聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問52「誤審からの解放」テトス二11-14

2017-02-05 17:32:28 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/2/5 ハイデルベルグ信仰問答52「誤審からの解放」テトス二11-14

 今日は、「使徒信条」の「主イエス・キリスト」についての最後の部分を読みます。今までは、キリストが地上でなさったこと、また、現在、天の神の右の座でしておられる御支配についてでしたが、最後に扱うのはやがてキリストがおいでになることです■。使徒信条ではこう言います。「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」。やがて、キリストは、かしこ(全能の父なる神の右)からこの世界にもう一度来られて、生ける者と死ねる者とを裁かれる。その約束が、新約聖書では三〇〇回も繰り返されているそうです。その一つが、先ほどのテトス書の言葉です。■

テトス二11というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、

12私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、

13祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。

14キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。

 ここにある、「キリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望む」というのが、キリストのおいでになる時の事です。もう一度キリストが栄光を持っておいでになる。これを

 「再臨」

と言います。そして、再臨されたキリストが世界を裁かれて、世界を新しくされて、永遠の御国をお始めになる。これはキリスト教教理の基本の一つです。ここから、「最後の審判」といった題材が、西洋の絵画や映画などに出て来るのです。それはとても恐ろしく、暴力的なイメージがあります。ハイデルベルグ信仰問答はどうでしょう。

問52 「生ける者と死ねる者とを審」かれるためのキリストの再臨は、あなたをどのように慰めるのですか。

答 わたしがあらゆる悲しみや迫害の中でも顔を上げて、かつてわたしのために神のさばきに自らを差し出しすべての呪いをわたしから取り去ってくださった、まさにそのさばき主が天から来られることを待ち望むように、です。この方は、御自分とわたしの敵をことごとく永遠の刑罰に投げ込まれる一方、わたしを、選ばれたすべての者たちと共にその御許へ、すなわち天の喜びと栄光の中へと伴ってくださるのです。

 驚くべき事です。ここでは

「審かれるための再臨」

「慰める」

というのです。「最後の審判」には「世界の終末」「滅亡」という怖いニュアンスがたっぷり塗りたくられています。確かに「裁き」「審判」と聞いて良い気はしません。神の裁きの前に立つ。逃げることも誤魔化すことも出来ず、私たちの人生の行動や言葉、心までが、すべて神の絶対的な正義の基準に照らして裁かれる。それは、恐ろしいこと、本当に恐れ多いことです。でもハイデルベルグ信仰問答は、それは「私たちを慰めるのだ」と言います。なぜなら、その裁きをなさるイエスは、私たちを愛されるイエスだからです。私たちを裁くためではなく、私たちを救うためにこの世に来られて、自らを神の裁きに差し出して、十字架にかかられた方だからです。そればかりではありません。それもまた、父なる神のご計画でした。神は聖なるお方ですが、その神の裁きそのものが、私たちの間違いを許さず、罪を滅ぼさずにはおかない、というものではありませんでした。神は、罪を見逃しはなさいませんが、その罪人を罰して滅ぼすのではなく、御自身が罪の罰を身に引き受けてまで痛みを負われ、そうして人を罪から悔い改めさせ、神を信頼するよう導いてくださる。そういう正義のお方なのです。神の義は、慰めに満ちた義です。

 私たちはそういう「義」を考えません。「義理と人情」「正義か愛か」というように、どちらか一方で考えます。神を考えるにも、私たちを愛するお方だと考えつつ、でも最後にはその愛も限界が来て、恐ろしく裁いて、罪を厳しく罰して、私のことも「永遠の刑罰」に投げ込まれるのではないか、と思い込んでしまうのです。私たちの「裁き」は偏って、歪んだものになっています。善意や正義感で、真面目に考えて判断したことでも、後から考えるとマズかったり、人を傷つけたり、間違ってしまうことが多いのではないでしょうか。また、力が強い人や声の大きい人が勝って、悪いことが放っておかれていますし、おかしな出来事がたくさんあります。そういう意味では、この世界には、「誤審」が沢山あります。間違った判断で、悲しんでいる人、苦しんでいる人が沢山いることも知っています。けれども、そういう「誤審」が、キリストがおいでになる時に、すべて終わるのです。キリストの裁きによって、間違いや胡麻菓子はすべて明るみに出されます。すべての不正は糺されるのです。もう悪い者はのさばれないのです。

 しかし、その神の裁きは悪を容赦しないという以上のものです。そうでなければ、私たち自身も裁かれて、罰せられることを恐れなければなりません。イエス・キリストは、私たちのために御自身を捧げてくださいました。そのお方が来て下さるのです。そして、私たちは裁き主として来られたイエスが「わたしを、選ばれたすべての者たちと共にその御許へ、すなわち天の喜びと栄光の中へと伴ってくださる」という約束を戴いています。それは私たちが正しいからでしょうか。裁かれても大丈夫な人生を送ってきたから、叩かれても埃が出ないから、でしょうか。いいえ、私たちが多くの間違いをし、罪の心を抱えているからこそ、イエスはかつて私たちの救いのために来て下さったのです。私たちを神に立ち戻らせるため、十字架において、神の義と愛とをハッキリと示してくださったのです。そして、私たちに、イエスを信じるなら、決して滅びることはないと約束して下さったのです。であれば、イエスがやがて来られて、すべてのものを裁かれるということさえ、私たちにとっては恐怖ではなく、慰めなのです。

 再びキリストが来られて全ての者を裁かれ、恵みの御国をお始めになる。そう信じる事は、私たちの人生を方向付けます。この世界の歴史のゴールが完全に正しく、素晴らしいどんでん返しで、人知をはるかに越えた大団円のエンディングなら、今の生活への取り組みも変わらずにおれません。希望、慰め、生き甲斐を私たちは持ちます。まさに「あらゆる悲しみや迫害の中でも顔を上げて…待ち望む」生き方をイエスは下さいます。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「礼拝⑪ 御名があがめられま... | トップ | 「礼拝⑫ 神を王として迎える... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ハイデルベルグ信仰問答講解」カテゴリの最新記事