2012/9/23 ローマ書五20―21「恵みが満ち溢れる」
Ⅱ列王記二二章 詩篇一一九65~80
イエス・キリストのみわざによって、私たちも含めた多くの者が、罪赦され、義とされて、救いの恵みに与る。このことを、パウロはずっと語ってきています。繰り返し、繰り返し、このことを語っている。今日の箇所は、その、ひとつのクライマックスとも言えるでしょう。
「20律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」
ただし、この言葉もまた、前後のつながりを無視して読んではなりません。特に直接に繋がるのは、13節です。
「13というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。」
アダムから、律法が与えられるモーセまでの間、律法がなかったために人類が罪を認めることは曖昧で済ませられていました。規準がなければ、罪や違反もハッキリとは分からないものです。しかし、その時にも、アダムから入って来た罪が人類を支配していました。すべての人が死んだ、ということに、罪の支配が見て取られたのです。ひとりひとりが犯罪を犯したかどうか、ではなしに、人類の代表としてアダムが神様との契約を破った故に、人類は罪と死の支配下に置かれたのです。
けれども、それは、実はイエス・キリストが第二のアダムとして来られて、神様の前に完全に忠実な歩みを果たされて、贖いの契約を完成されたとき、そのキリストの契約に入れられた民がみな確実に救いに与る、ということの「ひな型」であって、私たちを断罪し絶望させるどころか、キリストへの確信と希望に満たすものだ、と言ってきたのです。そういう流れで、今日の箇所、
「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。…」
という言葉が語られるのです。多くの人は、律法が与えられたのはそれをちゃんと守ることで、神様に認めてもらい、救いに与るために違いないと思っています。そうではない。人間がすでに堕落して、罪と死の支配下にあったことを、律法によってハッキリと認めさせて、違反の事実を積み上げて、人間に目を逸らさずに諭させるためだったのです。今更、人間に善を行うことを期待されていたのではありません。むしろ、そういう甘い見通しを弄(もてあそ)んでいる人間の目を覚まさせるために、神は律法をお与えになったのです。自分の罪に気づかせる。ただの偶然とか不運とか個性とか弱さ、だれでもあること、ではなく、神に背いている罪が問題なのだ、そう気づかなければならないのです。
ロイドジョンズという説教者はここで言います。「地上最悪の罪人とは、自己満足し、自己完結している、善良で、道徳的な人々であり、今の自分のままで神の御前に立つにふさわしいと信じている人々である。…全宇宙で最悪の罪人とは、自分にキリストの血が必要であることを全く見てとったことのない人である。それより大きな罪はない。-殺人も姦淫も不品行も、それと比べれば無に等しい。」
そうして、神様に背を向けたまま、自分が少しでもマシだと自惚れている心が律法によって砕かれるのは、人間を絶望させ貶めるためだったのでしょうか。いいえ、そうではなく、
「罪の増し加わるところには、恵みも満ち溢れました。」
神様が人間に律法を与え、違反を積み上げて示されるのは、それによって人間が本当に謙り、悔い改めて、神様のもとに行くためです。自分がした事への報いなんかではない、ただ神様からの一方的な恵み、価のないものがいただけるプレゼントとしての永遠のいのちをいただくためだったのです。
この「増し加わる」と「満ち溢れる」の対比に注意してください。この後歌います、三〇六番は、聖歌七〇一番を新しくしたものですが、聖歌では「罪汚れはいや増すとも主の恵みもまたいや増すなり」としていました。罪が増しても、その分、それにまさって恵みが表れる。それもまた確かに真理です。私たちは、人間の罪の現実を見、自分の罪に直面させられる時、そこでまた新たに、一層深く大きな主の恵みを味わい知らせていただく、という経験をします。どんな罪も、主の恵みよりもまさるものはありません。これは本当に大きな恵みであり、不思議で尊い主の憐れみです。
