聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

マルコ14:1-11「できたのに」

2014-04-16 10:09:16 | インポート
2014/04/06 マルコ14:1-11「できたのに」(#130、138、391) 召詞 イザヤ五五6-8

 受難週を前にして、四月を迎えました。今週と来週は、イエス様の死を、改めて御言葉に教えられて、第三週はイースターのメッセージを聞きましょう。第四週から、ルカの福音書を続けて聞きたいと思います。
 イエス様が十字架におかかりになる三日前のことでした。ひとりの女が、イエス様に高価な香油を注いだ、という出来事が起きたのでした。この香油は、5節で、売れば三百デナリ以上になっただろう、と言われるくらい、非常に高価な香油でした。一デナリが当時の一日分の労賃ですから、ざっと一年分の年収ほどにもなろうという、大変貴重な香油です 。当時、お客さんへのもてなしに、香油を注ぐという習慣はあったようですが 、この女性は、イエス様のために、最高級の香油を惜しみなく捧げたのです。これに憤慨したのが、何人もの弟子たちでした。
 4すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。
 5この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。
 6すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。
 7貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
 8この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。…」
 この女性のしたことは、無駄ではない、立派なことだ、なぜなら、それは間もなく死なれるイエス様の埋葬の用意となったのだ。そうイエス様は仰います。だから、この人のしたことを無駄だと、三百デナリもの台無しだと決めつけてはならない。そう仰います。
 ところで、イエス様が亡くなられることはイエス様ご自身が何度も予告して、証ししてこられたことですが、まだこの時は弟子のうち誰一人として悟れていなかったのですね。それは、どの福音書もその最後の復活で強調していることです。もっと弟子たちが考えて、イエス様の言葉を真に受けていれば分かったのに、というようなレベルのことではなく、復活の後でなければ誰一人理解できなくて当然の「神秘」だったのです。ですから、この時も、油を注いだ女性もイエス様の死に気付いていたのではないでしょうし、埋葬の用意のつもりで油を注いだのではないでしょう。彼女は、そこまで考えなくて、ただ出来る限り、愛するイエス様のために、ない知恵を絞って精一杯したことが、実はイエス様の埋葬の用意にもなるような大切な意味を持っていた。そう考えた方がよいようです。
 ですから、大事なのはこの女性がすごいとかその洞察が鋭かったとかではないのです。
 9まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」
とは言われても、この女性の名前も明らかではありません。それはこの人が立派だというよりも、もっと大事なのが、イエス様が亡くなられて葬られる、という事だからなのですね。この高価な香油注ぎをした女性以上に、この高価な香油注ぎを受けたイエス様が、私たちのために死んで下さったお方であることが、世界中に宣べ伝えられる「福音」なのです。この女の人の名前ではなく、どんな高価な香油を注がれても惜しくはない、尊い死を遂げられたイエス様の名前が、今も私たちに届けられているのです。
 もっとも、この女の人の行為、姿勢も大きな意味を持っています。それは、弟子たちが気付いていない、イエス様との生きた交わりを深く語っています。そのキーワードが、今日の説教題として選びました、5節の「できたのに」という言葉ではないかと思います。貧しい人を助けることが出来たのに。無駄にするより、もっと違う使い方、効果的なやり方、有名になる使い道、有効な過ごし方、神様からも人からも褒められるような人生が出来るのに…。イエス様のためだなんて勿体ない、もっと華やかで、立派な活用方法が出来るのに…。そう、人は考えやすいのではないでしょうか。でも、そういう声の裏には、本当に人を大切にして、神様の愛に生きることを「無駄」と考えるような、真っ暗な落とし穴が空いているように思います。貧しい人たちを助けるのだって、お金が沢山あっても、難しいことです。大規模な支援計画を実行することが出来ても、それが本当にそこにいる人を生かして、助けて、独り立ちさせるよりも、ただ大規模で、何百人助けたという数字や統計で自己満足するということだってあるでしょう。そして、あまり助けても役に立たない人は切り捨てる、ということだって起きるのです 。
 誤解しないで戴きたいのですが、だから教会やキリスト教の活動のために一杯献金しなさい、というのでは決してないのです。むしろ、私がここで教えられるのは、この女の人が高価な油を注いだのは、イエス様を喜ばせようとか、イエス様のお役に立ちたい、そんな計算でしたのではなかった、ということです。それはある意味では本当に「無駄」だったのです。香油は注げば終わりなのですから。それがイエス様の御用に役立つとか、他の人のために使ってもらう、ということを考えるなら、本当に三百デナリを持って来たのだと思います。でも、そうはしなかった。それを「無駄」と考えなかった。そこに、この女性の信仰がある、いいえ、イエス様への愛というものを見させられるのです。
 無駄かどうかで考えるなら、誰かを愛することは出来ません。見返りとか自己満足を計算するなら、愛から行動することは出来ません。教会でも、献金をちゃんと管理して、正しく使うという責任はありますけれども、一番基本的なことは、私たちが献金に託して自分を神様に捧げてしまう、という信仰を確かめることです。だから、たとえわずかコイン二枚しか捧げられないとしても、「この僅か分でも立派な働きが出来ますように」と考えるのでもなく、「これぐらい捧げなくても大差はないだろう」と考えるのでもなく、そこに託して自分を神様におささげするのです。日曜日や奉仕も、人や神を喜ばせるため、ほめられるため、ではなく、捧げる事、計算無しにおささげしてしまうこと、無駄なようでそれこそが最も尊い使い方だとするところに、自己中心でない、愛の心が現れるのです。
 実は、イエス様にも、同じ事が言えます。イエス様は、私たちのためにいのちを捧げてくださいました。それは「無駄」ではなかったのでしょうか。ご自分がお造りになった宇宙の、本当に小さな小さな小さな存在である人間なんかのために、神のあり方を一時(いっとき)でも棚上げして、同じ人間になり、こんなに鈍感で、無理解で、勝手な計算や綺麗事ばかり並べ立てる人間のために、ご自身を犠牲にする事は、無駄ではなかったのでしょうか。でも、イエス様は、それを無駄とはお思いになりませんでした。それは、私たちを救ったら、私たちがすごい事が出来るから、役に立つから、費用対効果が高いから、ではありませんでした。ただ、私たちを愛して、私たちを尊いと思って下さったから、です。私たちが、どれほど弱く、無力で、罪深くても、私たちは、私たちのために死んでよみがえってくださったイエス様がおられるという「福音」を聞くことが出来るのです。
 この話の前後を挟んでいるのは、1節2節でイエス様をどうしたら捕らえて殺せるかと必死に考えていたユダヤ当局が、10節11節で、十二弟子の一人イスカリオテ・ユダの裏切りによって、イエス様を捕らえるチャンスを得て喜んでいる、という経緯です 。それは、この油注ぎの出来事こそ、イエス様の死をもたらした決定的な出来事だったと言っているように思うのです。ユダはイエス様にどんな期待をしていたのでしょうか。弟子たちは、イエス様を救い主だと信じてはいたのですが、どんな救世主の働きを望んでいたのでしょうか。それは、貧しい人たちを救うことが出来、自分たちの人生や財産を大いに実り豊かにし、力やお金、時間、影響力などを無駄にしない、輝かせてくれる存在だったと言えるでしょう。だから彼らはこの女の人のしたことに憤慨した。それを尊び、無駄を無駄と思わないイエス様に、ユダは愛想を尽かしたと、ここに言われているのではないでしょうか。人の惜しみない愛を理解できない心は、イエス様の惜しみない愛も理解できないし、イエス様を十字架に殺す心なのだ、と言われているのではないでしょうか。
 私も、立派な事をしたと褒められたい。後世に名を残すとか、デキる人だと見られたい、「勿体ない、馬鹿な生き方だ」と思われたくない一人です。でも、イエス様がそういう基準で生きられていたら、私たちのために、人となられ十字架に殺されはなさらなかった。イエス様は私たちのために、ナルドの香油どころではない、ご自分の尊い血潮を注いでくださいました。それを、無駄とは思われなかったのは、私たちが何かを出来るからとかではなく、私たちを尊び、愛されたからでありました。私たちが神の子どもとされ、永遠のいのちを与えられたのは、このイエス様の、惜しみない愛、尊い死によることなのです。

