅びる。」いや、それだけではなく、「こうでなければならない」とはもっと違うことなのだ、と。その正しいさばきを、神がしてくださいます。あなたを刺した剣は、鋤に打ち直されなければなりません。イエスはそれをご存じです。そして、そのために、イエスはこの時、自由の身から囚われて十字架へと向かわれる、最後の時へと踏み出されたのです。

[17] イエスは、苦しみを知らない人ではありません。人の敵意を、身に覚えのない恨みで不当な苦しみを受ける惨めさを、信頼していた人に裏切られる辛さを誰よりもご存じです。罪の冷たさ、醜さ、悲しさを、誰よりも味わい、身悶えし続けたお方です。その方が、しかし、なお苦しみ以上に見ていたものがありました。それは、すべての剣は、やがて打ち直される、という将来です。戦争や血、恐怖と死を象徴する剣は、鋤に打ち直される、というのです。鋤は農具です。畑を耕し、作物を育てます。収穫を待ち望みます。鋤は、労働、共同作業、待つこと、希望を思い描かせます。預言者は、人が傷つけあう今は、きっちりと報われた上で、その先に、剣が鋤に打ち直される幻を思い描かせました。イエスは、それを信じていたのです。

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