けれども、教会福音讃美歌では「罪の痛みいや増しても主イエスの恵みはなお溢れる」としました。こちらの方がいいし、今日はこちらを是非歌いたいと思ったのです。罪の痛みは一層増す。しかし、それに対する恵みは、「満ち溢れる」という強い言葉です 。「いや増す」は比較級ですが、「満ち溢れる」は、これ以上ない、溢れてしまう、という、最上級です。罪よりも一歩か二歩、恵みの方が常に先立つ、というのではない。罪よりも遥かに深く豊かで強い神の恵みが露わにされるのです 。
「律法」というのは、旧約聖書の中の規程のことだけではなく、旧約聖書そのものを指す言い方でもありますから 、旧約聖書の歴史がまさに、罪の歴史であると共に、満ち溢れる恵みの歴史である、とも言うことが出来るでしょう。神様の御心に背き続けた人間の姿。そこに怒り、聖なるお取り扱いを露わにされるとともに、主は、真実な恵みをもって民を導かれ、また、預言を与えたり、奇蹟を表したり 、恵みを満ち溢れさせてくださったのです。そういう告白もたくさんあるのです 。
人は、罪の現実を見ようとせずに、神の愛だけを語り、人間の救いや希望を語ろうとすることを好みます。罪に目を瞑れば、恵みも見えなくなる、と今日の箇所は教えています。律法が入って来たのは、違反を明白にすることによって、恵みを満ち溢れさせるためでした。
「21それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」
罪が死によって支配する、とは、罪が人類に死をもたらして死すべき存在という運命を決定づけた、という客観的な面と、人間は死を恐れるようになり、死への恐怖から罪を犯してしまう、という主観的な面があります。同じように、恵みが、義の賜物によって支配する、というのも、神の民を、義とし永遠のいのちを与える、という客観的な面。そして、私たちの生きる動機が(死への恐れや不安からではなく)義の賜物をいただいた-報いとか功績のゆえにではなく、主の測り知れない、一方的な御愛とみわざのゆえに-という感謝、賛美となる、という主観的な面があるでしょう。決して脅迫とか押しつけがましさによってではなく、恵みは、主イエス・キリストのゆえに私たちを、感謝と賛美に押し出されて生きる者としてくれるのです。それが、恵みの支配ということです。外側からの強制ではなく、かといってあやふやで甘いものでもなく、恵みが私たちを支配する。心の内側から、賛美と感謝に動機づけられて歩む者となるようにと支配してくれる。罪のどんな強力な力にも勝って満ち溢れる、恵みの支配の中に私たちが今入れられている。これは何という恵みでしょうか。
けれども、これが神の御心です。理想とか希望という、果たされないかも知れないものではなく、これこそ神の目的であり、ご計画です。恵みは罪よりも深い。神の愛は、どんな悪よりも強い。だから、人間が堕落したならその回復のためには、ご自身が十字架のような苦難を引き受けるほかないとご存じでも、神様は堕落の可能性をさえ引き受けられたのです。人間がどんなに罪を重ねても、神様はそこに恵みを満ち溢れさせて、私たちをいよいよ恵みに生きる者としてくださるのです。
そして、私たち一人一人も、本当にこのような主の御心のうちにあることを感謝したいと思います。罪を抑え付けて正しく歩むことを求められているのではなく、自分の罪をまざまざと知らされるときに、そのような自分であることを百も承知の上で、神が私たちを選び、イエス・キリストがこの私のために人となり、十字架にかかりよみがえってくださったことを思い、いよいよ謙らされます。
ですから、私たちは、恵みならざるもの-恐れや不安、自分の損得や他者を操ろうとする心-から完全に自由にされ、本当に恵みによって支配されることを求めたいと思います。神様は、私たちを恵みによって支配させるために、律法を与えてくださいました。恵みの支配に成長したければ、御言葉を読むことです。それも、知識や温々(ぬくぬく)とした恵みを蓄えるためではなく、自分の罪を知るためです。それも重箱の隅を突(つつ)くように道徳的な問題を自虐的に論うのではなく、神の前に自分が何者かでもあるかのように、人よりも正しいかのように、恵みに縋り付かなくとも生きていけるかのように思い上がっている罪に気づかされて、悔い改め、主の満ち溢れる恵みに立ち帰るのです。
「私共の罪よりも遥かに大きな恵みに導かれている幸いを感謝します。自分の罪を認めれば立つ瀬がないように思うのでなく、ただ主の恵みに治められていることを喜ばせてください。私共を、この強く熱き恵みに、満ち溢れさせてください。私共は小さな器ですが、人を赦し愛する、あなた様の溢れる恵みに満たされた土の器とならせてください」?