「私たちのために死なれた主が、今も生きておられて、私共に尊いいのちを与えて下さっています。その愛が世界中に宣べ伝えられています。私共もまた、主に自分自身を捧げ、奉仕や礼拝や献金を心からささげることを通して、主の十字架の尊さを、計り知れない福音を証しさせてください。不器用ではあっても、精一杯の献身を、喜び合わせてください」


ヨハネの福音書十二3の平行記事では、この香油の量が一リトラ(328g、新改訳本文では「三百グラム」)であったとしています。一グラムが一デナリ、とも言える高価さです。
ルカ七46参照。
8節にも「この女は、自分にできることをしたのです」とありますが、この言葉は「自分にあることを」と訳してもよい、5節とは別の言葉が使われています。むしろ、7節に「あなたがたがしたいときは、いつでも彼ら[貧しい人たち]に良いことをしてやれます」とあるのが、5節と同じデュノマイです。更に、この言葉はマルコ十39では、ヤコブとヨハネが、イエス様の(苦難の)杯を飲むことが出来るか、との問に「できます」と答えた時や、十五31で十字架につけられているイエス様に「他人は救ったが、自分は救えない」と嘲笑した時に使われています。「できる」という発想は、イエス様の道への無理解を象徴する言葉の一つだと言えるでしょう。
この前の、十一章十二章と、イエス様を言い負かそうとしてきた祭司長、律法学者たちは、逆に完全に論破されてしまって、もう正攻法ではダメだと悟ったのです。だまして捕らえる以外にない、と思ったのです。

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