2015/11/08 ルカ二三章32~38節「無力な神」
教会のシンボルは十字架です。キリストが磔にされた十字架を、教会は屋根の天辺(てっぺん)や礼拝堂の真正面に高く掲げます。シンボルにするとどうしても、それを輝かせたり、大きくしたり、高々と、美しく、豪華なものにするようになります。実際の、イエスの十字架を描く絵画でも、長く厳粛な十字架が、丘の上に目立って三つ並んでいるものが多く描かれてきました。一世紀当時、十字架の高さもそんなに高くはなかったようです。見上げるような十字架ではなく、つま先は地上からせいぜい30cmぐらいしか離れていなかった。私が講壇の上から見おろしているよりも、もっと低い所で、主イエスは十字架の苦しみと恥とを味わわれたのです。それは一層屈辱的で、囚人にとっては居たたまれなかったのではないでしょうか。ルカの福音書をご一緒に読んできて、今日の箇所で、ついにイエスはそういう十字架につけられました。
33「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
十字架という処刑が、どれほど苦しく残酷で、身震いするようなものか、想像してみてください。イエスは手足をこの木に釘付けにされ、恐らくロープで腕を支えられただけで、地面に看板のように立てられ、放っておかれたのです。痛みの極限でも、ゆっくり衰弱するだけで、多くの囚人が発狂したのだそうです。本当に残酷な十字架の苦しみでした。その事もまた、私たちは決して忘れてはなりません。苦しみや惨たらしさと、私たちキリスト者の人生が無縁であるかのように考えてしまうなら、キリストの十字架をただの飾りにしてしまうのです。
けれども同時に、ここでのルカの書き方を見ても分かりますように、どれだけイエスが痛くて苦しい思いをされたか、ということよりも、そのイエスを嘲り侮辱する、人間の態度に目を向けましょう。人々は犯罪人たちの真ん中に首謀者のように並べました。彼らは、苦しむイエスよりもイエスの着物に興味を持っています[1]。民衆は、イエスの味方であったはずなのに今は「ながめていた」だけです[2]。民の指導者たちが「自分を救え」と嘲笑いました。兵士たちも、酸いぶどう酒を差し出してからかいながら、
「ユダヤ人の王なら、自分を救え」
と言っていました。そして、次の39節でも、イエスの横で十字架につけられていた犯罪人でさえ、同じようにイエスに悪態をついています。十字架の激痛や苦悶よりも、この人々の憎悪むき出しの態度に、目眩(めまい)がしないでしょうか。指導者たちは、自分達の特権を脅かすイエスの人気に嫉妬して、遂にイエスを抹殺することに成功したのですから、嘲り放題です。兵士はよくイエスを余り知らないでしょうに、弱い者イジメを楽しんでいるのでしょうか。民衆にしたら、「イエスへの期待が裏切られた、ガッカリだ」という思いだったのでしょう。失望や嫉妬、弱い者に対する軽蔑、様々な理由が混じり合っています。理由はともかく、彼らは一様にイエスを白い目で見つめ、笑い、蔑んでいます。十字架の苦しみだけでも想像を絶するのに、そのイエスに同情したり励ましたりしようとしない。かえって、そんな無力なイエスに愛想を尽かし、見限り、唾を吐いています。惨めな思いをしながら死んでしまえと、心までズタズタにしています。私たちに染みついている、残酷で身勝手な思いです。弱者や気にくわない者、邪魔な者を排除しようとする、人間の醜さが露わになっています。他人事ではありません。私たちは、いじめや虐待、民族の虐殺、戦争に通じる狂気を抱えているのです。
そのような中で、イエスは何も仰いません。神の子であったイエスは、もし自分を救おうと思えば降りて来ることは出来ました。こんな苦しみを止めて、それも嘲る人々のために苦しむことなんぞ馬鹿馬鹿しいと止めることも出来たのです。イエスは、本当に神の子だったのですから。人々は、イエスが無力に十字架の上で、虫けらのように苦しみ藻(も)掻(が)いているのを見て、嘲笑いました。お前が神の子であるはずがないではないか、神の愛だ、神を信じろと言っても、今お前は苦しんでいるだけで何も出来ないではないか、と冒涜しました。
しかし、その無力に見えるイエスこそは、実は、神の子でした。人間には理解も真似も出来ない神の全能の力は、ひとり子イエスがこの世に来られ、人間として私たちと同じようになるということに現されたのでした。そして、十字架の耐えがたい苦しみをも、神の力で逃げることをせず、最後まで味わい尽くされました。人々の罵りや挑発に心までズタズタになりながらも、なおその十字架に留まられました。つまり、キリストが一人の人間として無力になりきることによって、私たちと本当に一つになってくださったのです。罪という障害物を取り除いて、私たちと神とを結びつける架け橋となってくださったのです。十字架は、敗北や神の無力さの証拠ではなくて、その時にこそキリストの救いの御業は着実に全うされていたのです。私たちを取り戻すために、ご自分を捧げきっておられました。神が何もしておられないように見えても、神はもっと大切な神のご計画を-人の目には見えない大切な御業を-必ず推し進めておられます。それを簡潔に語っているのが、この最初に語られたイエスの言葉です。
34そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」…[3]
赦してください、と祈られました。ご自分を十字架に釘打ち、見捨てて、苦しみを見て笑う彼らを、何をしているか分からないでいるのだから、赦してくださいと祈られました。身勝手な憎しみで心を焼き焦がしている彼らのために、赦しを祈られました。狂気に駆られて「自分を救え」と叫ぶ声に、「何をしているか自分で分からないのだ」と赦しを願われました。主イエスの力は、その力を振りかざし、人を捕らえ、正義を振りかざす力としてではなく、憎しみや暴力や狂気に対してさえ、徹底して赦し、自分を与え抜くという力でした。
この主イエスの十字架をしるしとするのが教会です。それは、高々と格好良く掲げるのではなく、本当に私たちと同じ目線に降りて、そこに留まられ、赦しへと私たちを招いてくださるお方の十字架です。イエスには、私たちの苦しみや恥や惨めさを一気に解決することもお茶の子さいさいです。でも、十字架から降りずに、人の罪を負われ、赦しを示し、自分のいのちを与えられたのです。私たちの状況を変える以上に、神は私たちの心を変えるお方です。憎しみや狂気や不満や妬みから、赦しに生きるよう変えてくださいます[4]。神の力で、苦しみや問題が解決して、すごい奇蹟で幸せになれると期待するのでしょうか。
十字架が示すのは、神の力は、苦しみや無力さの中で働いているという希望です。主イエスは私たちを赦しと和解へと導かれています。痛みのない自分の幸いではなく、ともに歩むことです。それは、私たちの力では出来ません。ただ主イエスの力が、私たちをそう導くのです。その十字架の御業を押し頂きましょう。今も、何をしているか分からないまま自分達の正しさを振りかざし、暴力によって取り返しのつかない出来事が私たちの周りで起きています。神を信じて何になるのかと言われるこの世界で、なお私たちが力強く生きる道が、主の十字架に豊かに示されています。
「主よ。目には見えないあなたが今も生きて働き、すべてのものを一つとする完成に向けて働いておられることを感謝します。それが見えない事もあり信じられない時もあります。しかし、主の十字架こそ、真っ暗闇で無力にしか思えなかった長い時間でした。どうぞ、今も私たちを導き、恥や反対にもめげない愛と赦しを与えてください。あなたこそ私たちの真実な王です」
[1] 「着物」 八44では、長血の女が触れて癒されたのと同じイエスの着物です。しかし、今彼らはそれを手にしても、何も癒されません。御力にあずかることを願ってさえいません。まさに、何をしているのか分からない、でいるのです。
[2] この箇所の描写が、詩篇二二篇を意識したものであるなら、「6しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。7私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。8「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」は、「見る」ことも嘲る側の行為とされています。「17私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。18彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。」にも「ながめる」行為が出て来ます。
[3] 写本によってはこの34節を欠いているものもあります。それも、初期の有力な写本で、欠いているのです。そこで、この節は後代の追加だろうとする人もいます。しかし、概ねの意見としては、初代教会でもこれがイエスの言葉として伝えられていることからしても、もともとルカのここにあったのだろうと考えられています。だとするとなぜ削除したのでしょうか。それは、やはり赦しがたい人々が赦されることが、教会の写字生にとっても受け入れがたいからだったからでしょう。また、ここで赦されていたなら、七〇年のエルサレム陥落は起きなかったはずだ、と考えたことも想像できます。教会にとっても、主の赦しの限りなさは、受け入れがたく思えるほどなのです。
[4] ルカは、この「赦し」を強調しています。五20(寝たきりで運ばれてきた男に)、21、23、24、七47(不品行な女に)、48、49、十一4(主の祈り)、十二10(赦されない罪について)、十七3、4(七度の七十倍赦せ)。原語のアフィエーミは三十三回使われるが、「放っておく」などの他の意味もありますので、「罪の赦し」の意味では十一回です。
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