2018/8/19 ルカ伝4章16~30節「恵みを伝える 5つの愛の伝え方②」
先週から「愛を伝える5つの方法」をテーマに話しています。今日はその一つ目「肯定的な言葉」について見ていきましょう。キリスト教は愛を重んじる宗教ですが「聖書の宗教」でもあります。聖書という本=言葉を大事にし、神の言葉を聴く、「生きる言葉の宗教」なのです。
1.この聖書のことばが実現した
このルカ四章の出来事は、イエスがその三年間の活動を始めたばかりの頃に故郷のナザレの会堂で礼拝に出かけた時の事です。当時のユダヤ人は地域ごとに会堂(シナゴーグ)を作り、土曜日には集会をしていました。皆で詩篇を詠い、代表者が立って聖書を朗読し、座って解説をしました。ここでも
「預言者イザヤの書が渡された」
とあります。聖書の言葉、神の言葉を聴き続け、そうして生きていたのです。神の言葉に聴き続けていた。これが聖書の民の姿です。
そこにイエスは来られて、このイザヤ書の箇所を読み上げました。
18「主の霊がわたしの上にある。
貧しい人に良い知らせを伝えるため、
主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。
捕らわれ人には解放を、
目の見えない人には目の開かれることを告げ、
虐げられている人を自由の身とし、
19主の恵みの年を告げるために。」
その後、座ったのは説教をするためです。皆がイエスに注目する中、イエスはこう仰います。
21…「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」
主がわたしを遣わされた、というその言葉が成就した。つまりイエスは自分がそのイザヤ書にあった「わたし」だ。今日自分が来たことによってイザヤ書に書かれていた言葉があなたがたに実現したと言ったのです。聖書の言葉は、イエスにおいて実現しました。私たちが今ここで礼拝に来て聴き、毎日の生活でも聖書を開いて聴いているのは、ただの知識や道徳や神の命令や生きるヒントではないのです。イエス・キリストにおいて事実となった言葉なのです。イエス・キリストが実現して下さる言葉です。たとえ私たちが誤解したり、疑ったりしているとしても、それでも神は聖書に約束されている事をすべて果たして下さる。その事が、イエス・キリストがこの世界に来てハッキリとお示しになったことです。良い知らせ、解放、目が開かれること、自由、恵みの年。そういう良い言葉を、神は語るだけでなく、事実となさるのです。
旧約聖書で「言葉」と訳された言葉で一番沢山使われるのは、ヘブル語のダーバルです。この単語には言葉の他に「事実・出来事」という意味があります。むしろ、神の言葉は事実や出来事と一体です。神が天地創造の初めに
「光、あれ」
と仰れば、光があったのです。言葉は事実を作りました。口ばかり、中身は空っぽというのは本来の言葉ではなく、嘘です。神の言葉は事実です。ヨハネの福音書はイエスを
「ことばが人となった」
方と紹介しています。
2.「捕らわれ人」のコトバ
このように聖書には愛の言葉があり、イエスはその言葉を実現するため人となって下さいました。「だから私たちも愛の言葉を語り、愛に生きましょう」と言って済めばこんなに簡単なことはありません。そんな綺麗事は信じられない、というのも私たちの現実です。
イエスの言葉を聴いたナザレの人々もそうでした。褒めはしたものの、直ぐに文句をつけ、証拠を求め始め、最後は憤って殺そうとするのです。イエスもそれをご存じでした。本来、言葉は事実と一つで、出来事を作り出すのですが、神の言葉を信じずに背を向けて以来、人間の言葉は事実とは違う、ただの言葉になってしまいました。皆さんの中でも、言葉で傷つけられた経験、裏切られたり振り回されたり、信じて損をした、言葉を信じるのに正直疲れてしまった、という思いがないでしょうか。人の言葉を聴いても素直に受け取りたくても出来ない。そうであれば、神の言葉の聖書を読んだり説教を聴いたりしても、どこかで「騙されたくない」と思うのです。
18節の
「捕らわれ人」
には、社会的な束縛から何かの強迫観念に捕らわれている人まで入るでしょう。
「虐げられた人」