文末脚注
1 D・M・ロイドジョンズ『ローマ書講解5章 救いの確信』(渡部謙一訳、いのちのことば社、2009年)519頁。
2 ヒュペルペリッシューオー。ここと、Ⅱコリント七4でしか使われない、強意の動詞です。
3 この路線で、パウロは「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」(八37)などと言い得たのです。
4 特に最初の五書(創世記から申命記まで)を「律法」と言いますが、旧約聖書全体は「律法(トーラー)と預言者(ナビーム)と詩篇(ケスビーム)」(ルカ二四44)と言われ(それぞれの頭文字を取って、「タナハ」と言われたりもします)、それをさらに短くして、「律法と預言者」と言ったり、「律法」と呼んだりしたのです。
5 ヨシュア記、士師記、列王記など、暗黒の時代にこそ、主の奇蹟は相次ぎました。
6 詩篇一一九篇やイザヤ書など、多数。
Ⅱ列王記二二章 詩篇一一九65~80
イエス・キリストのみわざによって、私たちも含めた多くの者が、罪赦され、義とされて、救いの恵みに与る。このことを、パウロはずっと語ってきています。繰り返し、繰り返し、このことを語っている。今日の箇所は、その、ひとつのクライマックスとも言えるでしょう。
「20律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」
ただし、この言葉もまた、前後のつながりを無視して読んではなりません。特に直接に繋がるのは、13節です。
「13というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。」
アダムから、律法が与えられるモーセまでの間、律法がなかったために人類が罪を認めることは曖昧で済ませられていました。規準がなければ、罪や違反もハッキリとは分からないものです。しかし、その時にも、アダムから入って来た罪が人類を支配していました。すべての人が死んだ、ということに、罪の支配が見て取られたのです。ひとりひとりが犯罪を犯したかどうか、ではなしに、人類の代表としてアダムが神様との契約を破った故に、人類は罪と死の支配下に置かれたのです。
けれども、それは、実はイエス・キリストが第二のアダムとして来られて、神様の前に完全に忠実な歩みを果たされて、贖いの契約を完成されたとき、そのキリストの契約に入れられた民がみな確実に救いに与る、ということの「ひな型」であって、私たちを断罪し絶望させるどころか、キリストへの確信と希望に満たすものだ、と言ってきたのです。そういう流れで、今日の箇所、
「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。…」
という言葉が語られるのです。多くの人は、律法が与えられたのはそれをちゃんと守ることで、神様に認めてもらい、救いに与るために違いないと思っています。そうではない。人間がすでに堕落して、罪と死の支配下にあったことを、律法によってハッキリと認めさせて、違反の事実を積み上げて、人間に目を逸らさずに諭させるためだったのです。今更、人間に善を行うことを期待されていたのではありません。むしろ、そういう甘い見通しを弄(もてあそ)んでいる人間の目を覚まさせるために、神は律法をお与えになったのです。自分の罪に気づかせる。ただの偶然とか不運とか個性とか弱さ、だれでもあること、ではなく、神に背いている罪が問題なのだ、そう気づかなければならないのです。
ロイドジョンズという説教者はここで言います。「地上最悪の罪人とは、自己満足し、自己完結している、善良で、道徳的な人々であり、今の自分のままで神の御前に立つにふさわしいと信じている人々である。…全宇宙で最悪の罪人とは、自分にキリストの血が必要であることを全く見てとったことのない人である。それより大きな罪はない。-殺人も姦淫も不品行も、それと比べれば無に等しい。」
そうして、神様に背を向けたまま、自分が少しでもマシだと自惚れている心が律法によって砕かれるのは、人間を絶望させ貶めるためだったのでしょうか。いいえ、そうではなく、
「罪の増し加わるところには、恵みも満ち溢れました。」
神様が人間に律法を与え、違反を積み上げて示されるのは、それによって人間が本当に謙り、悔い改めて、神様のもとに行くためです。自分がした事への報いなんかではない、ただ神様からの一方的な恵み、価のないものがいただけるプレゼントとしての永遠のいのちをいただくためだったのです。
この「増し加わる」と「満ち溢れる」の対比に注意してください。この後歌います、三〇六番は、聖歌七〇一番を新しくしたものですが、聖歌では「罪汚れはいや増すとも主の恵みもまたいや増すなり」としていました。罪が増しても、その分、それにまさって恵みが表れる。それもまた確かに真理です。私たちは、人間の罪の現実を見、自分の罪に直面させられる時、そこでまた新たに、一層深く大きな主の恵みを味わい知らせていただく、という経験をします。どんな罪も、主の恵みよりもまさるものはありません。これは本当に大きな恵みであり、不思議で尊い主の憐れみです。
けれども、教会福音讃美歌では「罪の痛みいや増しても主イエスの恵みはなお溢れる」としました。こちらの方がいいし、今日はこちらを是非歌いたいと思ったのです。罪の痛みは一層増す。しかし、それに対する恵みは、「満ち溢れる」という強い言葉です 。「いや増す」は比較級ですが、「満ち溢れる」は、これ以上ない、溢れてしまう、という、最上級です。罪よりも一歩か二歩、恵みの方が常に先立つ、というのではない。罪よりも遥かに深く豊かで強い神の恵みが露わにされるのです 。
