聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2019/10/27 マタイ伝3章13~17節「今はそうさせてほしい」

2019-10-27 21:05:07 | ニュー・シティ・カテキズム
2019/10/27 マタイ伝3章13~17節「今はそうさせてほしい」
 キリスト者としての公式なスタートは、洗礼(バプテスマ)という主の御名によって水を受ける儀式です。見えないスタートはイエス・キリストと出会い、イエスを人生の主として受け入れた時から始まっていますが、そのイエスご自身が洗礼を命じたのです。このマタイ福音書の最後二八章の結びでこう仰ったのです。
「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。19ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、20わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」[1]。
 この言葉があるから教会は洗礼(バプテスマ)を大事にします。そして今日の箇所、マタイの3章ではイエスご自身が洗礼を受けています。イエスの働きは洗礼から始まりました。3章の前半で洗礼者ヨハネが大勢の人に洗礼を授けていましたが[2]、それに混じってイエスが洗礼を受けたのです。そしてこの後、洗礼については28章までひと言も出て来ず、最後の最後にイエスは弟子たちに
「父、子、聖霊の名においてバプテスマを授けなさい」
と言われます[3]。言わば洗礼とは、イエスがお受けになった洗礼を私たちも受ける、という出来事なのです。私たちは洗礼によってイエスに結ばれた(結ばれる)のです。
ローマ6:3…キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。
 イエス・キリストが受けた洗礼を、私たちも受けることによって、私たちはキリストに結ばれるのです。ではイエスはこの洗礼を何のために受けたのでしょうか。まずヨハネが
「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか」
と萎縮したように、イエスは洗礼を受ける必要はありませんでした[4]。洗礼は人間にとっては、今まで神に背を向けてきた生き方から、主をお迎えする準備をする生き方に方向転換をするという決断を表します。神に背を向けてきた罪を告白して、またそれぞれに覚えのある罪を告白してお詫びすることも伴います。そういう意味ではイエスには洗礼は必要ありません。イエスには罪がありませんし、罪を洗われたというシンボルの水の洗礼も必要ありません。イエスは、自分の罪をきよめられるために、ではなく私たちを義とするために洗礼を受けました。
3:15しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」…
 「正しい事」は以前1章19節で
「正しい人」
とあった所でもお話しした、マタイの福音書が丁寧に問う大切な言葉です[5]。人間の「義」は正しさを求めますが、正しくないことを裁いて責め、罪人を断罪します。しかし、イエスが語る
「神の義」
は、正しくない人にも光を与え、雨を注いで、新しい生き方を与える「義」です。断罪して切り捨てる正義ではなく、赦しと回復を与える「神の義」です。この「神の義」をルターが発見したのが「宗教改革」です。洗礼自体が神の赦しと回復の保証です。神の義は、人間の基準ではふるい落とされるような人にも、希望と新しい生き方を与えます。イエスは、その洗礼の持っている「神の正しさ」を、ご自身の洗礼によって実現しました。だから私たちは、洗礼を通して、イエスご自身が洗礼を受けたように、この洗礼を通して私も神の赦しと新しいいのちを戴ける。私を裁く義ではなく、私を罪から救ってくださる神の義を頂ける、と信じることが出来るのです。
 イエスにとって罪ある人間の列に混じるのは屈辱的なことです。プライドが高ければ許せないことです。しかしイエスは
「今はそうさせてほしい」
と言います。今日の説教題です。これは「そのままにする」「放っておく」「させておく」「手放す」「開放する」と訳される言葉です。イエスが十字架で死ぬ際
「大声で叫んで霊を渡された」
とあるのもこの言葉です[6]。最も有名なのは「(罪を)赦す」です。「赦す」とは、罪を罪として手放すこと、握りしめたり、その人と紐付けたりせず、「それはそれ。あなたはあなた」と放っておく。手放す、なのです。日本語の「赦す」も「緩める」から来ているそうです[7]。聖書の「赦し」も似ています。握りしめていた手を開く、自分の持っていたものを明け渡す、どうにかしてやろう、どうにかしなきゃ気が済まないと思うことを止める。
 「赦さないことは、人間にとっては、重すぎる重荷だ」
と言う言葉があります。赦すとは、憎しみという重すぎる重荷を手放すことです。勿論、罪の赦しの具体的な方法は丁寧に扱われるデリケートな問題です。ともかくこの言葉は、罪の赦しだけでなく、「させておく」など別の意味で沢山使われる、イエスがよく使われる、解き放つ、自由にする、という在り方。しかも、マタイでのイエスの最初のセリフがこれです。罪の赦しを命じる以前に、「わたしを放っておいてくれ。わたしのしたいようにさせてほしい」。そうして、人に説教をするより、人に先立って洗礼を受けた。それが正しい事だから仕方なく、実は嫌々、ではなく、イエスは自分から「洗礼を受けたい」と願った。イエスの自由な選択・願望です。喜んで、ワクワクして「洗礼を受けたい」、罪人の列に並んで「本当に神があなたがたを招いていると知って欲しい」、そういう神の正しさを実現したい。「罪の赦し」という、高尚で難解な道徳を命じたのではなく、私たちを自由にしたかった。緩めたかった。そして、イエスご自身が最初に「今はそうさせてほしい。今はわたしを放っておいてほしい。わたしを自由にさせてくれ」と仰って、その自由の中で、洗礼を受けたのです。イエスは、本当に自由なお方で、私たちをも自由にしてくださる。自分の罪からも人の罪に対する憎しみや恨みからも、人間的な「正しさ」からも開放してくださるのです。そのために、罪人の列に立ち、十字架への道を歩み出すことも構わないお方でした。
3:16イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。17そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」
 この言葉は先に読んだ詩篇2篇とイザヤ書42章の言葉を思い出させます[8]。旧約聖書から待ち望まれていたお方が遂においでになった。イエスのそれは力強く光り輝く姿であるより、罪人の列に混じって洗礼を受ける姿。そのイエスに、聖霊は火よりも鳩として現れ、神は
「これこそわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」
と愛の宣言を仰います[9]。ヘンリ・ナウエンは
「イエスの公生涯の核となる瞬間」
がこの言葉を聞いた瞬間だと言います[10]。神は御子イエスが罪人の列に並び、神の義に与らせる、屈辱の道を歩むに当たって、愛の言葉、無条件の承認の言葉を天から聞かせてくださった。洗礼の時のこの宣言が、イエスの生涯を貫くのです。
 この後イエスは4章で、厳しい試みを受けます。その先もイエスの働きは反対を受け、憎まれ、絶えず試みられます。本当に
「あなたが神の子なら」
証明して見よ、本当に神があなたを愛しているならどうしてこんな苦しみが、と挑発が続きます。最後の十字架でも、
「もしおまえが神の子なら自分を救え」「神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから」
と嘲笑されるのです[11]。それでもイエスは最後まで私たちの側に立ちました。中傷や誹謗や疑いの声があっても、天からの
「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」
という声は真実でした。それゆえ十字架の死後、百人隊長がイエスを指して、
「この方は本当に神の子だった」
と言わずにおれませんでした。神の愛の言葉が勝ったのです。
 洗礼は、このイエスに結ばれる洗礼です。それは試みがない保証ではありません。むしろ、「神が愛なら、どうしてこんなことが起きるのか」と試される出来事もあるのです。しかし、どんなことが起きようとも、イエスはともにいてくださる。イエスが私とともにいてくださる。その声に聴きながら、自由にされていきたい。罪や憎しみや、「どうして?」と思いたくなるような出来事も、手放して、そのままに置いておいて、私たちは自分として自由に生きるのです。洗礼で私たちも、イエスと共に「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と言う声を聞きました。これが神の義の声です。この言葉を聞き、語り合い、自由にされたいのです。

