2018/9/16 ローマ書12章1-10節「聖なる身体 5つの愛の伝え方④」[1]
「5つの愛の伝え方」シリーズ、四つ目として「スキンシップ」を取り上げます。身体を触れることは愛の伝わる大切な手段です。だからこそ、無闇に人に触れないほうがいいとも言えますが、私たちの身体の感覚には他に代えがたい大きな力があります。子どもはたっぷり抱っこされて育ち、大きくなるものです。そのように神が人間を作られたことは聖書の人間観です。
1.霊的な礼拝とは
今年の春、福音主義神学会の研究会は「身体性」がテーマでした。私たちのカラダについての学びです。どうも教会は人間がカラダある存在だと余り考えて来なかったんではないか、「魂の救い」ばかり言って「身体性」を後回しにしてきたのではないか、という反省も込められていました[2]。
私たちはどうでしょう、自分の体の声を聞いているでしょうか。頭や義務感だけで動いて、自分の体にある欲求や孤独には耳を塞いでいないでしょうか。「眠たい、お腹すいた、どこかが強張っている、病気や不調の心配がある」そうした感覚はありませんか。そうした身体の感覚は無視してはなりません。体の声を向き合わずにただ抑えつけ、無視するなら、それは私たちを振り回し、支配し、時には爆発してくるでしょう[3]。それは「自分の信仰の弱さ」や「罪」だからではありません。主は、その弱さや欲望、特徴も含めて、様々なサポートを必要とする身体を持つものとして人間をお造りになりました。私たちは体の声に向き合い、体を生かし、またお互いの身体を通して、主の恵みを味わっていくのです。[4]
今日のローマ書12章。ローマ書は1~11章まで、キリスト教の教理、堕落の現実と圧倒的な恵みによる救いについて丹念に語ります。その主の圧倒的な恵みを受けて、12章以下「ですから」と読者のローマ教会(そして私たち)への「勧め」が語られます。その実践の最初が
ローマ十二1あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。
私たちの体を献げる。皆が生贄になるとか、牧師や伝道活動に人生を献げる事でしょうか。2節以下
「心を新たにすることで、自分を変えて頂く」
私たちの考え、思いを神の恵みの福音に基づいて一新されて生活することです。体を殺して神に献げるのではなく、体を生かして神の御心を求めて生きる。それこそが神に喜ばれ、完全なことだ、というのです。欄外を見ると、それこそが
「霊的な礼拝」
という訳も紹介されています。聖書が言う霊的な礼拝とは、精神や魂のことではなく、体を生かすことなのだ、この体の営みすべてを神への献げ物として、神の御心を求めつつ生きること。それが聖書の語る「霊的」なことだと言われているのです。
2.体の献げ方
では具体的にどう生きることが神の御心にかなった生き方か、これは3節以下16章まで語られています。一人一人が異なる賜物を持っているので、お互いに違いを認め合い、仕え合いなさい。9節以下、
愛には偽りがあってはならず、悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し合い、尊敬し合いなさい。
よく知られた
15喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい
もあります。こうして生きることが、神に喜ばれる、聖なる生きた献げ物としての生活です。その最初4節以下をもう一度見ましょう。
4一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、5大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。
この「からだ」はキリストの体ですが、同時に私たち一人一人の体を結びつけています。理念とか譬えで「一つの体」と言っているのではなく、私たちがこの体で実際に助け合い、それぞれの存在を喜ぶ。喜んでいる時には一緒に喜んで、泣いている時にも、何とか励まし泣かずに済むようにと考えるのではなく、傍らに佇んで、一緒に泣く。そういう体の在り方が、神の憐れみによって勧められている、新しい生き方、体の献げ方、神の喜ばれる礼拝なのです。
Ⅰコリント6章でもパウロは、
あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。
と言います。コリントの教会に淫らな行いをしている信徒がいる問題を取り扱って、
15…あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。[5]
と言うのです。「淫らな行いが道徳的に悪い」という責め方ではないし、「淫らな行いなんかしたのだからキリストの体ではない」でもなく、それでもあなたの体は主の体の一部だ、なのです。
ローマ書の言葉もそうです。私たちのからだは神に喜ばれる聖なる生きたささげ物とされる。私たちは自分の身体に劣等感があったり、傷をつけたり、汚れた体だと思わずにおれない経験をしていることもあるでしょう。しみやシワだらけでも、病気や傷があっても、どんな体でも、その体は、神に喜ばれる、聖なる生きた献げ物とすべき体だ。私たちの側で何か条件を満たそうとか、汚れてしまってダメだとか、そんなことは一切なくて、ただ、神の圧倒的な憐れみの故に、私たちは体ごと、聖なるものとして神に受け入れられるのです。
3.キリストの受肉
体への拒絶とか暴力は、魂の深い所まで傷つけます[6]。人に触れたがらないのは、スキンシップが全く要らない人とは限らず、逆に本当は温かい触れ合いが要る時に、虐待や暴行を受け、深い人間不信に陥って、自尊感情も持てない場合もあるでしょう。徳島県立近代美術館で特設展があった佐野洋子さんは4歳の時、お母さんの手を繫ごうとしたら撥ね付けられて、「二度と母とは手を繫がない」と決意して、六十年間苦しい関係を続けたそうです[7]。AIDSへの偏見をなくす活動に参加した芸能人が、患者さんに「ありがとう」と握手をされたら、すぐにその手をごしごし洗わずにおれなかった、と告白していました。手を繫ぐ、繫がないというのは、本当にその人を愛しているかのバロメーターにもなります。そして私たちは、多かれ少なかれ、そういう体験を受けたり触れなかったりという記憶を持っていないでしょうか。教会での性的虐待の報道が続いていますが、そんな目に会ったら、教会やキリスト教や人生にも嫌悪感が生涯拭えなくても仕方ないと思います。