「律法」というのは、旧約聖書の中の規程のことだけではなく、旧約聖書そのものを指す言い方でもありますから 、旧約聖書の歴史がまさに、罪の歴史であると共に、満ち溢れる恵みの歴史である、とも言うことが出来るでしょう。神様の御心に背き続けた人間の姿。そこに怒り、聖なるお取り扱いを露わにされるとともに、主は、真実な恵みをもって民を導かれ、また、預言を与えたり、奇蹟を表したり 、恵みを満ち溢れさせてくださったのです。そういう告白もたくさんあるのです 。
人は、罪の現実を見ようとせずに、神の愛だけを語り、人間の救いや希望を語ろうとすることを好みます。罪に目を瞑れば、恵みも見えなくなる、と今日の箇所は教えています。律法が入って来たのは、違反を明白にすることによって、恵みを満ち溢れさせるためでした。
「21それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」
罪が死によって支配する、とは、罪が人類に死をもたらして死すべき存在という運命を決定づけた、という客観的な面と、人間は死を恐れるようになり、死への恐怖から罪を犯してしまう、という主観的な面があります。同じように、恵みが、義の賜物によって支配する、というのも、神の民を、義とし永遠のいのちを与える、という客観的な面。そして、私たちの生きる動機が(死への恐れや不安からではなく)義の賜物をいただいた-報いとか功績のゆえにではなく、主の測り知れない、一方的な御愛とみわざのゆえに-という感謝、賛美となる、という主観的な面があるでしょう。決して脅迫とか押しつけがましさによってではなく、恵みは、主イエス・キリストのゆえに私たちを、感謝と賛美に押し出されて生きる者としてくれるのです。それが、恵みの支配ということです。外側からの強制ではなく、かといってあやふやで甘いものでもなく、恵みが私たちを支配する。心の内側から、賛美と感謝に動機づけられて歩む者となるようにと支配してくれる。罪のどんな強力な力にも勝って満ち溢れる、恵みの支配の中に私たちが今入れられている。これは何という恵みでしょうか。
けれども、これが神の御心です。理想とか希望という、果たされないかも知れないものではなく、これこそ神の目的であり、ご計画です。恵みは罪よりも深い。神の愛は、どんな悪よりも強い。だから、人間が堕落したならその回復のためには、ご自身が十字架のような苦難を引き受けるほかないとご存じでも、神様は堕落の可能性をさえ引き受けられたのです。人間がどんなに罪を重ねても、神様はそこに恵みを満ち溢れさせて、私たちをいよいよ恵みに生きる者としてくださるのです。
そして、私たち一人一人も、本当にこのような主の御心のうちにあることを感謝したいと思います。罪を抑え付けて正しく歩むことを求められているのではなく、自分の罪をまざまざと知らされるときに、そのような自分であることを百も承知の上で、神が私たちを選び、イエス・キリストがこの私のために人となり、十字架にかかりよみがえってくださったことを思い、いよいよ謙らされます。
ですから、私たちは、恵みならざるもの-恐れや不安、自分の損得や他者を操ろうとする心-から完全に自由にされ、本当に恵みによって支配されることを求めたいと思います。神様は、私たちを恵みによって支配させるために、律法を与えてくださいました。恵みの支配に成長したければ、御言葉を読むことです。それも、知識や温々(ぬくぬく)とした恵みを蓄えるためではなく、自分の罪を知るためです。それも重箱の隅を突(つつ)くように道徳的な問題を自虐的に論うのではなく、神の前に自分が何者かでもあるかのように、人よりも正しいかのように、恵みに縋り付かなくとも生きていけるかのように思い上がっている罪に気づかされて、悔い改め、主の満ち溢れる恵みに立ち帰るのです。
「私共の罪よりも遥かに大きな恵みに導かれている幸いを感謝します。自分の罪を認めれば立つ瀬がないように思うのでなく、ただ主の恵みに治められていることを喜ばせてください。私共を、この強く熱き恵みに、満ち溢れさせてください。私共は小さな器ですが、人を赦し愛する、あなた様の溢れる恵みに満たされた土の器とならせてください」?
文末脚注
1 D・M・ロイドジョンズ『ローマ書講解5章 救いの確信』(渡部謙一訳、いのちのことば社、2009年)519頁。
2 ヒュペルペリッシューオー。ここと、Ⅱコリント七4でしか使われない、強意の動詞です。
3 この路線で、パウロは「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」(八37)などと言い得たのです。
4 特に最初の五書(創世記から申命記まで)を「律法」と言いますが、旧約聖書全体は「律法(トーラー)と預言者(ナビーム)と詩篇(ケスビーム)」(ルカ二四44)と言われ(それぞれの頭文字を取って、「タナハ」と言われたりもします)、それをさらに短くして、「律法と預言者」と言ったり、「律法」と呼んだりしたのです。
5 ヨシュア記、士師記、列王記など、暗黒の時代にこそ、主の奇蹟は相次ぎました。
6 詩篇一一九篇やイザヤ書など、多数。
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