聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

礼拝② 「主の食卓を囲む礼拝」Ⅰコリント十一章18-33節

2016-10-02 15:50:15 | シリーズ礼拝

2016/10/02 礼拝②「主の食卓を囲む礼拝」Ⅰコリント十一章18-33節

 今日は「礼拝」シリーズの二回目です。前回、間違えてしまって、映しているアウトラインに「ドラマ、ダンス」とあったのにお話ししませんでした。礼拝は、三位一体の神が聖書で語られている救いのドラマに私たちが迎え入れられることです。三位一体の神が踊っているダンスの輪に私たちも迎え入れられるのが礼拝なのです。そういう礼拝理解から始めたのです。

1.主の食卓を中心に

 では、そのような礼拝の中心にあるのは何でしょうか。賛美も祈りも、聖書朗読も献金も、どれもが大切ですが、一番分かりやすい礼拝の象徴は、主の聖晩餐なのです。今日もこの後、ここで聖餐式に与ります。まだ洗礼を受けていない方にとっては、洗礼を受けるとどうなるか、最も分かりやすいのは、主の晩餐で一緒にパンを食べ、杯を飲むことが出来るようになることではないでしょうか。ですから、主の聖晩餐を膨らませていったのが礼拝である、そう考えたら良いのです。聖餐式がない週も、礼拝の中心には私たちを招かれる主がおられます。いつも会堂には主の食卓が見えて、この事を覚えさせてくれたらいいと思います。

 勿論、「聖餐だけでもいい」という訳ではありません。聖餐だけでは意味が分かりません。実際、教会の歴史では早くから聖餐に迷信が入り込みました。パンと葡萄酒がキリストの肉と血ならば、そこに神秘的な力があるに違いないとか、それによって奇蹟が起こるという考えも入ったのです。主の血をこぼしたらとんでもないから、と葡萄酒は信徒に飲ませないで、司祭が代表してみんなの分を飲むのが一般化していました。宗教改革はそういう逸脱に対して福音を強調したのです。聖書の福音を語り、聖餐が主の恵みの食卓である意味を回復したのです。聖書を説き明かし、福音を信徒が理解して陪餐することを大事にしたのです。

 しかし、その反動で、説教が偏重されて、聖餐が疎かにされた面がプロテスタントにはあります。今でも礼拝は「説教を聞きに行く」という誤解は多いです。説教(むしろ、講義)を聴き、ためになるお話や雑学や道徳を聞いては「今日の礼拝は良かった(面白くなかった)」と帰る、それは説教でも礼拝でもないのです。聖書を説き明かしながら、神の福音を伝え、一人一人をキリストに結びつけ、神の子どもとして育てるのが説教です。説教で養われるなら、聖餐において示される福音がもっとわかり、キリストの体の有り難みを噛みしめながら味わうようになります。神の国で食卓に着くことをいよいよ待ち望むよう養われます。ですから、福音の説教が見える形で示される主の聖晩餐こそ、礼拝とは何であるかを最もよく示しています[1]

2.「これはあなたがたのための、わたしのからだ」

 今日のⅠコリント11章でパウロはコリントの教会の分裂を戒めています。20節に、

あなたがたはいっしょに集まっていても、それは主の晩餐を食べるためではありません。

とありますが、逆に言えば、主の晩餐を食べることが、教会が一緒に集まることの目的(少なくとも、その一つ)だということです。そして、集まってもバラバラに食事をして、自分の腹を満たすことしか考えていない状態を非難しています。そしてその時に、そういうあり方が、聖餐における主の御心を弁えないことだ、という論拠で諭そうとするのですね。

23私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、

24感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」

25夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」

26ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

 聖餐は、主が私たちのために死んで、私たちにいのちを与えてくださった記念です。パンは、主が十字架で裂かれたからだを、杯は主が十字架で流された血を現し、それを主が私たちに差し出してくださったことを覚えます。その主の死に基づく新しい契約に私たちは確かに与っていることを確認します。主の死によって、私たちがすべての罪を赦していただいて、神の民とされたこと。その福音を、パンを食べ杯を飲むことで確証させていただくのです。

27したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば…

というのも、その主の御体を弁えるという相応しさです。自分で清くなれとか、相応しくないからダメだ、じゃないのですね。むしろ、自分には相応しさなんてこれっぽっちもないけれど、ただ主が一方的な恵みによって私のためにもその体を捧げて、死んでくださった。そう「わきまえ」て、悔い改めと感謝をもって、すばらしい恵みの食卓に着かせていただくのです。