しかし、最も聖なるお方である神の子イエスは、人となってくださいました。人間と同じ肉体を取ってくださいました。私たちと同じ、この体、肉体を取ってくださいました。相手にされなかった病人に触れたり、子どもたちに手を置いて祝福し、疑って沈みかけたペテロの手を取りました。そして最後にはご自分が、鞭打たれ、唾を賭けられ、十字架につけられて、呪わしい、忌まわしい体で死なれました。神はそのイエスをよみがえらせて、弟子たちは生きているイエスと再会したのです。その体には醜い釘の痕や痛々しい槍の傷がありました。
それは、神がこの世界に満ちている様々な暴力や、その結果の消えない傷を知っておられる証しです。
私たちにどんな汚れや罪があろうとも、そっと触れてくださる証しです。
私たちの体を神が決して忌み嫌うことなく愛して、回復してくださり、また私たちのお互いの傷のある存在を通して、愛や大事さ、慰め、励ましを与えてくださるのです。
今イエスは天におられます。イエスはご自分が本当に肉体を取り、裂かれたことを示すために、聖餐を定めました。パンと杯を通して、私たちはイエスに触れ、味わい、イエスとの交わりを持ちます。とはいえ、それは不完全な触れ合いです。実際のイエスに触れることには適いません。本当に主に触れて頂きたい、触れたい、ですよね? 聖餐に与るたびに私たちは、主の日をますます待ち望むのです。
それまでの間、お互い体を持つ生身の人間として、繊細に、大事にし合いましょう。夫婦や親子は触れ合いが必要な場合が特にあるかもしれません[8]。いずれにせよ私たちが、自分の身体を主の聖なるものとして愛おしむようになり、体全体で世界を味わい、体が発する声に耳を傾け、体を労るようになれたら嬉しいではありませんか。身体性を見失ったキリスト教から、主が本当に肉を取ってくださったと告白する教会になりたいものです。
「人となられた主よ。あなたの受肉によって、この身体が、持て余すような汚れた身体から、測り知れない価値と使命を与えられ、弱さや痛みさえも恵みに輝くようになりました。しかし身体を傷つけられ、深く癒やしがたい傷も世界には溢れています。憐れんでください。私たちが主の愛を受け取り、主の温かさを伝えるよう、どうぞ一人一人と交わりを癒やしてください」
[1] 今回の説教には、ブログ「ちょうをゆめみるいもむし」の『聖なる生きたそなえ物』がタイムリーに掲載されて、大きく刺激を受けています。付してお礼を申し上げます。
[3] 後藤敏夫氏が、ヘンリ・J・M・ナウエン『イエスの御名で』を引きつつ、以下のような文章を書いています。「ナーウェンが『イエスの御名で』の中でこの問題に触れています。霊的な指導に活きている男女が、実にたやすく、非常に淫らな肉欲にふけってしまうことがある、と彼は言います。そしてそこで、霊性ということが肉体を離れて精神化してしまうと、肉体の命は肉欲に陥る、と彼は言うのです。あるいは、牧師や司祭がほぼ観念の世界だけのミニストリーに生き、自分が伝える福音を一連の認識や思想にしてしまうと、肉体は愛情と親密さを求めて叫び声をあげ、すぐに復讐をしかけてくる、とナーウェンは言います。 数年前、アメリカのテレビ伝道者のセックススキャンダルが問題になりました。ああいうことも、ただ性欲の問題ではないと思います。心と身体という私たちの全人格が共同体から離れ、個人的な英雄主義と虚構のセルフイメージで観念的に福音を語るとき、魂の内面に地割れがおき、肉体が親密さを求めて復讐するのです。テレビ伝道者のような人々は、おそらく、スポットライトを浴びながら、観念と虚構の中で福音を語りながら、自分が身体(性)をもって生きる共同体をもっていません。私のような者でも、歓迎され、少しヨイショされるような集会でご奉仕した後は、自我が膨張して、その帰り途、心の隙間に空虚な風が吹き、身体が等身大の親密さを求めて、肉的な誘惑に弱くなるという体験をすることがあります。ナーウェンは、こういうことは受肉の真理を生きることを知らないことによって生じる、と言います。」ブログ「どこかに泉が湧くように」1993年講演記録
[4] 典型的な精神主義として、「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉がありますが、天地創造の神を告白するキリスト者は、むしろ「心頭を滅却せず、火の温かさを味わおう」という招きを聞くのです。
[5] Ⅰコリント六15あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。それなのに、キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。そんなことがあってはなりません。16それとも、あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」と言われているからです。17しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。18淫らな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。19あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。
[6] 「愛を伝える5つの方法」に私たちの身体がある、ということは私たちの体が神の聖なる器だということの一部です。赤ちゃんを抱っこする、夫婦が抱き合う、友人が肩を抱き、敵同士が握手をして和解をする、そうして安心や愛を文字通り体感する。それは、神が私たちの体を喜んでくださっている証しです。
[8] 日本人にハグの習慣はまだ馴染みが薄いですから、もっと軽い握手やタッチから始めたらよいでしょう。そして、それが苦手な人もいることも忘れず、デリケートであったほうが良いでしょう。重い自閉症で、親が触れることも出来ない、というケースもあります。特に、異性の場合は控えた方が無難です。そして、決して傷つけるような触れ方は許されません。逆に、自分の身体を傷つけられそうになったら、遠慮なく守ってください。それが出来なくて、傷つけられてしまったら、恥じることなく、助けを求めてください。私たちの体は、自分や誰かがぞんざいに扱ってよいものではありません。キリストのものです。
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