2014/11/02 ウェストミンスター小教理問答25「大祭司であるキリスト」
ヘブル七24-25
キリストが私たちの「贖い主」である、ということは、私たちの「預言者」であり、「祭司」であり、「王」であられる、というお話しを続けています。今日は二番目の「祭司」です。ウェストミンスター小教理問答25。
問 キリストは、祭司の職務をどのようにして遂行されますか。
答 キリストは、神の義を満たして私たちを神に和解させるために、ご自身をいけにえとしてただ一度献げたことと、私たちのために絶えず執り成しをすることによって、祭司の職務を遂行されます。
「祭司」というのは、キリスト教以外の宗教にも出て来ます。神殿や宗教行事の時に前に立って、その儀式を執り行う仕事をする人です。普通の人ではなく特別な人が、呪文を唱えたり怪しい儀式をしたりするのです。他の誰かが立ったり、呪文を間違えたりしたら、神様を怒らせてしまって大変な事になる。そんな考えがあるように思います。
でも、聖書は、そんな恐ろしい神様を信じません。もっと礼拝は、伸び伸びとして、祝福に満ちたものです。神様は人間を愛して、喜んでお造りになり、親しい交わりを持とうとされたのです。ところが、人間が、神様に背いて、罪を持ち込んでしまったために、神様と人間との間の親しさがなくなってしまいました。神様と人間の間に、罪という邪魔が入ってしまいました。人間の心が罪で汚れてしまったために、神様とさえ、親しさではなくて、怒らせないで言うことを聞いてもらえたら良い、という勝手な関係になったのです。そんな心のままで神様に近づくことは出来ません。神様は正しいお方ですから、罪を大目に見たり見逃したりすることは決してなく、ちゃんと罪を取り除かなければ、人間は神様に近づくどころか、罰せられて滅ぼされるしかないのです。
けれども、神様は、ちゃんと罪を取り除いて私たちを近づかせてくださるために、イエス様を送って下さいました。イエス様が、神様と私たちの間にお立ちになり、もう一度、神様と私たちを結びつけてくださったのです。イエス様は、私たちの贖い主として、大祭司の務めを果たし、私たちの罪を赦すために十字架におかかりになったのです。
イエス様が来られる前の時代に立てられていた祭司たちは、動物の生け贄を献げて、神様に人間の赦しと和解とを求めたり、その生け贄の血を人間に振りかけたりしていました。でも、動物をいくら犠牲にしても、決して人間の罪を赦したり、神様の正義を満足させたりすることは出来ませんね。動物の血やいのちには、そんな魔力は絶対にないのです。どうして神様は、そんな儀式をするようにお決めになったのでしょうか。それは、イエス様がおいでになるまでの準備にするためでした。本当の大祭司であり、本当に罪を赦し神様の怒りを宥めることの出来る犠牲を捧げてくださるイエス様がやがておいでになるまでの「代役」「しるし」が、旧約の時代の大祭司や生け贄の儀式だったのですね。そして、イエス様がおいでになって、真の大祭司としての務めを果たされて、ご自身のいのちを生け贄として、神様と私たちの間の罪を赦してくださったのです。
ですから、今日、覚えたいのは、イエス様が大祭司として、完全に私たちを赦してくださった、ということです。イエス様の救いにあずかったなら、もう私たちは、神様の怒りや滅びを恐れなくてよい、ということです。私たちは、イエス様の御業に与って、自分の罪を罪として認めて、心から謙ることが必要です。赦されたからもういいんだ、と開き直ってはいけませんし、罪からもっともっと解放された方がいいに決まっています。けれども、私たちは自分の罪を全部気づくことは出来ません。今までに犯した罪、いいえ、この一週間や何日かだけでも、自己中心的な考えをしたり、人を傷つけてしまったりした罪を、一つ残らず思い出すことだって出来ません。そして、これからも、私たちは、まだまだ罪を犯してしまったり、悪い考えを持ってしまったりするでしょう。
Ⅰヨハネ一8もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
と言われている通りです。でも、そうした、これから犯す罪も、思い出せない罪も含めて、イエス様は私たちの全ての罪のために、完全な犠牲を捧げてくださいました。私たちの側の真剣さや努力や足りなさが、このイエス様の救いを左右してしまうことはありません。本当に私たちは、赦されて、神様との完全な和解を頂いたのです。
礼拝の中で「罪の告白」をします。悔い改めを祈り、赦しを願います。けれどもそれは、まだ私たちがそうしなければ赦していただけない罪人だから、ではないのです。その逆に、私たちが罪を告白して、悔い改めることを通して、本当にもう赦された者である恵みを確認させて頂くのです。罪の負い目や後ろめたさ、神様の怒りを恐れてビクビクするような必要はないのだ。思い出せる限りの罪を告白して全部イエス様のもとに下ろさせていただくことで、思い出せない罪もすべてイエス様が引き受けてくださったのだ。イエス様が「あなたの罪は赦されました」と仰ってくださった。そう確認させて頂いて、心から神様を礼拝するのです。そのための「罪の告白と赦しの宣言」という時間なのです。そして、大祭司イエス様が、私たちの罪を赦すだけでなく、私たちの心を更にきよくしてくださって、神様が造られたこの世界において、為すべき務めを積極的に果たさせてくださることを願っていきたいと思います。
私たちのために絶えず執り成しをすることによって、祭司の職務を遂行されます。
ともあります。イエス様は、十字架において既に和解を成り立たせてくださった、というだけでなく、絶えず神様と私たちとの間に立って、結びつけていてくださっています。今この時も、主が私たちの大祭司であられて、私たちを神様の民として歩ませてくださっています。そして、私たちの祈りや願いも、全部神様に届けていてくださるのですし、私たちの心がきよくなるように、働いておられるのです。
聖書に出て来る大祭司は、胸当てにイスラエルの十二部族の名前を書いていました。その名前の書いた胸当てを落ちないようにシッカリ結びつけること、と書かれています。真の大祭司であるイエス様は、私たち一人一人を名前で覚えて、ご自分に結びつけていてくださいます。私たちのために、完全に執り成し、また、私たちをきよくしてくださいます。だから、私たちも、恐れや疑いや不安を捨てて、生きることが出来ます。そして、毎日の歩みでも、イエス様のように平和を作る人になるよう召されているのです。
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