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聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

申命記四章1~14節「あなたがたの知恵と悟り」

2014-11-09 20:04:00 | 申命記

2015/11/02 申命記四章1~14節「あなたがたの知恵と悟り」

 

 1今、イスラエルよ。あなたがたが行うように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えようとしておられる地を所有することができる。

 こう高らかに歌い上げて、モーセは申命記の本題に入っていきます。前回三章まで、今までの歴史を振り返らせた上で、改めて、モーセは民に呼びかけて、主の掟と定めに聞くよう呼びかけます。この申命記四章は「申命記全体の要約」とも言われます[1]。主の言葉を守ること、それに付け足したり減らしたりせず、その言葉に従うことを繰り返しています[2]

 しかし、それは決して、申命記や旧約聖書が、行いによる救い、人間の業(わざ)に基づく契約を教えているということではありません。「旧約の時代は律法を守ることを命じられたけれども、イスラエルの民は失敗したので、イエス様が来てくださって、行いによらず、ただ恵みによって救われる、人間は信仰だけで救われるようになった」。そういう誤解を、私もしていました。けれども、旧約の救いも、最初から主の恵みによっていました。イスラエルの民がエジプトの奴隷生活から救われて、今、約束の地に辿り着く所まで来たのも、ひとえに主の憐れみと恵みによる御業でした。そして、その恵みにいよいよ拠り頼むよう、御言葉に聞き従うのです。3節で出て来る「バアル・ペオル」は、民数記二五章にある出来事で、色仕掛けと偶像崇拝の誘惑に負けた大失敗です。人間の欲望や甘えを唆す誘惑は、苦々しい結果にしかなりませんでした。しかしその逆に、何か、正しいけれども難しいこと、立派だけどレベルの高いことを要求して、それをクリアしたら救ってあげる、と要求するようなカミもまた、真の神とは違うまがい物です。御言葉を守ることは何かの手段ではなくて、それ自体が祝福であり、命なのです。

 6これを守り行いなさい。そうすれば国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり、これらすべてのおきてを聞く彼らは、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ」と言うであろう。

 偉大な国民になる。でもそれは、経済大国や軍事大国という意味ではなく、知恵と悟りの大国になるというのですね。御言葉に聞き従うことは、窮屈なこと、大変なことではなくて、賢さ、洞察、現実的な判断力に繋がるのです[3]

 7まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。

 御言葉を与えてくださる主は、御言葉において、私たちとともにいてくださいます。それは、一般的に神様はこういう方だ、誰に対しても「神様はいつもあなたと一緒にいてくださる方だよ」と言えることではなくて、神様の恵みの契約によって、主の民とされた者に与えられる特別な祝福なのです。「御言葉を守ることによって主の民とされる」でもないのですが、「御言葉を守らなくても神様はともにおられるよ」でもなく、主の契約の民とされたからこそ、神様からの知恵と正しさを頂くのです。御言葉の光に照らされて進む恵みが与えられているのです。

 8ただ、あなたは、ひたすら慎み、用心深くありなさい。あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間、それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。…

 では、この「自分の目で見たこと」とは何でしょうか。10節以下にあるように、ホレブ(シナイ山)で律法が与えられた時、

11…山は激しく燃え立ち、火は中天に達し、雲と暗やみの暗黒があった。

という恐ろしい光景でしょうか。そういう圧倒されるような光景を心に焼き付けて、その神様の言葉なんだから従わなければならない、というのでしょうか。いいえ、そうではありません。

12主は火の中から、あなたがたに語られた。あなたがたはことばの声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。

13主はご自分の契約をあなたがたに告げて、それを行うよう命じられた。十のことばである。主はそれを二枚の石の板に書きしるされた。

 大事なのは、あんな神様の壮大な栄光を目で見る、特別な体験をすることではないのです。あの山で与えられたのは、結局、神々しい姿やインパクトではなくて、主の声だった。強烈な体験よりも大切なのは、主の言葉を聞かせて戴いて、それを私たちが行うことだった。それが、

…ひたすら慎み、用心深くありなさい。あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間、それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。

と言われていることなのです。神様の栄光を見たという体験も大切です。でも、その体験が、御言葉においていつも共にいてくださる神様への信頼、忠実、御言葉に聞き従うことに繋がらないなら、その体験が生かされることにはなりません[4]。そして、バアル・ペオルの失敗も反省しないままなら、何か目の前にある楽しみとか戦い、誘惑にコロッと騙されて、御言葉から離れることに必ずなるのです。忘れてはならないのは、神様の力や栄光は、スゴい出来事や奇蹟を見、体験することよりも、従うべき御言葉が与えられていること、御言葉に聞き従うという関係にある、ということです。私たちが呼ばわる時、いつも、主は近くにおられるのだという約束です。そうは見えなくても、そうは信じられなくても、主が私たちに下さっている言葉が、私たちに知恵を与え、悟りある民とする、唯一の道なのだ、という事です。

 主の言葉は、「十のことば」(十戒)であって、これが「契約の言葉」であって、主はそれを二枚の石の板に書きしるされたと13節にあります。この「二枚」は、以前は十の言葉の、神に関する半分を一枚に、後半の人との関係に関する言葉をもう一枚に書かれた、と理解されていました。けれども考古学の研究が進んで、違う理解になっています。二枚は、全く同じ内容の写しです。契約を結んだ両者が、同じ文書を持つことで、契約が成立するということです。二枚の石の板は、神様が契約を一方的に人間に与えて命じられただけでなく、神様ご自身もその契約を覚えておられて、その約束を必ず守ってくださる、という証拠なのです。

 イエス・キリストは、インマヌエル(神は私たちとともにおられる)と呼ばれるお方です。世の終わりまでいつも私たちとともにいると約束された方です[5]。イエス様は、人として歩まれて、この世界で御言葉を信じることがいかに難しいか、御言葉から引き離そうとする力が如何に強く働いているか、いいえ、御言葉さえ偏って用いて信仰から引き離そうとする誘惑があることさえ、よくよくご存じです。私たちがどれほど失敗しやすいか、騙されやすいかも十分知っておられます。私たちが愚かで騙されやすく、見える出来事に振り回され、恐れ、滅んでいくままでいいとなどとは思われません。ともにいてくださる主への信頼と、そのお方が下さる知恵の言葉によって育てようと願っておられるのです。御言葉に、十の言葉に従いなさい、と仰るのです。私たちの人生を支えて、傷はあっても真っ直ぐな心で歩ませてくださるのです。

 

「呼ばわる時、いつもあなたは近くにおられると信じさせてください。御言葉の光で私たちを助け、知恵を与え、過ちや愚かさから救ってくださると、味わい知る一生であらせてください。心が挫け、あなたが見えなくなり、自分を見失うことが起きますから、どうか御言葉の道を示して励ましてください。そして私たちを、主への信頼に生きる幸いの証しとならせてください」



[1] 宮村武夫『申命記』(新聖書講解シリーズ 旧約4、いのちのことば社、1988年)35頁。

[2] 1節の「おきてと定めをと聞きなさい」は、五1、十一32、十二1、二六18でも繰り返されます。いずれも、申命記の展開において、肝心な転換点です。

[3] またこれは、政治形態や組織によってではなく、民の一人一人の教育と成長によってなされる「大国」化です。

[4] 出来事よりも言葉が大事、と言っているのではありません。言葉と出来事が切り離せないこととして覚えられているのが申命記なのです。J. G. McConville, Deuteronomy, (Apollos Old Testament Commentary, IVP, 2002), pp.115-116. 

[5] マタイ二八18-20。

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