「私たちを愛したもう主よ。あなたの愛は無条件に無制限に、私たちに届けられています。イエスの洗礼に与らせて、私たちに確証されたこの恵みを感謝します。疑いや恐れや焦りの声も絶えず聞こえますが、主よ、どうか私たちが恵みの言葉を聞き、希望の言葉を語っていけますように。あなたの正しさがどれほど慰めに満ちた力強いものかを追い求めさせてください。」

[1] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[2] 3章の前半では、この時代、紀元1世紀のユダヤで洗礼者ヨハネが、救い主を迎えるために準備をするよう呼ばわったことが書かれていました。大勢の人々がヨルダン川にやってきて、自分の罪を告白し、ヨハネから洗礼を授かりました。

[3] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[4] バプテスマのヨハネは、イエスがメシアだと知っていたとは書いていません。イエスとの問答で、自分にはこの人物に洗礼を授けてもらう必要がある、と言わずにおれなかった、という可能性もあります。ヨハネの福音書1章ではこのように書かれています。29~34節「その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。30『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。31私自身もこの方を知りませんでした。しかし、私が来て水でバプテスマを授けているのは、この方がイスラエルに明らかにされるためです。」32そして、ヨハネはこのように証しした。「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。33私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』34私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」

[5] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[6] マタイには「罪を赦す」という言葉が18回も使われますが、それ以外の訳語のほうが圧倒的です。動詞アフィエーミが40回、名詞形のアフェシスが1回。この多さは、福音書の中でも群を抜いています。

[7] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[8] 詩篇2:7「私は主の定めについて語ろう。主は私に言われた。『あなたはわたしの子。わたしが今日 あなたを生んだ。…」、イザヤ書42章1~4節 「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。2彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない。3傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。4衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する。島々もそのおしえを待ち望む。」

[9] style="'margin-top:0mm;margin-right:0mm;margin-bottom:.0001pt;margin-left:7.0pt;text-indent:-7.0pt;font-size:12px;"Century","serif";color:black;'>[10] 「私が固く信じていることは、イエスの公生涯の核となる瞬間は、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という承認の声を聞いた、ヨルダン川で洗礼を受けた瞬間です。それこそが、イエスの核となる経験でした。自分が何者であるかを深く、深く心に刻み、それを自覚したのです。荒野での誘惑は、この霊的なアイデンティティからイエスを遠ざけようとする誘惑でした。自分はそんな者ではないと信じさせようとした誘惑でした。すなわち、「あなたは石をパンに変えることができ、神殿から飛び降りることができ、民衆をひざまずかせる力がある人です」と。しかし、イエスは言われました。「いいえ、そうではありません、違います。わたしは神に愛されている者です」。 私が思うのは、イエスの全生涯は、すべての出来事のただ中で、このアイデンティティを絶えず主張し続けた歩みだったということです。賞賛されたり、軽蔑されたり、拒否されたりした中で、こう言い続けたのです。「人々はわたしを見捨てるでしょう。しかし、わたしの父は見捨てません。わたしは神に愛されている息子です。そこに、わたしは希望を見出します」。」ヘンリ・J・M・ナウエン『ナウエンと読む福音書』(小渕春男訳、あめんどう、2008年)、35ページ。

[11] マタイ27:37~44「彼らは、「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書きをイエスの頭の上に掲げた。38そのとき、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右に、一人は左に、十字架につけられていた。39通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。40「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」41同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。42「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。43彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」44イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。」

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