も深刻な虐待家庭で育った人や一時でも苦しい虐(いじ)めにあった人も含むでしょうか。言葉で「大丈夫、もう安心して」と言っても、到底無理になる経験です。心と体に染みついた事実と余りにかけ離れた言葉は、頭の上を通り過ぎるだけかも知れません。イエスは捕らわれ人、虐げられている人のそうした深い傷、言葉を信じるのが難しい痛みをよくご存じでともに深く痛んでおられます。だから「ただ信じなさい」と仰るのでなく、自分がその言葉の実現となって、人の中に飛び込んで来て、神の良い知らせとなってくださいました。神の恵みを告げ、聖書の約束が本当であることを体現してくださいました。そうすることで、イエスは人を深く解放され、自由を吸い込ませ、主の恵みを体験させてくださるのです。そうして主の恵みに根差すことで、私たちの語る言葉も、本当の言葉になります。それも本当だけど偉そうで威圧的な思いがにじみ出る言葉でなく、神の恵みに目を向ける者として語るよう変えられるのです。イエスが仰った
「主の恵みの年」
は、一人一人にとってだけでなく、互いにも恵みを語り合う時の始まりであるはずです。今はまだ無理でも、そこに向かっているのです。
3.主の恵みから語る
私は聖書の言葉を大事にして、自分の言葉も大事にしたいと思っている牧師です。同時に、「言葉は不完全な道具だ」という事実も大事な気づきだと思うのです。言葉は難しい、誤解されるし、伝わりにくいし、本当に言いたいことが上手く言えなくて、その場凌ぎで言わなくてもいいことを語ってしくじった経験ばかりです。でもそれは自分が悪いとか相手が悪いとか、「もっとうまく言えれば失敗がなくなる」、ではありません。ヤコブ書三章は
「2言葉で失敗しない人はいない。…舌を制することができる人は、だれもいません」
と断言します。イエスもここで誤解され、憤りを買いました。言葉は不完全な道具です。だから大事なのは、どう語るかより、まず静かに聴くことです。言葉を出す以前に、まず自分の心の不安や恐れ、罪の思い、荒んだ思いを認めて、主の恵みの言葉に十分聴くことです。私たちの足りない不完全な言葉よりも大きな主の愛に静かに聴くのです。心が弱いまま必死に語ることを一旦止めて、自分がしゃべらなくても良い主との交わりの中で落ち着くのです。自分の中に恐れや諦めに捕らわれていた思いに気づかされ、罪責感や批判の虐げから自由にされる。神に代わって、自分が人や自分の主になろうとしていた、そして雁字搦めになっていた罪から救い出される。そういう事実が私たちの中で積み重ねられるときに、言葉もまた命が通って来るのです。
創世記一章で主がアダムに与えられた命令は、禁止は一つだけで、後はすべて肯定的な言葉でした。
「生み、増え、地を治めよ、休み、耕し、すべての美しい果樹から思いのまま食べよ」
と惜しみない祝福でした。神はダメを並べるのでなく、生きる意味、大いなる使命、信頼、祝福を語られました。そして私たちも互いに、ケチや義務や揚げ足とり以上に、喜びや励ましの言葉こそ届け合うよう勧められています。私たちはつい気になることに焦点を当ててしまいます。言わなきゃ良いことを言って、ギスギスさせてしまいます。神も批判や禁止を言っていると思い込みやすいのですが、しかし主が語られたのは、命の言葉です。私たちの舌も命の言葉、恵みの言葉を掛け合うようにと与えられています。そして、主はそうしてくださるのです[1]。
言葉がどれだけ大事かは、人それぞれに個人差があります。そしてお互いにうまく伝わらないもどかしい経験をし続けるでしょう。しかし、そんなぎこちない私たちのキャッチボールも主の大きな恵みの手の中にあります。主がこの世界の真ん中に来られて、解放、自由を始めてくださいました。恵みの年が来ると宣言されました。その恵みの年に向かって、私たちは歩んでいます。御言葉に励まされ、聖霊に導かれ、不完全な言葉を精一杯使いながら、思いを伝え合い、不完全な言葉の奥にある思いを受け取り合っていくように、召されているのです[2]。
「主よ、あなたは人となった神のことば、あなたのうちには嘘も限界も何一つありません。言葉を信じることが難しいこの世界で、あなたは恵みの言葉を力強く語られ、私たちを解放し、あなたのものとして取り戻してくださいました。この約束を私たちが静かに聴き、また互いに届け合えるよう助けてください。私たちの唇もあなたの恵みの器としてどうぞお用いください」
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