3.ともに主の食卓に 「聖餐共同体」

 聖餐が礼拝のイメージを現しているという時に、もう一つだけお話ししておきたいのは、ここに集められるのは自分だけではなく、私たちがともに集められている、ということです。今日のⅠコリントでも「一緒に集まる時」のことが取り上げられていました。我先にと自分さえ満腹になれば良い、という態度は主の御体を弁えていない、とパウロは本気で叱っていたのですね。同じⅠコリントの前の十章では、パウロはこう言っています。

十17パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。

 一つのパンをともに戴く。そこには私たちはみんなキリストに招かれて、一つの食卓に着き、一つの体として互いに結びあわされたことが示されています。自分が神を礼拝する、キリストの恵みに与って罪を赦され、神の子どもとされて良かった。そういう垂直の関係だけが礼拝ではないのです。キリストの招きは、私たちを互いに神の家族として結びつけてくださる招きでもあるのです。礼拝において、神が求められるのはご自身への賛美や献身だけではありません。神は私たちを互いに出会わせ、結び合わせられます。それも、私たちにとって好ましい「いい人」とではありません。一人一人個性があり、違いがあり、癖がある生身の人間をお互いに、兄弟姉妹として出会わせられるのですね。家族や友人も、住む世界が違うような人も、更には「敵」と見なされる人とも、ともに主を礼拝します。そのようにして私たちを集め、一つキリストの体であるパンに与らせることが、神の素晴らしさなのです。その神の大きな愛に、私たちは自分だけでなく、他者を見る目も新しく変えられて、ともに神に栄光を帰するのです。

 私たちは潔癖好きな時代に生きていますからパンは綺麗に切り分け、杯も一人ずつ小分けにしています。本来は一つのパンを裂き、一つの杯を回し飲みしました。形も様々、量も様々。でも、それが本来の一つの食卓に着く意味だったのです。人と生きることは簡単ではありません。色々な人と、だけでなく、夫婦や親子でもです。忍耐と寛容や知恵、赦しが必要です。それを差し出すのは何でしょうか。それこそ聖餐で戴く主の十字架の愛です。互いに裁いたり批判したり、無理に合わせようともお互いせず、受け入れるよう、聖餐で招かれるのです。

 教会を「聖餐共同体」と呼ぶことがあります。教会とは、聖餐によって結ばれている共同体だ、というのです。キリストに結ばれた一つの家族、一つのパン。問題や難しさもあります。大小様々な罪や過ちが入ってきます。関係を壊す出来事には慎重に当たる必要があります。人との関係の難しさに疲れ果てている人もいます。そういう限界や問題も含めて、ここに主がおられる。主が、私たちのこの礼拝の真ん中におられる恵みを覚えつつ、主を礼拝するのです。

「天の父。今日も「ここに来て座りなさい」[2]と私たちを恵みの食卓に招いてくださいました。罪の赦しを、そしてここでの出会いを通しての恵みを感謝します。どうぞ、プライドや偽りを、人への傲慢な思いを取り去り、あなたの赦しを、赦し以上の喜びと和解に与らせてください。ともに礼拝する幸いを、今からの聖晩餐で、また、礼拝の生活を通して、味わわせてください」



[1] オットー『改革派教会の礼拝』では、第7章「主の晩餐」において、旧約、新約、初代教会からの歴史、宗教改革と現代までの歴史を概観しながら、聖餐について詳述されています。特に、「聖餐についての説明を尽くすよりも、聖餐そのものが神秘であり、礼拝の中心であり、見える神との交わりである。一つであること、理解できる言語で執行すること、犠牲ではなく恵みとして行われること、信者全員が参加すること、が宗教改革における強調」(216頁)と言った記述は今回の参考になりました。ただし、今回は、「主の晩餐」そのものについて、というよりも、礼拝について考える序論的な考察において、聖餐を入口に考える、というアプローチですので、内容も絞っています。

[2]  中村佐知さんのブログ「ミルトスの木かげより」の2016年9月11日「Come, sit at the table 」に次のような詩が紹介されていました。Come, sit at the table. 「三位一体の神が、私を主の食卓に招いてくださる。/来て、座りなさい、と。/来て、わたしが与えるものを味わいなさい、と。そして、/わたしがだれであるかを知りなさい、と」http://rhythmsofgrace.blog.jp/archives/10568035.html

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