2019/10/20 詩篇86篇8-10、15節「不思議である神」ニュー・シティ・カテキズム2
先週から新しく「ニュー・シティ・カテキズム」を見ています。最初は
「私たちのただ一つの希望は何ですか?」
と問い、それは
「それは私たちが私たち自身のものではなく、生きるにも死ぬにも、体も魂も、神のものであり、私たちの救い主イエス・キリストのものであることです」
と答えるものでした。私たちが持っているどんな希望もどんな楽しみも、いつかは必ず失われます。私たち自身のことも忘れて分からなくなることもあります。それでも、私たちが自分のものでさえなく、神のものである。それは私たちのただ一つの慰めです。では、その神とはどんな方ですか? 私たちの持ち主である神はどんなお方なのでしょう。それが第2問です。
第2問 神とはどんな方ですか?
答 神は全ての人とすべてのものの創造主であり、維持者です。神はその力と完全さ、善と栄光、知恵、義、そして真理において、永遠であり、無限であり、かわることがありません。いかなることも神を通して、そして神の御心によってでしか起こりえません。
神はすべての人も、すべてのものも、神が造り、支えています。これだけでも、本当に大きなことです。私は、神が造った私なのだ、ということだけでも私の理解を超えています。私だけではなく、すべての人を神が造られた。そして、人間だけでなく、すべてのもの…すべての動物も植物も、地球も宇宙も、神がお造りになった。これは、私たちの理解を超えています。そして、神がそのすべてのものを支えておられます。それは、私たちの想像を絶することです。この世界のことを知り、人間の体や心のことを知って驚いたり、生き物の不思議を知って驚いたりするたびに、私たちは、測り知れない神の業の断面を見ているのです。算数や数学、科学を学び、息を吸い込み、美味しいものを食べ、美しいものを見るたびに、私たちは神の作品に触れているのです。
そして、聖書の言葉と、この世界を通して見える神の御性質は、神の力、完全さ、善(善さ)、栄光、知恵、義(正しさ)、そして真理のお方。そのすべてにおいて、永遠で無限で変わることがありません。最初もなく、終わりもないし、限りもないし、変化したり廃れたりすることもない。これは、私たち人間には全く理解できない事実です。
人間が考える「神」はたくさんいます。精一杯、スゴい神、強い神、何でも出来る神を考えます。でも、その神は、人間と似ています。神の上に更に神がいたり、出来ないことがあったり、怒ったり困ったり分からないことがあったり、喧嘩したりします。今日のカテキズムで言われていた、「神はその力と完全さ、善と栄光、知恵、義、そして真理において、永遠であり、無限であり、かわることがありません」という神ではありませんね。せいぜい、物凄い力を持っているくらいで、完全でも、善でも、足りないし、永遠や無限や変わらないとは程遠い神です。そんな人間が考える神とは、聖書のいう、生ける本当の神は違います。そして、この神だけが本当の神で、本当におられる神です。
ダチョウは、目玉より脳みそが小さいそうです。「そんなに小さいの?」と笑ってしまいますね。バッタや昆虫は、人間の万分の一の小さな脳を持っていますが、結構、優秀な「昆虫脳」を持っています。勿論、人間はダチョウや昆虫より遥かに大きく優れた脳を持っています。でも、永遠で無限の神を理解するには、到底足りません。私たちの脳みそは、神を治めるにはダチョウやバッタと大差ないのです。ですから、このカテキズムでも「永遠、無限」といった時点で、神を説明したり定義したりは出来ないと行っています。私たちが神を限られた絵や形にすることは出来ません。聖書は神を一つの形に描いて分かりやすく引き下ろして拝むことを禁じています。神は、マンガや人が使う「神」よりも遥かに大きく、全く異なる偉大な方であることを、心に刻みたいのです。
詩篇八六8主よ 神々のうちであなたに並ぶ者はなく あなたのみわざに比べられるものはありません。
9主よ あなたが造られたすべての国々はあなたの御前に来て 伏し拝み あなたの御名をあがめます。
10まことに あなたは大いなる方 奇しいみわざを行われる方。あなただけが神です。
しかし神が、余りに大きくて、私たちとは関係のないお方、とても遠くて、手の届かない方だとは思わないでください。この神が、私たちを造り、愛して、私たちとともにいてくださるのです。神は私たちに深く関わるお方としても、比べるもののない方です。
15しかし主よ あなたはあわれみ深く 情け深い神。怒るのに遅く 恵みとまことに富んでおられます。
この世界を造られ、私たちに心を下さった神は、心をお持ちの神です。私たちの心の奥深くを知り、私たちを心にかけ、私たちを求めたもうお方です。実に、神は人間から遠いどころか、人間通しよりも近く、私たちに誰よりも近くいてくださいます。ここに、
いかなることも神を通して、そして神の御心によってでしか起こりえません。
と言われていた言葉は、私たちが自分の周りに起きることを、測り知れない神のご計画によることだと受け止める弁えになります。私たちの生き方、毎日の出来事一つ一つを神の手の中に見ていくのです。この詩篇86篇も、苦しみの中で神に助けを祈り求める叫びです。すべてが神の御心だと諦めたり、投げ出したりするのではなく、神の憐れみを信じるからこそ、神が憐れんで下さることを求めて、今ある目の前の苦しみのために祈るのです。自分のために、神が動いてくださって、私を助けて下さいと、そう祈っても良いのだと、それぐらい神は憐れみ深いお方なのだと信じているのです。
聖書には神に対するイメージが様々に出て来ます。王、光、父、岩、羊飼い。他にも農夫、母、裁判官、救い主、沢山のイメージがあります。それは、私たちが思い込んでいる、小さな、偏った神様イメージを壊してくれます。神がもっと偉大で、もっと素晴らしく、もっと私に近い、不思議な方であると思い出させてくれます。この世界の創造者であり維持者である神が、私たちを今日もこれからも生かし、愛しているのです。神を小さく、詰まらなく考えるのは勿体ないことです。この神だけを礼拝しましょう。
「創造主であり維持者である神様。すべてはあなたによって保たれています。最も小さなものもあなたに知られており、最強の力もあなたの指揮下にあります。あなたは義をもって治めておられます。あなたが望まれていることの中にあなたの最善を信じる事が出来るよう、私たちを助けてください」
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