2016/10/23 ハイデルベルグ信仰問答36「生まれてくださったからこそ」ローマ八章一~四節
教会では、「神とともに歩む」とか「神がともにおられますように」という言い方をよくします。私たちが神と共に歩む。そういう言い方が出来るのは、まず神ご自身が、私たちの所まで来て下さったからそのように言い得ることです。神は、私たちとともにいると仰るだけでなくて、イエス・キリストが人間となることによって、本当にともに歩んでくださいました。それも、前回見ましたように、キリストはいきなり大人の人間になるのではなく、マリヤという結婚間近の女性の胎に宿り、胎児から始められ、出産を経て、私たちと全く同じスタートから人間として歩み始めてくださったのです。
問36 キリストの聖なる受肉と誕生によって、あなたはどのような益を受けますか。
答 この方が私たちの仲保者であられ、ご自身の無罪性と完全なきよさとによって、母の胎にいる時からのわたしの罪を、神の御顔の前で覆ってくださる、ということです。
キリストは、本当に神の御子でありながら、マリヤの胎に宿られました。だから私たちは、イエスが、神と私たちとの間の完全な「仲保者」だと信じることが出来ます。私たちと神との間に立って、仲裁をしてくださると信じることが出来ます。そして、キリストご自身に罪がないこと、そして罪がないだけでなく、もっと完全に「聖」である人として歩まれた事が、私の罪を覆うと言っています。「母の胎にいる時からの私の罪」という言葉は、恐らく、聖書の詩篇五一篇5節の言葉を引用したものでしょう。
ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。
この詩を読んだのはダビデ王とされていますが、ダビデは、王様となった時に、心に緩みが生じて、部下の美しい奥さんを奪って、その部下や他の兵士たちを殺させてしまったのです。その罪を認めた時に、ダビデは自分の罪の深さを嘆くのです。自分が幼い時から持っていた罪の思いを振り返ります。そして、母のお腹に宿った時から罪があったと言います。勿論、お腹の赤ちゃんが悪さをするわけではありません。そういうことではなく、神から離れてしまった人間は、母の胎に宿った時点で、神に背いた性質を持っているのです。それは、どうしようも出来ない、すべての人間の性質です。
でも、その自分ではどうしようも出来ない問題を、神は責めるだけだったのでしょうか。ほうっておかれて、見捨てられたのでしょうか。いいえ、そうではなく、キリストがマリヤの胎に宿る所から人間になって下さって、私たちの胎児となった初めのいのちから、ともにしてくださったのです。言い換えれば、ダビデは自分のことを
「罪ある者として母は私をみごもりました」
と言いましたが、私たちは今、主イエスを思うことによって、
「母の胎内にいるときから、主イエスはともにいてくださいました。罪ある者として母が私を身ごもった時にも、イエスは私とともにおられました」
と言えるのです。
イエスが私たちを罪から救って下さるとは、ただ罪を赦してくださるとか、罪の罰を代わりに十字架で引き受けてくださったとか、そういう事だけではありません。最後には、罪を赦してくださる、というだけでなく、今ここにある生涯、母の胎内にいのちを戴いた時点から、死に至るまでのすべてを、キリストはともにしてくださるのです。でも案外、キリストの十字架の赦しとは、最後には天国に入れて下さるということだと考えている方も少なくありません。
言わばスーパーで買い物をしているとします。いくらになるか分かりませんし、間違った商品を籠に入れているかもしれませんが、最後にはレジで、神様が全部支払いをしたり、間違った買い物はしないように調整してくれたりする、と考えたらどうでしょう。最後には、神様がうまくやってくれる、という考え方です。けれどもそれだと、たぶん、レジに並んでいると、「本当に大丈夫かなぁ。あまりにひどい間違いをして、怒られたらどうしようかなぁ」とドキドキするのではないかと思います。
でも、そうではなくて買い物の最初から、自分一人ではないなら、もっと安心ですね。だれかが一緒に最初から付き添ってくれるのです。一緒に買い物に付き合い、これは買ったら良いかなどうかな?と考えさせてくれたり、間違った買い物も気づかせたり、笑ったりしてくれて、一緒にじっくり買い物をするのです。そうだとしたら、最後に一緒にレジに並ぶ時にも、ドキドキは少ないでしょう。安心して、任せてよいのです。キリストは、レジの向こうに立って、財布を開いてお支払いをしてくださるだけのお方ではありません。私たちの人生の最初から、ともにいて、途中もずっと一緒にいてくださり、私たちの歩みをともにしていてくださいます。その途中で、私たちは罪を行動に移したり、失敗をしたりしてしまいますけれども、イエスは、私たちとともにいて、その罪さえも、恵みのお話しに変えていってくださるのです。ここに、
3…神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
4それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
とあります。キリストが肉体をとられたのは、私たちの今のこの肉体での歩みが、御霊に従って歩み、律法の要求(神の御心に従う生き方)が全うされるためでした。それは、私たちにそうしなさい、神の律法に服従しなさい、という以上に、神が御子をお遣わしになった目的だったのです。だから、神は、キリストが完全に人となる事を通して、私たちの今の歩みを御心に叶うものとしてくださるのです。
「覆ってくださる」
と言われています。「覆いをかぶせて見えなくする」とイメージです。私の罪を、イエスの罪のない聖さで覆ってくださる。ただ覆いをかけるだけなら、下に何があるのかかえって気になりそうです。なかった事にしよう、というのも余り賢い解決ではありません。でも、ただ覆うのではないのです。キリストの完全な聖さで覆われるのです。私の人生の罪や過ち、出来事の一つ一つが、キリストの聖さを被されるのです。キリストの大きな歌の、尊いドラマの中に取り込まれるのです。ダビデの大きな罪も、聖書の中では、神の赦しと恵みを表す物語になりました。主がダビデの罪も、生涯も覆って下さったからです。
同じように私たちの歩みも、イエスが覆って下さいます。「あなたの罪はちょっと酷いから、覆うのは嫌だ」などとは決して仰いません。私の人生をイエスは覆って下さる。そのためにキリストは初めから人間になられたのです。
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